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近世後期の高について

 「高」は、土地の生産力を示すものだとよくいわれる。高校の日本史でもそのように教える。ある土地が検地帳で5石と示されていれば、そこから5石の米がとれるということである。たしかに、近世初期において、幕府や大名は、年貢収入を確保するために検地を行ない、土地ごとの収穫量を想定して石高を決定した。しかし、幕藩制が確立してからも、石高は正しくその土地の生産力を示し続けているといえるのだろうか。秋田藩の場合、転封後の領内総検地は3度行われており、最後のものが、正保3年(1646)から慶安元年(1648)にかけて実施された「後竿」(あとざお)と呼ばれる検地である。その後に行われた検地は、新田開発に対して実施されたものか、農民たちの要請に対応して行われる打直うちなおし検地である。前者は当然新たな高の増加に結びつくが、後者は村の荒廃や潰れ地の増加などに対処してなされるものであり、かならずしも高の増加に結びつくものではなかった。新田開発であれ土地の荒廃であれ、時間の経過は土地の状況を変化させたはずであるが、「後竿」以降、藩はとりたてて領内総検地ということを行なっていない。
 それでは、高そのものに変化はなかったということなのだろうか。いや、高の数値というよりも、生産力の変化は? という問いかけの方が正しいだろう。18世紀の後半になると、農地の荒廃を訴えて、藩の「仁政」の執行を求める農民の訴願が多くなる。原因は、潰れ百姓の増加や離農化現象の増加による耕作者不在の土地、いわゆる「無符人高」(むふにんだか)が増えてくる。とすると、実質的な生産力は減少していることになるはずであるが、そうなのだろうか。
 次の史料を見ていただきたい。重要な問題を含んでいるので、書き下し文で引用する。

       三田さんでん証文の事
  貴殿持高の内、当高四石余の在所物成拵こしらえの米、割升三斗入九拾俵に相定め、一作預三田に申すところ実正に御座候。よって秋中には相定あいさだめの俵物一番舟場出し同様に急渡きっと上納つかまつるべく候(中略)、後日のため親類受合をもって判形はんぎょう証文など上げ申し候へば、毛頭もうとう相違御座なく候、よって一筆件のごとし。
   文化八年未閏二月二日          二本柳村三田預主 藤八(印)
                           黒川村親類受合 新左衛門(印)
     角間川村 吉右衛門殿
 
 これは「三田証文」と呼ばれる文書もんじょであるが、簡単に言えば、小作地の作預かり証文である。「三田」とは「さんでん」と読むが、これは「散田」の当て字である。「散田」は、中世の史料にもよく出てくる語句で、荒廃地を意味するが、ここでは、この文書の宛先となっている角間川村吉右衛門が、農民から買い集めた土地をさしている。この角間川村吉右衛門は、同村の在郷商人で、明治にかけて大地主に成長する家である。この地主の集積地を「三田(散田)」とよぶところに大きな特徴があるが、ここでは説明をパスする。この証文は、二本柳村の農民である藤八(肝煎でもあった)が、本郷家の所有する「三田」4石を預かって耕作するという契約を行ったものである。じつは、藤八は、これ以前に本郷家に対して経済的な事情から、自分の耕作地を売り渡していた(この証文も存在している)。つまり、自分が売り渡した土地を、あらためて自分が小作として耕作する権利を認めてもらったものなのである。これは「直小作」(じきこさく)といって、とくにめずらしい現象ではない。問題は、その小作料(米)にある。ここでは1行目にみえるように、3斗入90俵を納めることになっている。
 当高4石の土地である。免がわからないので、正確な検地高が不明だが、かりに免が五ツ(年貢率5割)だとして、検地高は4石8斗である。つまり、この土地からは4石8斗の米が生産されるということである。ところが、小作米は3斗入が90俵だという。これは石高にすると27石である。これは年貢率5割と想定した検地高の、約5.6倍である。
 私は、この部分にひっかかって、最初に出版した著書の中で、明言はできないけれども、石高(当高でもよい)の数値は、土地の生産力の実態を示さなくなっているのではないか、という意味のことを書いた。そうしたら、郷土史家を自称する方にひどいお叱りをうけた。要は、史料の読み間違いをしたに相違なく、自分の誤読を棚に上げて、そのような無責任なことを述べるのは何ごとか、というのである。これにはまいった(いや、別の意味で)。批判されたご本人が同じ史料にあたられて「誤読だ」というのならばわかる。しかし、この方は、自分で見ていないものを、自分が納得できない内容の数値になっているという理由だけで私の誤読だというのである。
 この史料は、東京の戸越にある国立史料館というところが所蔵していた(現在は立川市。国文学研究資料館)。もとになった論文は、在京時代に書いたもので、整理の悪い私は、調査時に自分で撮影した写真資料を紛失していた。だからすぐに現物を確認できなかった。確認できないままに、過去の論文をそのまま論集に収録したのであった。だから、著書に収録するにあたって再度その史料にあたっていないという心理的な弱点が私にあった。しかし、自分が見てもいないものを誤読だと断ずる手紙にもまいった。当時は高校の教員をしていたから、簡単には東京には行けない。そしてこのことはそのままになった。
 それから、退職をまじかに控えて、過去のものを全面的に書き換えてまとめようと思い立ち、先の史料をもう一度撮影するため上京した。その史料だけでなく、関連する本郷家の地主関係の史料を大量に撮影してきた。先の問題にかんしていえば、私の「誤読」ではなかった。引用した通りの数値であった。すると、やはりこの問題はそのまま、今に残ったことになる。今回の撮影では、同様の史料をできるだけ集め、「三田」の当高と、小作米の額の相関を調べてみようと思った。すると、例外なく、「三田」の当高より小作米の高の方が圧倒的に多いのである(調べた限りのものは、拙著『藩政改革と地域社会』のなかに表として整理してあるので、興味のある方は、図書館などでご覧になってください)。ただし、年貢高と小作米と比較した場合、そこには一定の規則性は認められなかった。所定の年貢高と小作米を比較すると、少ない場合で後者が前者の4倍、多いものだと数十倍という例もある。これでは規則性などというものは見いだされない。 
 ただし、次のことだけは指摘できるように思う。つまり、本郷家が集積した「三田」は非常に生産力が高い土地であり、当高は、その生産力の実態をもはや正確に示してはいないということである。同じく本郷家の経営を詳細に分析された半田市太郎氏は、同家の小作米の平均値が、当高1石あたり3石4斗余であることを指摘している。やはり、実際の土地の生産力は公的に表示された高を上回るとみている。ただ、私が整理してみた限り、当高が示す年貢高を小作米が上回る幅が土地ごとに違いが大きく、平均化という方法は、実態を把握するうえでは効果がないという感想を持つ。
 当然、藩もそのことは熟知していた。天明4年(1784)、藩は「十三割新法」(じゅうさんわりしんぽう)という、たいへん興味深い政策に打って出る。高にかんする点だけをいえば、五斗米(ごとまい)や小役銀(こやくぎん)などの諸役を免除するかわりに、当高1石につき1石3斗の年貢を納めるものとする、という内容の制度である。つまり、この発想の前提には、公的に把握されている高以上の生産高が見込めるという事実があるということである。藩は、この法令のなかで、こうした方が農民にとっても有利なはずだと説いている。「年貢=当高×6/10」であるが、まずこの6/10を乗ずることをやめ、さらに0.3石を足して年貢を取るというのである。さらに、それでも農民の側には生活を維持していくだけの余力が残るはずだという前提がある。当高の13割を年貢として徴収するということから、「十三割新法」とよばれるわけである。さらに、こうした生産力の上昇という条件を加えて考えてみると、半知借上はんちかりあげや6割の知行借上も、現実的には可能だったというように考えられるのである。
 もちろん、だから近世後期の高はまったく意味がないといいたいのではない。たとえば、先に例示した本郷家の地主化の過程を明らかにするためには、集積した当高の年次ごとの一覧を作ってみることが必要だし、それによって、どのあたりから地主化への転換が見られるかも知ることができる。村の荒廃化や手余り地の増加なども、数値の増減から考察することはできよう。ただ、石高が示す数値そのものがかならずしも実態を示すことにはならないこと、荒廃化などが言われる反面において、かなりの生産力の拡大が秋田においてもあったであろうと推測せざるをえないのである。この問題を、どなたか追及してくださればありがたいのだが…。