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「当高」制とは何か

 秋田藩についてのあれこれを、思いつくままに書いていく連載の最初として、やはり「当高(とうだか)」あるいは「当高」制を取り上げるのがよいだろう。秋田藩政に興味をもって勉強を進めていく多くの人が、まず疑問に思うのがこの「当高」だろうと思うからである。
 先日、『秋大史学』62号に半田和彦氏が書かれた論文のなかで、当高制について言及した部分を目にしたのだが、その説明のしかたが気になった。この論文は、当高を「これまでの検地高(中略)を基準に給人に与えた知行高では与えられた村の免の違いによって給人の物成収入に差が生じることになる。この不公平、格差への解決策として採用されたのが六ツ成高=当高制であった」とし、脚注に「当高制については『秋田市史』通史編の序説「((マヽ))秋田と幕藩制のなかの六ツ成高(当高)に詳細な説明がある」としている。
 じつは、私は1991年(平成3)に、『秋大史学』において「当高」についての論考を発表させてもらい、そこで当高制について詳細に論じたことがある。この時、当高制についての本格的論考といえば、半田市太郎氏のものしかなかった(一部郷土史家の論を除く)。半田市太郎氏の論考は、『秋田県史』通史編近世上(昭和40年度版)に詳しい。私は、それに建設的な批判を加えることで、難解とされていた当高制の本質を明らかにしようとしたのである。
 ところが、冒頭にあげた論文は、先行研究として『秋田市史』のみをあげ、私の論文はおろか、半田市太郎氏の論考にもふれていない。執筆者が、私の論考を読んでいなかったのか、引用にあたいしないと判断して無視したのか、いずれかはわからない。しかし駄論文というべきものが多い私の研究の中で、この当高制を論じたものは、それなりに客観的な評価をいただいているものと自負している。しかも、冒頭の説明は、私からみれば非常に誤解をまねく内容である。そこで、この紙面をかりて、郷土史に関心を持たれる方が理解されやすいように、当高についての説明をしてみたい。
 まず、冒頭の論文の説明が、わかるようでよくわからない。検地高にそれぞれの免(めん)(年貢率)をかければ、当然年貢高には違いが生ずるが、この場合の「不公平、格差」とは、具体的にどのようなことをさしているのだろうか。この部分を明確にしておかないと、よくわからない説明になってしまうのである。半田和彦氏は、当高は「この不公平、格差への解決策として採用された」といっている。文字どおり読めば、年貢高の格差が解消されたと読めるが、それでは話がなりたたない。なぜなら、半田氏も書いているとおり、当高の数式は「高×免×10/6=当高」である。これに免をすべて6割に設定して、当高にこれを乗じて年貢高を算出するのが当高制である。すなわち、
  
・当高=検地高×免×10/6  ・年貢=当高×6/10

となるのであるが、これでは結局、年貢高は、「検地高×免」となり、年貢高の差違は解消されない。とすると、執筆者のいう「不公平、格差」とはなにをさしているのかという疑問につきあたる。
 そこで今度は、半田氏が引用の典拠とされている『秋田市史』通史編の説明をみてみることにした。やや長い引用になるが、お付き合いいただきたい。『秋田市史』は、次のように述べる。
  (前略)村によって免は様々だった。(中略)知行を与えられた村の免によっては家臣間に大きな格差・不公平が生まれることになった。例えば、同じ知行高100石でも、ある村は免三つ成だったとすると、実質物成収入は30石である。ところが免六つ成だと物成収入は60石になるのである。免三つ成の検地高100石を「六つ成高」に換算すると50石になる。このように、検地高そのままではなく「六つ成高」に計算し直して知行を宛行うとその不公平は解消されることになるのである。
(『秋田市史』第三巻4〜5頁)
 ここでも「不公平」の具体的内容は説明されていない。この文章だと、30石から50石に是正されたというように読めるが、30石は年貢高であり、50石は当高の数値である。年貢高は当高に6/10を掛けて得られるから、やはり30石である。市史の筆者は、30石→50石という数値の変化をもって不公平の解消と言いたかったのではないだろうと思う。しかし、そのように読みとってしまいかねない説明になっていると私には感じられる。私が危惧するのは、冒頭の論文にしても、この説明を読まれた一般の人が、当高は、年貢収入そのものの不公平をなくすための制度と理解しはしまいか、ということである。
 当高が「検地高×免×10/6」であり、年貢高が「当高×10/6」であるとすれば、結局

年貢高=検地高×免×10/6×6/10

となり、下線部分に示されるように、数理上はまったく意味をなさなくなる。しかし、藩はそうした数式の操作を行った。それはなぜか、ということこそが問われなければならない。
 まず、次のように設問を立ててみよう。物成高を変更しないで、表面上免を六ツ成にした場合、その高はどう変化するか、という問題である。それは、以下のように考えられる。
 
 ある土地の物成をaとすると、a=検地高×免
 この物成aを変えず、免を六ツ成に変更した場合、高を変化させなければいけないが、この高をxとすれば、          
a=x×6/10

となる。したがって、どちらもaの値は同じであるから
x×6/10=検地高×免

x=検地高×免×10/6
このxが当高である。
 それでは、このように計算することで算出された当高はどんな役割をはたしたのか。
 一つの例をあげて検討してみよう。(以下は仮定の数値である)
 検地高 400石の土地で、@免(年貢率)が七ツ五分(7.5)、A六ツ(6.0)、B三ツ(3.0)、の場
合を想定し、人夫を当高100石につき1人を動員するものと仮定する。すると、次のよう
になる。

    検地高  免        当高   人夫
@ 400(石)×0.75×10/6= 500(石)   5人
A 400(石)×0.6 ×10/6= 400(石)   4人
B 400(石)×0.3 ×10/6= 200(石)   2人

人夫の動員は、給人に課せられた軍役である。つまり、この軍役が、免六ツの場合を基準として、それ以上の場合は負担増、それ以下の場合は負担減となるのである。高免の知行地をもつ家臣の軍役負担は相対的に増加し、低免の場合はそれが軽減される。農民が納めるべき藁・糠・人足・江戸詰夫など、すべて当高によって計算される。これが「公平化」の意味である。当高にふれるのであれば、半田氏にはぜひこの点にも言及していただきたかった。
 なお「当高」計算のなかにすでに年貢産出の計算が含まれている。つまり、家臣団の高は検地高そのものではなく、年貢高を基準とする数値に換算されている。このことも、当高制の重要な特質である。それは、地方(じかた)知行制(ちぎょうせい)をとっているとはいえ、藩によって、給人による恣意的な年貢収奪を規制する枠がはめられているということである。かつて、地方知行制は、中世的土地所有形態の残滓だと考えられたことがあった。しかし、当高制は、給人による恣意的な年貢収奪を牽制する内容をもつという点で、きわめて近世的な地方知行制の誕生を物語るものなのである。