山浦先生と「ケセン語大辞典」


「毎日婦人」2000年11月号より

 このコーナーをはじめる時、当時の本誌編集長が来て執筆者の人選や執筆内容について話し合った。人選はスムースに決まったが、レポートの中身に関しては、自社の出版物の宣伝は戒めるようクギをさされたことを覚えている。今回はこの禁を破ることになった。お許し願いたい。
 とりあげる自社の出版物は今年の8月に刊行した山浦玄嗣編著『ケセン語大辞典』である。B5版上下巻で3000ページ、定価3万8千円の辞書である。どのくらいのボリュームか想像できない方は週刊誌30冊ほどを束ねた形をイメージしていただければいい。まさしく「広辞苑」も真っ青の大著なのだが、私の四半世紀の編集者生活でも、これだけの大著は手がけるのは最初にして最後だろうと思う。
「ケセン」というのは岩手県気仙地方(人口約八万三千人)のことである。そこで使われている方言を「ケセン語」と言うわけだが、著者は方言という言い方を極力避けている。
「ケセン語は日本語や英語、アイヌ語と対等な独立した言語です」
 というのが著者の持論なのである。
 著者の山浦さんは岩手県大船渡市で病院を経営する医師で25年前から本格的にケセン語研究をはじめた。
 この方言辞典の大きな特徴は、各見出し語にすべて用例が付記されていることである。用例は毎日診察室に来る患者とのやりとりから集め、なんと3万4千語が採集されている。
「実際に耳で聞いていない言葉はないし、すべてにアクセント記号を付けて、生きている言葉だけを集めました」
 さらに正確にケセン語の文章を「だれにでも」筆写できるように、表記は10年がかりで編み出したケセン式ローマ字という念の入れようである。
「もしケセン語が廃れても、この辞典が残っていれば再構築が可能です」
 と自信満々。採集に25年、執筆に6年、編集印刷に2年の歳月をかけて辞書が完成した時、山浦さんは、
「女の人が赤ちゃんを産むというのはこんな気持ちなんだろうね」
 と素直な感想を聞かせてくれた。
 完成前後からマスコミが押し掛け、ニュースは全国を駆けめぐった。言語研究者から高い評価を受ける一方で、地域社会の文化に誇りを持ち、一隅を照らしつづける、その志の高さに賛辞を惜しまない記事も多かった。
 しかし、60歳になった山浦さんにとって、この辞書の完成が終着駅ではない。自身がカトリック信者ということもあり、今度は聖書のケセン語訳にとりくんでいるのだ。
「その言語で訳された聖書があるということは国際的に一人前の言葉として認められることですから」
 と山浦さんはいうが、日本語訳の「聖書」からの訳出にしっくりこないものを感じ、ギリシャ語本から直接訳し直そうと、なんとギリシャ語の勉強をはじめているのである。まさに「野に遺賢あり」、脱帽するしかない。
 ちなみに『ケセン語辞典』は500部限定出版、刊行1ヶ月で残部僅少となった。


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