んだんだ劇場2013年2月号 vol.169
遠田耕平

No131 やっぱりこれで始まった2013年 そして人知れずニヤニヤ


テトが来る

ハノイは今騒然としている。 ゴーゴーと地鳴りがするように騒がしい。この感じは、ハノイの人たち、いやベトナムの人たち9千万人みんなが一斉に動いているからである。みんなは今テト正月に向かってまさにうごめいている。ベトナムの人たちは今の時期、もう落ちついてはいられない。まさに師走である。一週間の正月休みを越えるためになぜかわからないが、とにかくいろんなものを買い出し、とにかく出来る限りの準備をするのがベトナム人である。値段が上がろうとも、吹っ掛けられようとも、このときばかりは言い値でいくらでも売れる。最近のベトナム景気を反映してか、商売も派手になり、いわゆる忘年会も、レストラン貸し切りでいたるところで一気飲みの掛け声が聞こえてくる。

桃(ホアダオ)の枝木を抱えて走るハノイに人たち

金柑(クゥイト)を運ぶ人、瀬戸物の鉢もよく売れる
正月の風物といえば、北部は桃の花(ホアダオ)と金柑(クイット)、南部は黄色の花(ホアマイ)と西瓜と決まっている。ハノイでは桃の木である。道路沿いには桃の枝木を抱えた人たちがずらりと並んで、一本でも多く売ろうと売り声をかける。ハノイの人たちはこの木がないと正月を迎えられない。小ぶりのものから身の丈の2倍近くもある鉢植えのものまでを、バイクの後ろに乗せて買う者売る者が街中を走り回る。桃の花は、細い枝に刷毛で一振り撒き散らしたようにポンポンとピンクの色が散らばっている。今年は例年よりかなり暖かくて桃の花の蕾が一斉に開き始めてしまった。 僕の住んでいる場所のそばにあるハノイの花市場は今徹夜で営業し、夜を徹して桃の木や金柑を買いに来る人たちでごった返している。 この異様なほどの活気、煩わしくもあり、でもやっぱり今年もテトが巡ってきたという「時」の流れをわずかに実感する不思議な安堵感がある。

道端に買い手を求めて並ぶ桃の木、蕾は開き始めた

街中の飾りも派手になる

寄り添う裁判長

ふとインターネットの読売の記事に目が留まった。「心中図り娘殺害、裁判長が被告の横にしゃがみ。。。」とあった。夫と知的障害のある39歳の娘と3人暮らしの69歳の女性の被告。夫が病気で余命わずかと知り、悲観し、娘に心中を持ちかけた。その際、娘が「先に逝きたい」と電気コードを自分で首に巻きつけて苦しんだために、楽にしてあげたいと殺害した。被告も自殺を図ったが、夫に発見されて命を取り留める。夫はその後病気で亡くなった。東京地裁は承諾殺人罪として懲役3年、保護観察付執行猶予5年の判決を言い渡した。「追い詰められた心情には同情の余地も大きい」と量刑の理由を述べた後、その裁判長は、法壇を降りて、被告席で座って泣き続けるその女性の横にしゃがみ込んだという。そして「旦那さんがつなぎ留めてくれた命です。一歩一歩前に進んで、困ったときは周りの人たちに相談してくれると約束してくれますか。」と語りかけた。被告は「はい」と答えたそうだ。

僕は、読みながら泣いた。取材した記者は多分この法廷を泣きながら筆記したのだろうと勝手に想像した。 裁判長は、已む無く娘に手をかけ、一人残された被告の女性が何を思っているかを知っている。そして法の下に裁かなくてはならない苦渋も知っている。それでも被告の夫がつなぎとめた命をどうかどうか自ら絶たないでくださいと被告の横にしゃがみ込んで頼んだ。裁かなくてはならない立場の人間の、人間として出来る限りを見た感じがした。被告と被告に寄り添った裁判長を想って、また涙した。こういう人がいるんだな。

人を裁く仕事とは、実は罰することじゃない。本来は人に寄り添う仕事なんだよと、教えてもらった気がした。 そして医者という仕事を思った。治療して治すことは大事だけど、重くても軽くても、老人でも子供でも、社会的強者であろうと弱者であろうと寄り添うこと、それが僕が医者になった理由じゃなかったのだろうかと。 ああ、また、いろんな想いが蘇ってくる。一人一人の患者さんの気持ちに寄り添いたい。臨床医としてはもうヘボだけど、寄り添うことだけなら、周りの医者たちの力を借りて何とかできるんじゃないかと夢の中で想うときがある。寄り添うこと。話が飛ぶけど、それが死海のほとりを彷徨ったナザレの大工、イエスキリストがしたことだったんじゃないか、と遠藤周作は自らの小説に書いている。キリストは何も出来ずにただ病める人に寄り添っただけではないかと。それが戦いで荒廃したあの時代、砂漠の中で人々が宗教というものの中に本当に求めていたものだったのじゃないかと。それならキリストを理解できる。キリストが自ら記したわけでもない聖書でも、組織化して腐った教会でもなく、人間としてのキリストを理解できる。人は何千年も寄り添う人を探している。


やっぱりこれで始まった新年 そして人知れずニヤニヤ


前回少しお話したワクチンの接種後に亡くなった子供たちの話である。前回で予想したとおり、冬休みを終えて、ハノイの飛行場に着くなり僕の携帯が鳴り続けた。 僕のいない間にさらにワクチン接種後に亡くなった子供の数が増え、さらに2人の乳児が亡くなったという。保健省で緊急の内部会議を開くからすぐに来てくれという。 

会議で話を聞くと、ワクチン接種後に亡くなった子供はこの2ヶ月足らずで計6人、うち4人は接種後は元気だったのに3-4日後に寝ている間に亡くなっている。どうもよくわからない。どれもワクチンとの関連をはっきり示すものがないが、ただ事態は急を要する。マスコミの攻撃は日増しにひどくなり、母親たちの心配も解けない。 まず、問題を起こした可能性のあるワクチンの使用をすぐに停止して、調査することにした。

政府の要請を受け、ジュネーブのWHOの担当官が製造元の製造記録を調べ、さらにそこの国家検定の記録も調べたが問題は見つからなかったと正式な報告が来た。 それでも政府としては収まりはつかず、今度は「WHOのシニアの専門家を誰か送ってくれ。」という。 「え、僕じゃダメなの?」 「いや、もっと偉そうな人で、形式上保健省の対策がちゃんとしていることをマスコミや大衆に向かって言ってくれるような人だよ。」という。

正直言うとジュネーブの担当官も頼りないのであるが、確かに偉そうな人はいる。電話やメールで交渉して、何とか時間を割いてテト休みの直前に間に合うように来てもらうことになった。 ところが、今度は政府からWHOに要請のレターが一週間待っても二週間待っても出てこない。業を煮やして事情を聴いたところ、副大臣が「WHOだけじゃなくて独立した専門家も一緒に連れてきてくれ」と言いだして承認が降りないという。つまり、これは「今回はもう要りませんよ。」ということだ。(ううう、自分で言い出しておいて。。。) その理由は、テトである。テトが近づいて、世間はテトに忙しく、マスコミの攻撃は急に少なくなり、世間の関心も一気に薄らいできた。そこにWHOの専門家なるものがいまさらこのタイミングで来て、寝ている赤ん坊をゆすり起こすかのようにまたマスコミが騒ぎ出したらこりゃあ大変だというのが本音。なるほど、これもベトナムらしい。3年前のインフルエンザのパンデミックのときもこれで振り回された。 ただ、この話は決してうやむやにしていいものではない。ワクチンの質と安全性の確保は予防接種の大命題だ。ワクチンの種類が増え、複数のワクチンの同時接種が増えれば増えるほど、たとえ世間が忘れようとも、謙虚な目で今回の事例を見直す作業が必要だ。さらに、これを期にワクチン接種後の異常反応をきちんと調査し、対応するシステム作りが急がれる。

そんな中で嬉しいこともあった。JICAと北里第一三共のミッションが来て、保健省を交え、ベトナムのワクチン製造会社と麻疹と風疹の混合ワクチン製造の技術移転5カ年計画が調印されたことだ。 僕がこちらに赴任して以来3年以上、本当にたくさんの人たちの尽力によってここまで来たという感慨がある。ここに関わった人たちは、10年前から麻疹ワクチン製造の支援を続けてくれた北里研究所の人たち、JICA本部のひとたち、JICAベトナム事務所の人たち、在ベトナム大使、WHOの同僚、僕の下で働いた二人の小児科医、USCDCのコンサルまで枚挙に暇がない。そして何よりも頭を下げるべきは、たくさん犠牲になった先天性風疹症候群の子供たち自身とその家族たちである。彼らの犠牲の上に今がある。日本の税金がこの国の未来のために使われる。

今年の終わりから麻疹と風疹の混合ワクチンの14歳までの児童学童2千2百万人を対象とした全国キャンペーンが保健省とWHOの主導で始まる。その後は定期予防接種に組み込まれ、5年後には自国生産のワクチンが使われるようになるだろう。そして10年後には心臓や目や耳に障害を持った先天性風疹症候群の子供をもう見ないで済む社会が訪れると想像して、人知れずニヤニヤするのである。この人知れずニヤニヤは、公衆衛生という分野にいて、一人一人に寄り添えない人間たちのささやかな自己満足的ニヤニヤである。 まあ、この人知れずニヤニヤがわかるのはせいぜい仲間うちだけだし、飲みながら、ちょっとくらいニヤニヤしていても罰は当たるまい。


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