んだんだ劇場2013年4月号 vol.171
No104
昭和12年の近代的小学校

豊郷小学校旧校舎群
 琵琶湖の東岸、滋賀県豊郷町へ行ったのは、これで3回目の「北前船を訪ねる旅」(朝日旅行社)の講師として同行したからである。
 湖岸からは少し離れているが、旧中山道が通る豊郷は、いわゆる「近江商人」を多数輩出した土地のひとつだ。北前船に関して言えば、江戸時代の少し前、近江商人が蝦夷地へ渡り、戦国大名の松前氏になにかと便宜をはかったことから、日本海に面した敦賀港を中継地として近江商人と蝦夷地との交易ルートができ、それが後に北前船を誕生させた。その中で、松前藩主が参勤交代で津軽海峡を渡るときの御座船を提供した豪商、「又十」を商標とした藤野家の屋敷を見て、北前船には直接の関係はないが、幕末に勃興し、後の伊藤忠商事、商社丸紅の祖となった伊藤忠兵衛の屋敷を見学した後、前々から見たいと思っていた「豊郷小学校旧校舎群」を訪ねた。
 まあ、まず、写真を見ていただきたい。
 昭和12年(1937)、ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計、竹中工務店の施工で建てられた鉄筋コンクリートの建物は、左右対称に白い翼を広げたようで、「白鷺校舎」と呼ばれたという。そして地元の人々は「東洋一の小学校」と胸を張った。それは、100mもの廊下がある大きさが理由ではない。

「白鷺校舎」と呼ばれた豊郷小学校旧校舎

廊下は100mもある

 例えば、講堂である。
 演壇に向かって緩やかに下る板張りの床には、長椅子が固定されている。まさに「講堂」だ。体育館は別にあった。

長椅子が固定されている講堂
 教室の机は、少し前上がりになっていて、教科書が読みやすく、ノートに文字を書くのも楽だろうと思えた。普通教室のほかに音楽室、理科室、家庭室、工作室などがあって、小学校1年生から子どもたちは特別教室へ移動して授業を受けた。
 地元のボランティアガイドさんによると、講堂の後ろ側は半地下構造で、ボイラーがあり、全館スチーム暖房だったという。しかも、その暖房を利用して、階段下には弁当を温める小部屋さえ設けられていた。

少し前上がりの机を復元した教室

スチームで弁当を温める階段下の小部屋
 私は昭和33年に福島市立第一小学校に入学したが、音楽室以外に特別教室はなかった。授業によって教室を移動するのは、中学校に入って知ったことだ。高校は鉄筋コンクリートだったが、冬の暖房は教室ごとにだるまストーブがあって、石炭を焚いていた。そんな思い出からは、この豊郷小学校が昭和12年の建築だとは驚愕するばかりだ。
 豊郷小学校の建設費は、机などの備品も含めて60万円かかったという。現在の価値でどれくらいになるのか、すぐに答は出ないけれど、その少し前に大阪城天守閣の再建費用が50万円だったという記録が残っている。
 そしてこの巨額の建設費は、個人の寄付でまかなわれた。
 それは地元出身で、丸紅の専務だった古川鉄治郎である。彼は、自分の全財産の3分の2を出資し、近江八幡に居を構えていた建築家ヴォーリズに、当時最高の教育環境を実現するよう依頼した。郷土愛は、近江商人に共通のことだというが、それにしても桁違いの奉仕精神である。
 そんな古川から子供たちへのメッセージが、今も残されている。
 2階への階段の手すりに、童話「ウサギとカメ」の像がある。1階には、うさぎとカメが並んでいる。ウサギがさっさと上った後を、カメが必死に追いかける。ところが踊り場の曲がり角で、ウサギはグウグウ寝てしまった。お構いなしに歩き続けたカメは、2階に達した手すりでにんまりと笑っているような表情だった。それは古川が小さい頃、学校の担任の先生から「ゆっくりでいいから、前へ進め」と教えられ、それを実践したから丸紅の専務になれたのだという、彼自身の思いだという。

スタートラインに並んだウサギとカメ

踊り場の手すりでグウグウ寝るウサギ

手すりを歩き続けるカメの下には、しゃれた明り取りが開けられている

ニンマリ笑っているようなカメ
 私は感激した。繰り返すが、昭和12年にこんなすばらしい小学校があったのだ。
 ところが、この校舎が解体される危機に瀕したことがある。老朽化と、阪神淡路大震災後の耐震基準の見直しで、1999年、当時の町長、町議会、PTAがこの校舎を解体し、新しい小学校の建設を決めたのである。しかし、豊郷小学校の卒業生を中心に、地元の人々の反対運動が起きた。私が北前船の取材で豊郷町を訪ねた2001年当時は、解体に反対する人たちが、講堂の解体工事差し止めの仮処分を大津地裁に申請しようとしていたころだ。翌2002年には、校舎解体を強行しようとした町長に対し、住民が校舎にたてこもる騒動に発展した。町長がリコールで失職し、小学校を保存することになるが、その動きは私もニュースで追いかけていた。だから今回、保存してよかったじゃないか、と感激もひとしおだったのである。
 さて、設計者のヴォーリズは、戦前に日本に帰化した人で、医薬品「メンターム」で知られる近江兄弟社の創始者でもある。最も活躍したのは建築の分野で、関西学院大学、同志社大学など数多くの近代建築を手がけた。終戦に際しては、マッカーサーと近衛文麿との仲介に尽力したと言われる。そして昭和39年(1964)、近江八幡の自宅で84歳の生涯を閉じた。
 ところで私は、ヴォーリズの建築をほかに2か所で見たことがある。1つは、滋賀県甲賀市水口(みなくち)の水口小学校入り口にある旧水口図書館、もう1か所は静岡市の、登呂遺跡に近い海岸に立つ旧マッケンジー邸で、どちらも国登録有形文化財である。
 昭和3年に建てられた旧水口図書館は、ヴォーリズの建築作品の中でも「珠玉の小品」と言われている。旧水口町出身の実業家、井上好三郎氏が寄付した建物だ。豊郷小学校の古川鉄治郎氏と同じく、故郷のために尽くしたいという近江商人の心情が、図書館の凛(りん)とした姿から感じられる。

向かって右側の高い採光塔(ランタン)が特徴の旧水口図書館

中を見学できる旧マッケンジー邸
 白い壁が美しい旧マッケンジー邸は、戦前、貿易商として来日したアメリカ人、ダンカン・J・マッケンジーが昭和15年に建てた。戦時中、アメリカへ一時帰国せざるを得なかったが、マッケンジー夫妻は戦後、再来日し、静岡茶の輸出拡大に貢献した。彼は昭和26年に病没したが、エミリー夫人は昭和46年までここに住み、社会福祉に尽くして静岡市最初の名誉市民となった。老齢などの理由で帰国することになった夫人から建物を寄贈された静岡市では、保護対策として昨年(2012年)3月末でコンサートなどのイベント使用を中止したが、一般公開は続けているので、内部を見学することはできる。
 ヴォーリズにしても、マッケンジーにしても、太平洋戦争という苦難を乗り越え、こよなく日本を愛してくれたアメリカ人だった。それが、また、うれしい。
 そして細部まで子供たちに配慮した豊郷小学校旧校舎群を見たあとでは、水口図書館は使いやすく、マッケンジー邸は暮らしやすい家だろうと、心底思っている。

道路色
 めったに雪の降らない房総半島では、冬の間も地面から緑色が消えることはないのだが、それとは別に春の息吹はさまざまな形で現れる。

まま事の飯もおさいも土筆かな 立子

 3月になると、家の裏の川に向かって下る土手に土筆(ツクシ)が出てくる。星野立子の句は、なんともほほえましい情景だが、実は土筆に対して、私にはそれほどの喜びはない。

顔を出した土筆

たくさんの土筆が採れたが、わが家では食べない
 西日本の人は土筆を春の味として珍重するが、私が育った福島も含めて北日本ではさほど食べられない。先日もかみさんが土筆をたくさん採って来たので、「食べるのか?」ときいたら、「集めただけ」とそっけなかった。これを食べるには、茎に何段も出ている傘のような部分(ハカマ)を取るのがけっこう面倒で、ハカマを取っているうちに爪が黒っぽく汚れるのも気に入らない。北国には、もっとおいしい山菜がいろいろあるから、出汁の味しかしないような土筆には目がいかないのではないかと思ったりする。
 それに、畑を耕す身には、土筆はけっして歓迎できるものではない。
 土筆は「スギナの子」ではない。シダ類の一種であるスギナが子孫をばらまくための胞子茎、つまり繁殖器官である。少し間をおいて、スギナの本体(栄養茎)が伸び始める。これがぞっくりと出てきたのを、地面に腹ばうようにして横から見ると、ほんとに杉林のようだ。しっかり葉緑素も持っていて、光合成で栄養を作り、八方に根をはびこらせる。
 こいつが畑に繁茂したら大変だ。せっかくの肥料が、どんどん吸い取られてしまう。それに、スギナは退治しにくい雑草の横綱級でもある。黒く、針金のような根は完全に取り除けるものではないからだ。畑に耕運機を入れると、切り刻まれたスギナの根があちこちに散らばって、思いがけない場所から顔を出してくる。
 まあ、スギナの根はすぐにわかるから、根気よく取り除いて来たおかげで、わが家の畑にはさほどの数は見られない。
 ところで先日、雑草に関する本を読んでいたら、最近は土筆も、スギナも知らない子供が増えているという話があった。コンクリートとアスファルトで固められた都市部では、スギナが地上に顔を出すことができなくなっているからだという。
 それで思い出した。30年も前、娘が4歳か5歳のときのことだ。
 折り紙を見せながら、「これは、なんという色?」と娘にきいたら、赤、青、黄色などはすぐに答えたのに、灰色の折り紙で言葉が詰まった。
 そして少し考えてから、娘は「道路色」と答えた。
 そうなのだ。囲炉裏もかまどもほとんど見当たらない現在の日本では、仏壇の線香立てぐらいしか「灰色」を教えられないだろう。
 最近の子供が知らないのは、土筆とスギナだけではないのである。
(このエッセイは、俳誌「杉」3月号に掲載したものに加筆しました)
(2013年3月25日)


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