んだんだ劇場2012年11月号 vol.166
遠田耕平

No128 メコンデルタで続くポリオワクチン接種キャンペーン

ぼんやり考えると

僕はあいも変わらずぼんやりと考えている。 泳いでいるときも、トイレに座っているときも、ベッドに横になっているときも、会議のときも、やっぱりぼんやりと考えている。 心を開放するってどういうことかなあって。どうやったら心を開放できるのかなあ。 どうやったら、とらわれない心、自由で広くて大きな心ができるのかなあ、なんて考える。 

何でそんなことを考えることが必要なのか? よくわからないけど、必要なんです。 僕を縛っている何かから自由になること。 そして誰の真似でもない、みんながハッとするようななにかを創造すること。誰れかがみるとなんだかわからないけど、なんだか笑ってしまうようななにか。なんだかじわっと幸せな気持ちになってしまうような何か。そんなものを創ってみたいなあ。

そんなことをずっと考えていくと、それにはきっと常識的な意識の境が邪魔だと思えくる。 たとえば「真面目」と「不真面目」。これに境目がいるんだろうか。なくたっていい。 思いっきり真面目で不真面目をやる?不真面目にみえるけど真面目でもいい。何を言っているのかわからなくなるけど、僕にはこの一見対立する意識は行ったり来たりする同じ意識の線上にある。 

「真剣」と「いい加減」もそうだ。同じ線の上に載っている。いい加減にみえるだろうけど、けっこう真剣というのもあり。いい加減な気持ちを真剣な気持ちの中に併せ持っている。「仕事」と「遊び」もそうだ。遊びといわれても仕事といわれてもいい。遊ぶように仕事をする。 仕事の中で遊んでいる。その意識、常識の境を自由に行き来できることがなんだか創造につながりそうな気がする。

僕は人生はやっぱり一種の芸術(アート)だと思っている。 社会的な様々なしがらみや制約、強制や強要、権力や権威、まやかしや見せかけ、常識と組織から解き放つ作業がどうしても必要になってくる。その意味ではやっぱり生きることはアートで、創造だろうと思える。 今のメディア中ではタモリや北野たけしは、かなりアートなんじゃないかなあ。あのこだわり、あのナンセンスさ、あのシャープさ、あの自由さ。 人気はそんなところから来るのかもしれない。とすると大衆の反応も、アートを意識していて、いい感じなのかもしれない。

僕はまだハノイで毎朝水温20度近くに下がった冷たい水に飛び込んでいる。筋肉も股間も縮みあがって頭は真っ白になる。呼吸がうまく出来ない。ああ呼吸が苦しいなあ、しんどいなあと思うときに、苦しいと思うともっと苦しくなる。酸素不足もあるけど、目の前が真っ暗になってきて死ぬかと思う。でも、そのとき少し楽しいことをぼんやりと考えると、なぜか呼吸が少し楽になる。力が抜けてきて、少しうまく泳げるようになる。このぼんやり考えてしまう不思議な心の余裕がうまく現れるといい。この違いはなんだろうとよく思うのだけど、うまくいえない。苦しくても楽になる、速くなる方法はあるということか。するとこれは極めてメンタルな作用だということになる。これも一見対立する感覚を自由に行き来する極めてメンタルな開放感の面白さの一例なのかもしれない。

僕は、奇抜なことをしたらいいということを言っているわけじゃない。 かえって逆である。奇抜なことなんかそうできるものじゃない。僕らは同じ作業をひたすら繰り返すのである。さらに言えば、愚直なまでに見える同じようなこと、日常的な繰り返しに見える中で、心は開放し、偶然との出会いをわずかに予感する。 だからこそ愚直に繰り返す必要がある。 偶然は本来、一見同じように見える繰り返しの中のその先にしか出会うことがないように僕には思えるのである。この愚直の道を通らない限り出会えない何かがある。 それは、ほとんど偶然のようで、それは必然でもある、でも当然じゃないなにか。 深い靄の中から急に視界が開けて山の稜線が見えるように出会う何か。ハッとドキドキするなにか。 それをぼんやりと今日もトイレにしゃがみながら想像するのである。


拡大ポリオワクチンキャンペーン

変異したポリオワクチンウイルスによる2例の麻痺患者の対策として、患者のいる2つの郡でポリオワクチンのキャンペーンが6月と7月に実施されたことは以前この紙面でもお伝えした。 今回は、患者のいる2県(ソクチャンとドンナイ県)とそれと接するすべての郡、19県79郡で、110万人の5歳未満の児童を対象に10月と11月の2回、ポリオワクチンの拡大キャンペーンが行われることになった。

保健省の部長によるオープニングの風景

順番待ちの札をお母さんに配る
国産のポリオワクチンを購入するために政府が30万ドルを支出、県の人民委員会の緊急支出は17万ドル、それにWHOから搾り出した10万ドルとJICAが協力を申し出てくれた4万ドルで(UNICEFは一銭も出なかった。)キャンペーンは動き出した。週末をはさむ4日間で全県同時に一斉にポリオワクチンを投与し、これを一ヶ月おいて2回実施する。

ポリオのワクチン接種

お母さんがまだたくさん待たされている
南のパスツール研究所でキャンペーンの指揮を取るフォン先生は20年来の僕の友人で、ベトナムで最も信頼する予防接種行政の医師の一人である。彼女と相談して、WHOの資金の一部は「移動接種チーム」の編成に使おうということになった。「移動接種チーム」は20年前にポリオがメコンデルタをボートで移動する家族に残っていることを突き止めた僕らが、数百のボートの移動接種チームを作って、行きかう大型のボートを止めては中にいる家族と子供たちをしらみつぶしに接種していった経験からきている。20年後、道路と橋が整備された今、ボートで移動する家族は激減した。しかし、ワクチンに受け損ねていく子供たちは依然いるのである。

ポリオキャンペーンのポスター

村の保健ボランティアーが接種所に来なかった子供たちを捜して、家で直接接種する
より良い職を求めて都市部に移動する人口は増えている。一方で、村には定期の予防接種の届きにくい不便な場所は残る。 そんなところにさらに都市部からあぶれた人たちが戻ってくる。それぞれの村のそんな場所を探し出して、漏らさずすべての子供たちにワクチンを配りたい。そんな思いで「移動接種チーム」を復活させた。 

ワクチン接種の作戦は3つ;
1) すべての接種所でお母さんたちを待たせずに、速やかにワクチン接種を行う。
2) すべての接種所での仕事が終わったら、同日にワクチンに来なかった子供たちを村に捜しに行ってフォローし、見つけたらその場で投与する。
3) すべての移動接種チームは、一番難しい場所に接種に行く。

さらに、接種がちゃんとされたのかを調べるために出来てなさそうな村に行って、20人前後の子供たちを家から家に訪ねて接種歴を調べる。

泥まみれの村の道を行く

ワクチン接種の状況を家々を訪ねて調べる
ふたを開けてみれば、問題だらけ。 もちろんオープニングは派手で、夜のテレビのニュースにまでなるのであるが、話はそこまで。 接種所を訪ねても、マイクで広報しているところはほとんどなく静かなもの。村のボランティアの声かけで接種所にお母さんたちが子供をつれて集まっても、長く待たされて帰る人がいたりする。 子供たちの名前はベトナム式で事前にすべて名簿が用意されるのであるが、これがあてにならない。 ほとんどの保健所で来なかった子供を村にフォローすることと、難しい場所にいく移動接種チームを混同している。指導マニュアルにきちんと書いてあるのに誰も読んでいない。つまりいい加減。

ボートで接種所に来るデルタの子供たち

移動接種チームが難しい場所にワクチンを運んで接種していく
一週間フィールドを歩きながら、こいつは困ったなあと思うこと多々あり。それでも、県や郡のいい加減な指導にもかかわらず、一生懸命にがんばっている保健所もある。クメール語とベトナム語の2ヶ国語で広報を流したり、見事にお母さんたちを整理して、子供たちに待たせることなくワクチンを投与している接種所あり。 雨期の雨で泥だらけになった道を歩いて、接種所に来なかった子供たちを一人一人村で探し当て、ちゃんと接種をする村の若いボランティアがいる。下手な手書きの地図でも、ちゃんと一番難しい場所をみつけて、移動接種チームを予定通り働かせている保健所もある。。キャンペーンはまだまだよくなる。 そう思わせてくれるのです。


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