んだんだ劇場2012年10月号 vol.165
遠田耕平

No127 北緯17度線の旅  20年目のクアンビン

ジョハ(JOHA)

また、つまらないお話を。。。。女房は年老いた母親、子供、孫の世話で日本で忙しい。そのせいで、一人でハノイにいる時間が長くなり、そのせいか、飲む機会もなんだか増えた。その飲み会のひとつにジョハ(JOHA)の会というのがある。なんだ?と思うが、「ジャパンおめでたい人アソシエーション」の略だそうだ。この名前を提唱した現地日本語教師のGさんは、白髪交じりの長髪をポニーテールにした50代前半の男性。風貌は歌手のかまやつひろしに似ている。老けているのか若いのか迷うが、ぽっちゃりした顔に細い目で穏やかな笑みを浮かべる。僕がある会で予防接種の話をしたときにたまたま出会った。

彼があまりに"おめでたい"ので、彼の友人がJOHAの設立をいみじくも提案したらしい。会長のGさんに"おめでたい人"の意味を聞くと、
「打算をしない人、打算をできない人を指すんですよ。」という。
「打算をしない人なんで、いるの?」と批判がくるが、「いるぞ。」というのが信条のようである。まさに彼の全身から発する人の好さがそれを証明するかのようである。 JOHAの飲み会にはこの理解に苦しむ信条に賛同する、人生の打算に失敗した、いや打算しようにも金とは縁のない夢ばかりを見ている医者、うだつの上がらない研究者、彷徨える日本語教師、現地法人の職員ら、見事に不器用な連中が、酔いに任せて打算のない話に花を咲かせる。

先日、たまたま、日本の著名な大学から来ていた研究者が飲み会に混じった。とても楽しかったらしい。最後に一言、
「いやあ、本当に楽しかったです。皆さんのような"くだらない人"の会で飲めて、ほんとうによかった。」と言って、チドリ足で日本に帰っていった。
"くだらない?" うーん、くだらないことが悪いとはいわないが、僕らは、"くだらない"のではなく、"おめでたい"のである。と全員が再確認したのである。
あえて英語で表現すると、確かにナンセンスでフーリッシュなところもあるけど、シンプル で、イノセント で、ナイーブという感じでしょうか。
まあ、僕らにはこんなナイーブな飲み友達が必要だという"くだらない"お話でした。。。。。え、くだらない? いや、おめでたいお話。。。

 
20年目のクアンビン


今年に入って麻疹と風疹の大流行が全国的に収まったようであることは嬉しいことであるが、困ったことにぴたりと疑いの患者報告までがなくなってしまった。 "No news is bad news!"である。

中部の海沿いでラオスと国境を接するクアンビン県からはここ数年間、何の報告もないと保健省の連中が頭を抱えていた。 「それなら行ってみようよ。」と保健省に仲間の重い腰を押して、中部ニャチャンの保健局で予防接種を担当している20年来の旧知のフン先生に連絡をすると、すぐに訪問のサポートを快諾してくれた。 

クアンビンは僕には忘れられない県である。ベトナムの南部で初めて長期で働くことが決まる直前の1992年の夏、ベトナムの予防接種の評価をWHOとユニセフでやることになり、数週間だけ僕も呼ばれたのである。それが、実質的には僕の初めてのベトナムでの仕事になった。 その時にフン先生と初めて出会い一緒に仕事をしたのである。その誠実さは今も変わらない。

20年前、ハノイからクアンビンの首都ドンホイまで、国道1号線を南に下り、保健省の車で2日かかった。保健省から同伴してくれた先生が、途中に見えた小高い丘を指差して、
「あの丘の上に高射砲があって、アメリカのB52を撃ち落したんだよ。」と誇らしげに教えてくれたのを今もよく覚えている。
「国道沿いには池がいっぱいありますね。」と訊いたら、「あれはB52の爆撃の跡だよ。」と。

クアンビンの爆撃で残った教会

県立病院で生まれた赤ちゃん、B型肝炎のワクチンを受ける
田舎の田園風景は本当に美しく、たくさんの農村の人たちが牛車に稲をいっぱいに載せて運んでいる姿は日本の昔話の風景をみているようだと感じたのを今も覚えている。 異様な光景といえば、農道の横に山と積まれたボール爆弾の鉄くずだった。アメリカ軍が使ったボール爆弾(クラスター爆弾)は数メートルの長さの鋼鉄の爆弾の殻が空中で縦に真っ二つに割れ、中から3百個ほどの野球ボール状の爆弾が数キロ四方に飛散し、それが炸裂してさらにその中からそれぞれ6百個ほどの金属球が飛び散るという対人殺戮兵器である。その爆弾の鋼鉄の殻が貧しい農村では高く売れた。一方その不発弾で命を落とす農民も後を絶たなかった。田んぼの泥の中にはたくさんのボール爆弾の不発弾があった。村で出会った病院の先生はいかにも外科医らしく実直な態度と柔和の表情で、「今でも手や足の切断手術をやっているよ。」と錆びた手術器具を見せながら話してくれたことを思い出す。

ドンホイの町のことはあまり覚えていないのだが、町は空襲で焼け野原になり、当時まさに再建の最中だった。町にある唯一のホテルはMIA (Mission in Action 作戦中に行方不明になった米兵)を捜索するアメリカ軍の特殊部隊に占拠されていたのを今もはっきり覚えている。酔った熊のような体のアメリカの兵隊と階段ですれ違った。肩でも触ったのか、睨み合った。なぜかなんともいえない憤りと不快感を覚え、不意に掴み掛かりたくなったのを今もはっきり覚えている。

あれから20年、町はすっかり整備されてきれいになっている。爆撃で外壁だけが残った教会が、海の近くで原爆記念塔のように保存され、かろうじて戦争の記憶を残している。「ああ、変わっちゃったなあ。」と思っていたら、変わらないものがあった。県の衛生局の人たちである。なんと20年前の僕をはっきり覚えてくれている人たちがぞろぞろ出てきたのである。 実は僕はどうも彼らの顔を思い出せないのであるが、当時、日本人がよほど珍しかったのか、よほど僕が変だったのか、幸い僕を覚えていてくれた。今の局長のスー先生、副局長のティエップ先生、予防接種担当のバーさんだ。

フン先生とスー局長(右端から)と小児科医の鶴岡先生(左端)
彼らと話していて、実は恐ろしいことを知った。 僕がみんなと一緒に犬の肉鍋を食べたというのである。僕は「嘘でしょ。」と、何度も訊き返したのであるが、「間違いないよ。」と皆が口をそろえて言う。僕が子供のころから人一倍の犬好きであることは読者の皆さんもご存知だろう。2年前に死んでしまった愛犬とはいつもベッドで一緒に女房と川の字で寝ていた。ベトナムで長く暮らしていれば、犬の肉鍋を食べさせられそうになる憂き目に何度も遭遇することになるのだが、僕はたくみにこれまで回避してきたことを自負していたのである。 なのに、なんと、20年前、初めてのベトナムで食べていたとは。。。とほほ。。。

仕事のほうは、調べれば調べるほど、衛生部のボロが出てきた。コミューンの保健所から、郡の病院、衛生部、県の病院と訪ねて、入退院簿をめくりながら麻疹や風疹の記録を調べる。病院のお医者さんたちはみんな協力的である。衛生部に未報告の麻疹疑いの患者が100例以上もでてきて、一例の検査もされていないとわかった。衛生部の説明と指導がないため放置されている。衛生部と病院との関係がよくないらしい。客観的に見れば、原因は明らかに衛生部に信頼がなく、問題があるようだ。 

古い顔馴染みの粗を探すというのは、どうも気持ちのよくないものである。もちろん責める気などはないが、何とかこの機会に改善してもらいたい。
「いろいろ難しいこともあるだろうけど、どうか、僕の顔を立てて、病院との関係をよくして、頑張ってくださいね。」と頭を下げた。
彼らもニコニコとうなずく、その後は、まだ陽が高いのに別れの酒盛りである。結局、20年前と同様に、フラフラになるまで飲んで、抱き合って別れた。「今度ここを訪れるのはいつだろう。次の20年後は生きていないかもな。」なんて想いながら。。。 後日談であるが、僕らが訪問した直後に県から今年初めての麻疹疑いの小児の報告があった。ハノイで検査して麻疹だと確定した。少し前進である。ありがとう、皆。


北緯17度線へ ベンハイ川にかかるヒエンルオン橋


酔っ払いながら、ドンホイを後にし、次の視察地、クアンビン県の南に位置するクアンチ県に向かった。途中、世界遺産になっている鍾乳洞(パラダイスケイブ) があるというのでちょっと立ち寄ることになった。 鍾乳洞を目指して、南下する国道一号線とほぼ並行するようにラオス国境に近い山側を走ると、それがあの有名なホーチミンルートであるとわかった。ベトナム戦争時代、南のゲリラ(ベトコン)に物資を送るための補給路としてホーチミンがラオス、カンボジア国境のジャングルの中に作らせた全長1400kmの道である。20万人以上のベトナムの若い男女の兵士たちが多大な犠牲を払いながら昼夜を問わず作り続けた道である。アメリカ軍はそれをつぶすために空からダイオキシンを撒き、絨毯爆撃を繰り返すが、ついに失敗する。 今ホーチミンルートは、見事に舗装された真っ直ぐな道で、周りにはゴム園が広がっている。ここから昔の姿を連想するのは難しい。

舗装されたホーチミンルート

国道一号線(右)と並ぶヒエンルオン橋(左)
クアンチ県に入ってさらに少し南下すると、ベトナムを南北に分断することになったあの有名な北緯17度線がある。 ベトナムは1954年にディエンビエンフーの戦いでフランス軍に勝利し、ジュネーブ協定で北緯17度線を境にホーチミン率いる北ベトナムとアメリカの傀儡の南ベトナムの2カ国に分断されたのである。 分断は1975年のベトナム戦争終結まで続く。

夕暮れが近づいてくる中、現在の国道一号線の脇にひっそりと今も残って架かるヒエンルオン(Hien Luon)橋の脇に、保健省のドライバーが気を利かせて止めてくれた。20年前から機会があったら一度訪れてみたいと思っていた場所だ。ヒエンルオン橋の架かるベンハイ川が、南北を分けた北緯17度線である。このベンハイ川の南北2キロまでは非武装地帯(Demilitarized Zone DMZ)と呼ばれた緩衝地帯だった。

橋で遊ぶ子供たちとモニュメント

ベンハイ川にかかるヒエンルオン橋
鉄骨で組まれた橋の上には昔のままに?木の板が敷いてある。一般の人は入れないようになっているが、現地の子供たちは、自由に入って、橋げたから川に飛び込んで遊んでいる。橋の南側には立派なモニュメントが建っていて、道もそこで終わっている。赤く染まる夕暮れの空を背景にしながら、40年前にこの橋の両側で血まみれの戦闘が1975年の南北統一までの20年間続いていたと誰が想像できるだろう。 僕は、黙って手を合わせた。


20年目の旅はどうも感傷的になる。 人も物も止めようもなくどんどん変わっていく、一見あまり変わらないように見えるものでさえ、流れて変わっていく。人の一生もそんな流れの中の一瞬だと思えば、ちょっと仕事ができるとか、仕事ができないとかなんて、どうでもいいと思えてくるから困る。 誰もが今、この一瞬を生きるために生かされているとするなら。過去でもない、未来でもない、今のこの瞬間に、どれくらい精一杯に光ってみて、他人にも自分にも魅力的になれるかだけが大事なんだと思えてくる。 うーん、このナイーブさ、さすが"おめでたい人たち"のジョハ、会員番号一番です。


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