んだんだ劇場2012年9月号 vol.164
遠田耕平

No126 或る男の話、空のキャンパスを暴走する妄想

医者としての第一歩を僕は外科医として歩んだ。3年間しかいなかったのであるが、僕にとっては、ほとばしるエネルギーを思いっきりぶつけた青春の大事な時間だった。その秋田大学第一外科に入局した時からすでに30年が経つ。 一ヶ月ほど前に、突然、第一外科の医局から一通のメールが届いた。「やばい!。。。30年間滞納している会費の請求か?」とあせったのであるが。。。 それは第一外科の同門会誌に載せる寄稿文の依頼だった。 そこで僕は親しい或る男の話をさせていただいたのである。 残暑の厳しい折、少しもヒヤッとするお話ではないが、どうか我慢してご一読いただければ嬉しい限りである。 なにせ、僕の親しい男の話なので。。。


或る男の話、空のキャンバスを暴走する妄想


男は熱帯の木陰で、アングリと口をあけ、ぼんやりと空を見ています。 立ち上がる白い雲の塊り、その下を流れる小さな雲の群れ、暑い日差しの下でも木陰を通る風は男の頬を気持ちよく撫でていきます。男はぼんやりと畳一条もあるような大きなキャンバスを空の雲の上に想い描いています。そのキャンバスの左のほうにはなにやら多分、今まであった出来事のようなものがごちゃごちゃといろんな色に彩られてあるようです。はっきりと彩られているものがある割にはそれがなんだったのかよく思い出せない。それが男を少し寂しい気持ちにさせます。 

キャンバスの真ん中あたりはさしあたり今、この現在なのでしょうか。ごちゃごちゃと画いてはあるのですが、思いのほか色のついていない余白が目立ちます。 最近のことだから随分と一生懸命に画いたつもりなのにと男は少々不本意な気持ちになりますが、画ききれないで残る余白を男は嫌いです。そういえは子供の頃、画用紙いっぱいに、一つの余白も残さず、クレヨンでしっかり色を塗れたのに、いつから画用紙の余白を埋めることができなくなてしまったのかなあ、とぼんやり考えてしまう男です。

右のほうはこれからちゃんと画きたいなあと思っているあたりでしょうか。まだ色はありません。でも、4Bの太い鉛筆でいくつもの下書きがしてあります。何度も消しては画き、消しては画いた跡があります。この辺を見ると男は、何が書きあがるのかわからない不安と期待の入り混じったような気持ちで、少し楽しくなるのです。しかし、時として色がついてしまうと意外に面白くない出来ばえになることがあることも知ってはいるのですが。それにしてもこの男の筆の進みは遅く、想像とも妄想ともつかない想いばかりがキャンバスの右の方を暴走するのです。

その男のキャンバスの左のほうの話を少しだけしましょう。

ごく普通の真面目な医学生だったその男が道を踏み外したのはちょうど解剖実習を終えた1980年の初め、彼が3年の3学期でした。その頃、アジアでは自国民を200万人近く虐殺したカンボジアのポルポト政権がベトナムの侵攻によって崩壊。大量の難民がタイ国境に流れ出ます。連日、難民キャンプの惨状が報道され、「日本政府は金は出すけど人は出さない」と繰り返す。その報道に嫌気が差したその男、何を血迷ったか、突然授業を放りだし、難民キャンプに行ってしまいます。それが、いわゆる南の途上国の人たちとこの男の初めての出会いでした。貧しいけど明るく、大変なのに逞しく、笑顔で生きる南の国の人たちにすっかり一目惚れ。その男は、いつか必ずここで働こうと心に決めたのです。一目惚れはヤバイ。男はいつもこれです。

一目惚れ?で、医学部6年生の時に純真な女(当時)をまんまと言いくるめて結婚をし、卒業と同時に3人の子供が一年毎に生まれました。「4人目を」と言った瞬間に、その女に蹴りを入れられた男は諦めます。途上国で働く近道は外科だと思っていたその男は、迷うことなく高橋外科の門を叩きます。当時男の5年先輩には福田、中川、木田、塚本、小棚木、水口、伊藤、水沢、尾形、など、普通のものさしでは計れない狂ったというか、はちゃめちゃというか、つわもの先輩たちがごっそりいたのです。外科が楽しすぎる、男にはそんな時代でした。でも、その男、手術は大好きなのに、なぜか診療室と手術室の狭い空間が苦手でした。それから学生時代の不勉強を反省するかのように病理で5年間仕事をします。そこには、死ぬほど体を動かせる空間と、好きなだけものを考える時間がありました。子だくさんの安月給でも、男の妄想は、萎えるどころか、どんどん暴走したのです。

それから、その男はいろんな人たちに支えられながら、家族5人でイギリスに行き、ロンドン大学で熱帯病の勉強をします。さあ、夢の途上国で働けると思ったのもつかの間、仕事はうまく見つかりません。ところがまた周囲に助けられ、35歳で、ベトナムのホーチミン市でWHOの医務官として小児麻痺(ポリオ)根絶の仕事で働くことになる。その時、男は思ったのです。「ここでたとえ死んでもいい。悔いないように働こう。」と。3人の子供を抱え、女に何度も蹴りを入れられながら、やっとたどり着いた一目惚れの途上国で仕事ができた男は幸せでした。

男は3年余りの任期を終えたあと家族を連れて一旦日本に帰ります。再び大学のお世話になりますが、やはり長くは続きません。日本の社会やシステムの中でいくらがんばってもうまく順応できない人間はいるのです。5年の日本での生活にピリオドを打ち、高校生になった3人の子供たちを女に任せ、男は再びポリオ根絶のために単身インドに赴任します。そこでの生活と仕事は彼にとってかなり過酷なものだったようです。朝日新聞の「ひと」の欄の取材を受けた際に、軽率な男は「50度の炎天下で砂嵐ですからねえ。つい冷たいソーメンを食べる夢を見てしまいますよお。」と、記者に話したら、なんと「ソーメンをすする夢を見た、実は暑さが苦手。45歳」とそのまま新聞に載りました。ああ、本当に情けない男。インドで3年、その後、カンボジアで6年、そして再び初恋のベトナムに回帰し3年。縁は不思議です。

現在の男の仕事は定期予防接種に全般に関する政府のアドバイザーのようなものです。BCG, 3種混合(DPT)、ポリオ、麻疹、B型肝炎、ヒブ髄膜炎菌、日本脳炎など、ベトナムではすべて定期接種に入れています。ワクチンの安全で円滑な製造と運用はもちろんですが、病気の報告システム(サーベイランス)を全国に整備し、検査室で確定診断をできるようにします。ワクチン接種活動を見ながら患者発生の状況を調べ、村を歩く仕事は、地味ですが男は大好きです。さらに麻疹や風疹の大流行に対するワクチンキャンペーン、ポリオの輸入株に対する対応、新しいワクチンの導入のための財政負担と費用効果の算定など。男の小さくてツルツルの脳みそでは到底無理だろと思われるのですが、なんとかやっているようで、これも不思議です。

そしてあの東北大震災がありました。未曾有の激震に呼び覚まされたのか、医者になったころの気持ちが蘇った男は日本の医者を妄想します。男の医者のイメージは、ブラックジャックや医龍のようなもの(大ファンですが、)ではなく、往診して歩く田舎の診療所の医者でした。男の尊敬する礼文島の升田氏と会い、想いを告白したところ、「僕は礼文でがんばるから、君はベトナムでがんばってね。」と言われます。やや混乱した男は、在宅医療に奔走する親友の斉藤氏が経営する盛岡のクリニックを訪ねます。彼の在宅診療について回り、わかったことは忙しいということ。患者さんと接する時間は外来と変わらず、彼のように患者思いの医者でも医療保健制度を駆使して必死で生き抜いている。もう一人の親友で終末期医療に奔走する嘉藤氏に至っては、がんばり過ぎて体調まで崩したと聞く。日本は大変だあ。「こりゃあ、なまけ者の自分にはとても無理だなあ。」と男は深いため息をつきます。 

そのあと、気仙沼の保健所をたずねた男は、保健師さんたちの仮設住宅の訪問に同行させてもらいました。そこで、被災した住民の人たちの血圧を測りながら、いろんな話を聞きます。そのとき、「ああ、これだ。」と男は思うのです。震災で時間が一度止まったせいか、そこには男の小さな脳みそでもついていける速さの時の流れがありました。保健師さんたちも住民の人たちと同様に被災している。お互いが深い心の傷を気遣い、ゆっくりと話を聞き、血圧を測るだけで、何かが繋がる。そんな感じでした。「また、来てくれるか?」といわれて、「じゃ、またベトナムから来るかあー。」と冗談を言いながら男の目からは思わず涙がポロリ。「今の自分にできるとしたらこれだなあ。」と男は思います。ここで再び女の渾身の蹴り一発。

男は、恥ずかしいことに未だに一年先がどうなるか見当がつかないのです。つまりはキャンバスの右側に何を画いていいかまだはっきりわからないのです。男がはっきりわかることは、もうあまりゆっくりと画いている時間がないということです。「あなたは日本では使いものにならないんですよ。バカな妄想はいい加減にお止めなさい。」と、女は男をさとします。

それでも男は今日も飽きずに、ぼんやりと空を見ています。空には画きかけのキャンバスが広がっています。メコンデルタを吹き抜ける風を頬に受け、立ち上がる白い雲を仰ぎ見ては、妄想し、暴走する男です。 

すみません。いくら親しい男の話とは言え、ここまで話すとその貧困な計画性と身勝手さとツルツルの脳みそにいささか胸がムカムカしてきました。所詮、その男のキャンバスなんてどうでもいい話です。男に言いくるめられ、騙された薄幸の女に深く同情しつつ、ひとまずここで筆を置かせていただきます。 


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