んだんだ劇場2012年2月号 vol.157
遠田耕平

No118 蝋梅

義父の死に様

日本での正月休みからハノイに戻って一週間もしないうちに僕の携帯が鳴り、女房の涙声が耳元で響いた。 85歳を目前に義父が自宅で死んだ。 

頑固で、頑強で、我儘で、陽気で、酒が何よりも好きで、気性が荒っぽくて、口が悪くて、そのくせ、根っから優しくて、茶目っ気がたっぷりで、細かくて、神経質で、義母も娘たちをほとほとに困らせて、それでも心から愛され続けた義父がスッと旅立った。

義父は死ぬ前に僕を呼んだようだ。 ハノイに戻る直前に僕は胸騒ぎを覚えて栃木の義父の家を訪ねた。 父はもうほとんど動けなかった。 3ヶ月くらい前から一気に食欲が落ちて食べれなくなったらしい。 理由はわからない。15年前に手術した胃がんの再発でもなさそうだし、最近の前立腺がんの治療のせいでもなさそうだ。手術の後、父の屈強な体は手術前に比べると衰えたが、それでも、よく動き、何でも自分でやった。医者が嫌いで、よく生意気な若造の医者と喧嘩してきたと僕に自慢そうに話した。 それでも、細かく検査結果を記録しては僕に折りあるごとに見せた。僕の話には少し神妙な顔をして耳を傾けた。

その父に会うと、頬はこけ、体は冬枯れの木のように痩せていた。わずかな水分と一日100カロリー程度しか口にしないのであるから仕方がない。 それでも芋虫が這うように動いて身の回りのことはなんとか自分でして、床ずれも作っていなかった。 畳に敷いてあるふとんの脇にチョコンと座ると、支えることも辛くなった首をうなだれて、僕が持ってきた秋田の酒を嬉しそうに開けた。燗をするといって愛用の銚子に少し入れ電熱器で暖めて、自分のお猪口に少しもこぼさずについで、一口舐めて、あとは僕に何度もついだ。 僕は痩せた父の手を握り、体をさすりながら3時間程そばにいた。すると、自分の若い頃の話から孫の話までいろいろと話をした。そしてボソリと
「俺は、峠をこえたよ。」という。 そして、
「子供のいない家は寂しいなあ。俺は、優しい娘が二人いて幸せだよ。」と言った。それから痩せた小指をピンと立てて
「これもいるしな。」と、隣の部屋で寝ている義母の方を指した。
僕はなぜだか目の前が急に見えなくなった。涙が止め処もなく噴き出てくる。  僕の女房、つまり娘の顔までも忘れたと言うので、ボケてきたと女房は心配していたが、実は少しもボケてはいなかった。

もう父はあまり長くないなと感じ、僕の3人の子供たちに早く会ってくるようにすぐに連絡を取った。父はその数日後に突然、女房に「風呂に入れろ。」とかすれ声で怒鳴り、女房は一人で引きずりながら風呂に入れたらしい。食事も作れと言って、なんとか口に入れて食べようとしたという。これはいつもの父だ、まだ粘るな、と女房と姉が思った時だ。その数日後にぱたりと息が止まった。 僕の子供たちは結局おじいちゃんとの最後の別れに間に合わなかった。

ハノイから夜行便で翌朝成田に着いて、女房の実家にたどり着くと、そこには「自分の家で死にたい。」と言って念願を果たした義父の穏やかな顔があった。50年間暮らした古い日本家屋のきしむ床板と畳みの匂いが心を落ち着かせた。3日後に親族だけの葬儀を済ませると、母屋の脇には父が50年間大事に作ってきた20坪ほどの庭が残った。 それまではなんとか父が世話をして、木々の枝も落としていたようだが、昨年からは手もつけられなり、蔦が絡まり、木々は伸び放題に枝を伸ばして森のようになっていた。 松や樫、杉科の大木が多く、シュロの大木も3本あった。 

僕はベトナムのテト正月とも重なったこともあり、休暇を伸ばしてしばらく父の家にいることにした。そして父の残した庭の手入れをすることに決めたのである。父が使った小型のチェーンソーを小屋から出してきて、義姉と女房の許可を得ながら、みぞれ交じりの寒空の下、まず庭先の足元にある膝の丈ほどの松を根元から二本ばっさりと切ってみせた。すると、家の中からボンヤリと外を見ていた母がボソリと呟いた。
「それ、お父さんが、50年前に鶴と亀を模して植えたんだよね。」と。 遅い。。。。

それから5日間、僕は朝から夕方まで、甥に手伝ってもらいながら毎日庭木を切り続けた。父が手をかけてきた木々の枝ぶりは、見事だった。その庭木たちは僕に切る度に、父と会話させた。「いいですか?お父さん、切りますよ。」と。 木や枝とも会話をした。つぼみを付けた枝には切る度に心の中で謝った。そして切った。 そして切るたびに、少しずつ庭が元の姿になるような、明るくなっていくような不思議な気持ちになった。


蝋梅

4日目だった。関東が今年一番の冷え込みとなり、前の晩に降った雪が残る庭の中で、生い茂った月桂樹や松の木の枝を必死で落としているときだった。 突然、一本の金色に輝く木が芳しい匂いとともに僕の前に姿を現したのである。玉のように連なった黄色い蕾と開いたばかりの花が冬の太陽の光を一杯に受けて金色に輝いている。 蝋梅だ。 
  
実は数年前に、僕はこの黄色くピカピカと光る、まるで造花のような花を庭先で見て、
「面白い花ですね。見事な花ですねえ。」、と父に話しかけた。
すると父がこれは蝋梅だと少し嬉しそうな顔をして教えてくれたのだった。忘れていた。 母も今年は蝋梅が見事に咲いたのだとボソリと話していた。 まるで父を見送るかのように、枝は真直ぐに天に伸びて、光り輝く花をたわわにつけていたのである。 それはまさに旅立つ父そのものだった。 


僕は恥ずかしいことにこの歳になって初めて、人を見送ることの大切をゆっくりとした時間の中で感じることができたのである。 父は「生き様」と「死に様」の両方をしっかりと僕に見せてくれたのかもしれない。 


5日間手を入れて、小奇麗になった父の庭をボンヤリと見ていたときだった。不意に胸を内側から突き上げるような強い感情が立ち上がってくるのに気づいた。何かが呟いた。
「ところで、いったいお前のほうはどうなんだ? お前の本当の父親は今どうしているんだ?」と。 
僕らが子供の頃に家族を捨てて出て行った父のことなぞ、今の今までどうでもよかった。憎しみだけがあった。 考えることも嫌だった。 それが今、急に憎しみだけでは説明できない感情となって、何やら胸の内にぐるぐると渦巻き始めているのを感じたのである。 父と僕ら家族との間に生じる感情じゃない。 問題は父という人間に関する感情だった。 あれから50年近く、生きていれば、今はちょうど死んだ義父より2歳上の86歳だろう。 

彼はあれから幸せだと思える家族を持ったのだろうか? どのような後半生を生きたのだろうか。もう死んでいるなら、義父のように幸せだと思えて死ねたのだろうか? 死ぬ前には何を思ったのだろうか? 誰かが手を握っていてくれたのだろうか? どれほど憎んだ父であれ、父がいなければ僕はいなかった。 今までに感じたこともなかった感情が胸の奥底で渦巻くのを、僕はどうしようもない衝動で感じる。父はどう生きたんだ。いったい父はどう死んだんだ、それとも死のうとしているんだ。 それを知ることが、これから死に確実に近づいていく自分自身にとってとても大事なことに感じてきたのである。 義父の庭で、静かな冬の午後の陽光を浴びて輝く蝋梅を見ながら、僕はどうしようもない気持ちでいる。 これも義父の仕業なのか。 義父は今、その蝋梅の横に佇んで、見たこともないような穏やかな目で僕を見ている。
「ところで、いったいお前の親父はどうなんだ?」と。


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