んだんだ劇場2012年10月号 vol.165
No98
父親の初盆

念仏講と大施餓鬼
 「念仏講」に、かみさんも参加するようになったのは何年前だっただろうか。私が住んでいる房総半島、千葉県いすみ市では多くの地区で月に1度、どこか(私の地区では集会所)にご婦人方が集まり、「ハンニャー、ハーラーミーター……」と般若心経などを読経する集まりである。と言っても、かみさんが「お経の時間は短くて、あとはお菓子を食べながら雑談するんだよ」というから、ある種の地域交流の場と言えるだろう。かみさんは読経にはさほど熱心ではなく、いまだに般若心経さえ暗記できないでいる。けれども、念仏講のおかげで、近所のどの家にどんな人が住んでいて、同じ名字の家は屋号で呼び分けていることなどを知った。新参者には重宝な集まりである。
 もちろん、宗教行事としての意味も持っている。
 昨年の大みそかに父親が亡くなり、年明けに葬儀をおこなった際、本来は葬儀のあと、念仏講の皆さんに来ていただいて読経してもらうのがこの地域の慣習だった。しかし、父親の遺志で我が家では「家族葬」とし、ご近所の皆さんには野辺送りだけをお願いし、念仏講も遠慮した。それはそれで、地域の皆さんの了解を得た上でのことである。
 実は、春の彼岸の時にも念仏講をお願いしたのだが、「初盆に念仏講は欠かせない」と言いだしたのは、かみさんで、その段取りのためにあちこちの家へ相談に行った。この地区では初盆を迎える家がもう1軒あって、日取りを決めるのも手間取った。
 それが8月14日の火曜日になり、私も会社を休むことになった。「読経のあと、皆さんに素麺(ソウメン)を出さなくてはならないから、手伝って」と、かみさんに言われたからだ。素麺をふるまうのも慣習だという。
 当日は、もう1軒の初盆の家で読経を済ませたご婦人方が、各自、太鼓を持参し、私にはどれがどの経文かわからないけれど、トントンと太鼓をたたきながらいくつかのお経をあげてくれた。

太鼓をたたきながら読経してくださる「念仏講」の皆さん
 1週間後の8月20日の月曜には、菩提寺の曹洞宗、成就院で「大施餓鬼」があった。これも初盆の行事だ。
 初盆を迎えた家には、近所の方が「ふじもんりょう」(漢字では、諷、言べんに文、料、と3文字で書く)というお金を持って来る。中身は千円と決まっていて、素麺などの決まった「お返し」を渡す。「ふじもんりょう」は、名簿を作り、お金はそのまま菩提寺に納める。「大施餓鬼」の際には、住職が名簿の全員を読み上げる。これも、この辺り独特の風習だろう。
 父母の墓がある成就院は、歩いて5分ほどの小さな寺だが、この日は住職以外に13人もの僧侶が集まった。鉦、太鼓、シンバル(「にょうはち」が正しい名前だが、漢字が難しい)をチン、ドン、ガシャンと鳴らし、なんともにぎやかな法要だ。この寺の檀家で初盆を迎える家が4軒あり、「ふじもんりょう」の名前を読み上げるだけで40分もかかった。
 我が家では、娘、弟家族、葬儀には参列できなかった父親の妹(私には叔母)2人が参列し、施餓鬼のあと、墓に新しい卒塔婆を立てて初盆の供養を終えた。

近隣の住職が応援に来て行われた大施餓鬼
 「大施餓鬼」は曹洞宗だけではなく、他の宗派でも行う仏事である。房総半島のこの辺りは江戸時代、大多喜に10万石の本多氏がいたものの、それ以外はこまかく旗本領に分割されていたせいか大きな寺院は見当たらず、宗派も曹洞宗、日蓮宗、天台宗などさまざまである。1寺あたりの檀家数も少ない。成就院の「大施餓鬼」に集まった僧侶たちもそれぞれに曹洞宗の住職であり、日替わりで全員がそれぞれの「大施餓鬼」を助け合うという。「ふじもんりょう」も、1人あたりは千円という少額だが、集めればかなりの額になるはずで、各寺院で盆の時期に「大施餓鬼」を行うのは、小さな寺を維持するための相互扶助ではないのかと感じた。

雨が降らない
 我が家には、雨水を1トン溜めるタンクが2個ある。1998年にこの家を建てる時、父親が「畑で使う水は、雨水を貯めよう」と提案し、ホームセンターでも同様のタンクを売っているが「あれはプラスチックが薄いので、紫外線ですぐにやられてしまう」と言うので、私が探し回り、農業資材を扱っている会社で厚地のタンクを見つけた。
 我が家の屋根は、60坪の広さがある。南から北へ傾斜する片屋根なので、雨水は全部1本の雨どいに集まり、タンクへ流れ込む。以前は、家の東西にタンクを置いていたが、東側のタンクは使い勝手が悪く、ある時、父親が雨どいからタンクをはずして、畑の向こうの空き地(地主から管理を任されていた土地)に移動した。西側のタンクに溜まった雨水をポンプとホースで移し、そこから近い畑に水をやるつもりだったようだが、距離が遠すぎて計画通りにはならず、置きっぱなしになっていた。
 今年の5月、隣の土地にあった薪の山を移動させるついでに、かみさんと2人で、使われていなかったタンクを運び、2つ並べた。向かって右側が使い続けていたタンク、左側が移動したタンクである。並べたあと、5メートルのホースを買って来て、サイホンの原理で2つのタンクの水をつないだ。

2つ並んだ雨水タンク
 右側のタンクは、8年前に作った「日よけ小屋」に収まっている。いくら厚地でも、西日にさらされていてはプラスチックが劣化する。これも、父親のアイデアだった。
 こちらのタンクから中古品のバスタブにホースで雨水を一時的に移し、そこから水を汲みだして畑にまいたり、泥に汚れたクワなどの農具を洗ったりしている。

雨水は一時的に古いバスタブに溜める
 さて、バスタブの水面になにやら浮いているのが透明のペットボトルだと、おわかりになっただろうか。2リットルのペットボトルに、500ミリリットルのペットボトルの上半分を4本、切って差し込んである。これに半分くらい水を入れ、バスタブの水に浮かべておく。さて、これは何かというと、「ボウフラ採り」なのだ。

ボウフラ採りのペットボトル
 こんな田舎に住んでいると、ちょっとした水溜まりでもボウフラが湧くのは仕方ないことだ。で、ボウフラは呼吸をするために、ふらふらと浮かび上がって来る。ちょうど真上に、このペットボトルがあると、ボウフラはその中に浮かび上がって呼吸するのだが、そこでちょっと横に動くらしく、差し込んだペットボトルの狭い口に戻れなくなってしまう。中を覗き込むと、孵化した蚊もいるがペットボトルの中を飛ぶだけである。バスタブの水に戻れなくなったボウフラは、いずれこの中で死んでしまうという仕掛けだ。
 これは、かみさんが作った。テレビのニュースで、タイかラオスか、東南アジアの子供が発明したこれを見て、すぐに作ってみたのだという。3個作って浮かべたら、かなりの成功率である。発明した子供も偉いが、すぐ作ってみたかみさんも、偉い!
 それにしても、房総半島は梅雨明け後、さっぱり雨が降らなかった。計2トンの雨水タンクがカラになり、風呂の残り湯をポンプでくみ出して畑にまく日が続いた。お盆の頃は毎年、そういう日が続くのだが、残暑が長引いた今年はとくにひどかった。
 9月の半ばになって、やっとまとまった雨が降った。
「干天の慈雨」という言葉が切実に響く、ありがたい雨だった。

マグロの頭、200円
 午後4時ごろ、近くのスーパーへ行ったら「マグロの解体ショー」をやっていた。たぶん40キロぐらい、と思われるキハダマグロである。たまたま私が近づいた時、頭を切り落としたところだった。
 「頭、いくら?」と声をかけると、包丁を手にしたお兄ちゃんが「200円」という。
 「買った!」
 すかさず、私は言った。
 前に、新東名高速道路のサービスエリアのマグロの解体ショーで、「頭は、ただ!」という場面を紹介した(「んだんだ劇場」今年6月号参照)。頭の中には、俗に「ノウテン」と呼ばれる、断面が三角形の肉が埋まっている。これが、うまい。200円なら安いものだ。
 が、実を言うと、自分でこれを取り出すのは今回が初めてだ。最初は、小型で、刃が薄いペティナイフを差し込んでみたが、どうにも頼りない。頭の中の骨の位置がわからないので、ペティナイフでは無理があると思い、小型の出刃包丁に持ち替えた。これなら、ぐいと差し込んでも刃が欠ける心配はない。

マグロの頭。ピンク色の肉が「ノウテン」だ

取り出した「ノウテン」
 けっこう苦労して取り出した「ノウテン」は、かみさんと2人で食べるには十分な量があった。「ぶつ切り」の感覚で切り分け、ワサビをちょいと乗せて、醤油をつけ、口に放り込む。ほんの少し筋っぽいが、舌触りはねっとりしていて、噛むほどに脂のうまみが広がる。
 まさに「中トロ」の味だ。
 居酒屋なんかでこれが出てきたら、いくら取られるだろう。自分でさばけば、200円で至福の美味を堪能できるのである。
(2012年9月25日)


無明舎Top ◆ んだんだ劇場目次