んだんだ劇場2012年4月号 vol.159
No93
伊豆の生わさびソフトクリーム

干したら、どうして味わいが変わるのか
 前回の「房総半島スローフード日記」の最後に書いた、干し大根と干しナスの話を覚えておられるだろうか。かみさんの手作り乾物で、干し大根は「水で戻して、豚のバラ肉のかたまりなんかと一緒に煮ると、おいしく食べられるはず」と書いておいたら、3月3日の土曜日、房総半島、千葉県いすみ市の家に帰ると、かみさんがその通りに料理してくれていた。

干し大根と豚バラ肉の煮物

干しナスのミートソースでグラタン
 干しナスにひき肉と、缶詰のトマトを入れて煮込んだミートソースは、ご飯にかけ、上にナチュラルチーズを載せてオーブンで焼いた「グラタン」になった。
 前回の「日記」では話だけだったが、今回は写真をお見せすることができた。どちらもおいしかったが、干し大根の方は煮汁をたっぷり吸い、それに乾物特有の風味が加わって、これを肴にした酒もうまかった。
 さて、話が飛ぶようだが、先日、分子生物学者の福岡伸一さんが書いた『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)を読んだ。この無明舎出版のホームページに舎主のあんばい・こうさんが書いている「週刊んだんだNEWS」の「12年2月25日号」で、書評欄「あんばい一本勝負」に取り上げられているのを読んで、「かみさんがよく話をしているのは、この人か」と気付いたからだ。
 福岡さんは毎週NHKのテレビに登場して、おもに遺伝に関する面白い話をするのだそうだ。単身宅にテレビがない私は見たことがなく、番組名も覚えていないが、かみさんはファンで、「ぬいぐるみみたいにかわいいトイプードルって、知ってる? 元々のプードルは大きな犬なのに、人間がどんどん小型化させたんだって」などと、酒盛りを始めると楽しそうに福岡さんの受け売りを話す。
 だからこの本も当然読んだと思っていたが、「本屋で立ち読みしたら、最初の方は面白かったけど、科学的な話はちょっと難しくて、買っていない」という。それで、私が先に読むことにし、東京で買い求めた。
 私はまず、歴史の中に埋もれた科学者たちの話に興味ひかれた。例えば、1953年にDNAの二重らせん構造を明らかにし、後にノーベル賞に輝いたジェームズ・ワトソン、フランシス・クリックの2人に先駆する研究者たち、それに、DNAの構造を解析する決定的なX線写真を撮っていたのに、その成果を「盗まれたと思われる」女性科学者などのエピソードである。
 しかし読了後、最も深く感動が残ったのは、分子レベルでの緻密な実験工程だった。
その一つ、福岡さん自身がかかわった、膵臓の細胞内で作られる消化酵素の研究では、この消化酵素を内包する顆粒の膜がどんなたんぱく質でできているかを突き止めようとした。そこで使われる長さの単位は「マイクロメートル」。1マイクロメートルは、1ミリメートルの千分の1である。電子顕微鏡の世界だ。膵臓の細胞自体、底辺が30マイクロメートル、上辺が10マイクロメートルの台形という微細さであり、その内部にできる消化酵素の球形顆粒は直径1マイクロメートルしかない。まず、膵臓の細胞を物理的にすりつぶし、雑多な物が混じった中から消化酵素の顆粒だけをより分けて取り出す。さらに、顆粒の膜に傷をつけて消化酵素を追い出し、残った膜のたんぱく質を特定する。
 そんな研究がなんの役に立つんだ、とか、具体的にはどんな作業なのか、ということについては本を読んでほしい。実はこの研究には、ライバルチームがあって、どちらが先に解明するか激烈な競争が行われていて、まるで肉体労働のように続く研究作業がスリリングに表現され、小説にも通じる面白さだった。
 この本で、私は第一に「分子生物学とは、このレベルに達しているのか」と驚かされた。そして、実証のための果てしもない努力に脱帽した。確かに「ちょっと難しい」けれど、門外漢にも理解できる福岡さんの文章にも感心した。
 で、話は元に戻る。
 私は前々から、乾物の食材は、どうして生の時と違う味になるのだろうという素朴な疑問を持っていた。切干大根、干しシイタケ、凍結と乾燥を繰り返してできる高野豆腐(私の郷里の福島には、同様に作る「凍み豆腐」がある)などは、明らかに生とは別の味わいになる。物理的には、水分を抜き、調理する時に水分を補給して元の状態にするだけのことである。高野豆腐はスポンジ状になるので触感が違って来るが、人間の舌が、それを「味の違い」ととらえているだけなのだろうか。
 私の勉強不足かもしれないが、それを教えてくれる人にも、研究書にも、まだ出会っていない。
 でも、いつの日か、そんな疑問も科学的に解明されるのだろうなぁ、と、福岡さんの本を読んで感じた。食べ物の味は、舌で感じるだけでなく、香り、歯触り、温度によっても左右される。しかし、生と乾物の違いなどというものは何が変化したためなのか、いずれは突き止められるだろう。そこまで「味わい」が分析されれば、逆に、どんな味でも人工的に組み立てられ、それを間違いなく再現する調理ロボットが登場するのは「予想の範囲内」である。
 「お母さんが作る弁当は、愛情というひと味が加わっている」などというホンワカした言い分は、昔話になってしまうのだろう。
 が、まあ、それはそれで、「味気ない未来」ではあるのだが……。

静岡の高額ミカンとイチゴ
 最近はさまざまなタイプの味覚センサーが開発されて、「味」もさまざまな数値で表せるようになってきた。まあ、その数値どおりに人間が感じるかは別の話で、微妙な味わいを識別する能力はまだまだ鋭敏な人の舌にはかなわない。
 けれど、食べてみたらすごく甘くて、糖度計で調べると思いがけない数値だった、というようなことは、野菜、果物の品種改良ではよくあることだ。
 2月下旬、静岡県の東部農林事務所の招きで、伊豆半島の農作物を見せてもらう機会があった。その際、とんでもない高額ミカンがあるのを知った。「寿太郎みかん」という。なにしろ、通常の半分の大きさの5キロ入りの箱で1万円もの値がついたというのだ。1個「ん百円」にもなる。

寿太郎みかんの選果場

プレミアム寿太郎の赤い箱
 「寿太郎みかん」は、伊豆半島の西海岸、沼津市西浦地区のミカン農家、山田寿太郎さんが昭和50年、温州ミカンの品種である「青島みかん」の枝変わり(枝の1本が変異する現象)から見つけ、育成した。当時、山田さんが糖度を測ったら、17度もあったという。メロンでも15度以上あれば高値で取引されるのだから、これはミカンとしては驚異的な数値だった。
 その後「寿太郎みかん」は、西浦地区を中心に栽培が広がり、現在の平均糖度は13度くらいだが、生産量が少なく、ほとんどが東京市場へ出荷されるので、静岡県内でも食べたことのない人の方が多いという。
 中でも糖度が高く、大きさ、形も選りすぐった「プレミアム」だけを入れた赤い箱が、超高値を呼ぶ。とは言え、食べてみると適度な酸味もあるので、メロンのような甘ったるさだけではないのがいい。
 「超高値」の話をすれば、今、静岡県を代表するイチゴ「紅ほっぺ」は、12粒入り1パックに10万円もの値がついたことがあるという。1粒8千円を超えるイチゴを、誰が買ったのだろうか。
 イチゴは品種競争の激しい作物で、私の記憶では、大産地である栃木県で「女峰」(にょほう)に代わって「とちおとめ」が主力品種になったころ、静岡県では「章姫」(あきひめ)という品種を対抗させていたと思う。この「章姫」に、福岡県で開発された「さちのか」を交配させて誕生したのが「紅ほっぺ」である。
 一般のメロン並みの糖度12度という甘さもさることながら、まず、粒の大きさに驚かされる。そして、切ると中まで赤みが入っている。試食品を提供してくれた伊豆の国農協の説明によると、「見栄えがいいので、ケーキなどにもひっぱりだこ」なのだそうだ。

粒が巨大な紅ほっぺ

中まで赤い紅ほっぺ
 試食した「紅ほっぺ」は、少し硬い感じがした。しかしこれが、「紅ほっぺ」の売りのひとつなのだという。イチゴは店頭に並んでいるうちに、身が柔らかくなって形が崩れやすい。グズグズになると、カビも生えやすい。ところが「紅ほっぺ」は硬質で、日持ちがよいのである。
 イチゴの品種競争には、そういう視点もあったのかと、認識を新たにした。

かわいらしい、わさびの花
 伊豆半島の特産品と言えば、やはりわさびだろう。清涼な水が豊富に、絶え間なく流れる谷あいのわさび田に案内してもらった。昔ながらのわさび田の造成技術を継承する、天城の鈴木丑三さんの田(畑とは言わない)である。
 ここで初めて、私はわさびの花を見た。アブラナ科の植物と言われてみると、なるほど4弁の花を咲かせている。小さいが、かわいい花だ。例年だと2月下旬のこのころにはたくさん咲くはずなのに、「今年は春が3週間遅い」そうで、花はちらほら咲いている程度だった。

わさびの花

鈴木丑三さんのわさび田
 鈴木さんは創意工夫の人で、鈴木さんが育て、登録した新品種も2種あるが、それより驚いたのは「生わさびソフトクリーム」を考案したことだ。これは、「道の駅天城越え」にあるわさび直売所「天城わさびの里」の看板商品だ。注文すると、目の前でわさびをおろし、たっぷりとスプーンにすくってソフトクリームに刺してくれる。

生わさびたっぷりのソフトクリーム

わさびをすりおろしてソフトクリームに
 「わさびソフト」というのは、各地にある。が、たいていフレーバーを練り込んだ、全体が緑色のソフトクリームだ。「あれは、本物じゃない。本物の香りを知ってもらうにはどうしたらいいのかと、考えたのがこれだよ」と、鈴木さんは言う。
 「房総半島スローフード日記」では以前、山梨県の富士吉田市から大月市へ向かう途中の中央自動車道上り線の谷村(やむら)パーキングエリアで、これとまったく同じ生わさびソフトを食べた話を書いたことがある(「んだんだ劇場」2009年7月号所収)。「山梨県で、わさび?」には疑問もわいたが、その時は意外なおいしさに感嘆し、この組み合わせの考案者までは思い至らなかった。けれど、伊豆で食べたあとでは、鈴木さんのアイデアに触発されたと考えるしかなくなった。
 ありがたいことに、鈴木さんは自慢の生わさびを土産に持たしてくれた。
 ちょうど、その週の土曜日、弟が「注文しておいた、めちゃうまい酒」を持って来ることになっていた。かみさんには、「わさびが合う刺身を用意してくれ」と頼んでおいたら、春らしいアオヤギ、それと地場のタコをみつくろってくれた。
 生わさびは、茎を切り落とし、そちらからおろす。できるだけ目の細かいおろしがねで、ねっとり感が出るようにおろすと、香りも辛さも引き立つ。専用の「サメ肌のわさびおろし」がベストなのだが、なければ「おろしがねの上にアルミホイルを置いて、歯の先がちょっとだけ出るようにすると、なめらかにおろせる」と教わって来た。

生わさびでアオヤギとタコの刺身
 やはり、生のわさびは香りがいい。けれども、ツーンと来る辛さは控えめだ。その逆が、チューブに入っている練りわさび。「西洋わさび」、植物名ではホースラディッシュという近縁の植物から作るこちらは、おろしただけだと白いので、緑の色素を混ぜてわさびらしく見せかけている。本物のさわやかな香りには、とてもかなわない。
 この日だけは、ぜいたくに生のおろしわさびを刺身に載せて、弟が持ってきた美酒を楽しんだ。
(2012年3月12日)


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