んだんだ劇場2012年2月号 vol.157
No91
大みそかに逝った父親

年を越して咲き続く山茶花
 12月23日の金曜は天皇誕生日で、房総半島、千葉県いすみ市の家に帰り、26日の月曜は出勤するつもりでいたが、自宅療養になった父親の体力が目に見えて衰え、思い切って年内一杯休むことにした。かみさんに言われて尿瓶を買いに行ったのは、その前の週末だっただろうか。父親はトイレまで歩けなくなっていた。そのうちに、ベッドから自力で降りて立つことができなくなった。
 23日には弟が来て、2階の浴室まで父親を背負って来てくれたので、私と2人で入浴させた。元気だった頃の父親は、毎晩の風呂を欠かしたことがなかったのに、自宅療養になってからは「疲れる」と言って、1度、私とかみさんとで入浴させただけだった。ゆっくりと体を温め、父親は満足そうにベッドに戻った。
 その日、弟は、古い浴衣を裁断した布を大量に持ってきてくれた。便の始末をし、お尻をふき取って捨てるためである。私が父親を抱きかかえて立たせ、かみさんが便の始末をし、お湯で温めた布でお尻をきれいにする。父親が痛みを訴える時には、かみさんが座薬の鎮痛剤を入れる。鎮痛剤は胸に貼る薬もあって、これは相当に強い薬だという。座薬も、貼り薬も麻薬系で、毎日点滴をしに来てくれる看護士さんは「妄想のようなことを言い出すかもしれませんが、それは薬のせいですから」と言っていた。が、さいわい、父親は妄想めいたことは口にしなかった。
 主治医も、毎日のように訪ねて来てくれた。食事もせず、点滴しか栄養補給がないのに、なぜ大便がでるのかと主治医にきくと、「小腸、大腸の内壁が崩れて、それが便になって出てくるのです」と言った。乳酸菌などの腸内細菌もいるはずだから、その死骸も便になるのだろう。それが、無意識のうちに出てくる。日を追うにつれ、液状の便ばかりになり、父親の体内の活力が失われて行くのが、見ていてつらかった。
 父親は、痛みを感じるとうめき声をあげ、顔をしかめる。29日には、抱きかかえても立っていられなくなり、私が半身を寝返りさせ、かみさんがオムツを半分脱がせ、お尻の始末をして、私が逆側に半身を寝返りさせ、かみさんがオムツをはずして新しいのと取り替える。それが、2、3時間おきの作業になった。
 30日の夜、父親を寝かせて、かみさんはベッドのわき、私は隣の部屋で眠りについた。
 31日の午前2時、私はトイレに行きたくなって目覚め、少しあいたふすまの間から見ると、父親は少しせわしい息をしていたが、苦しそうな顔ではなかったので、リビングのストーブに薪をくべに行った。ついでに、夜はリビングに入れてある愛犬モモを外に連れ出しておしっこをさせてから、私は父親の隣室に戻った。
 父親は、せわしい呼吸がやんで、わずかに口をひらき、眠っていた。痛みが治まったのか。私も安心して、ちょっと見ていたが、父親の胸には上下の動きが見えない。2分くらい、私はそのまま見続けた。が、父親にまったく変化が見えない。
 私はあわてて、父親の部屋に入った。
 手の指が冷たくなっていた。けれど、顔も、胸も温かい。
 かみさんが目覚めた。「気がつかなかった」と、かみさんが言った。
 私は、父親のパジャマのボタンをはずし、左胸に耳をあてたが、心臓の鼓動音は聞こえなかった。
 午前2時30分。
 「起きていいんだよ」と声をかければ、「ああ、そうか」と起き出して来そうな、安らかな父親の顔だった。
 79歳と2ヵ月余。父親には、なんとか年を越させてやりたかった。だが、あと1日及ばなかった。
 嫌がるのを無視して父親を病院においておけば、あるいは年を越せたかもしれない。自宅療養を父親が選択した時、「病院のように、点滴で大量の栄養補給ができないから、お父さんの寿命を縮めてしまう」と、電話の向こうで、かみさんが泣いているのがわかった。
 たぶん、そうなのだろう。
 しかし私も、かみさんも、父親の意思に従った。結果は、しかたないことだ。

父が植えた山茶花
 父親は数年前、家の裏に山茶花(さざんか)を植えた。それが父親の入院中に咲き始め、一時帰宅した頃には木の全体に花を咲かせていた。父親がカラオケでは必ず「さざんかの宿」(大川栄策のヒット曲)を歌うから植えたのかな、と私は思っている。
 年を越えて、裏の山茶花は、先に咲いた花が花びらを散らしているわきから、次々に新しいつぼみがふくらみ、花を開き続けている。

母の手編みのチョッキ
 大みそかの朝が明るくなってから、母親が亡くなった時に世話になったJAの葬祭センターに連絡し、棺(ひつぎ)を用意してもらった。
 父親は常日頃、「葬式を派手にやるのは、残った者の見栄でしかないんだ」と言っていた。「おれが死んだら、葬式は家族だけでいいぞ」というのも、口ぐせだった。棺は白木の簡素なものを選び、父親のベッドを片付けたあとに据えた。そのわきには小さな台の上に線香立てと水、それに父親が好きだった酒のグラスを置いたが、酒はスコッチウイスキーにした。私が小さい頃、たまにサントリーの角瓶を飲む時に、父親が「これは、いいウイスキーなんだ」とうれしそうな顔をしていたことが思い出されたからだ。
 棺の上には、父親が中心になって好成績を修めたゲートボールの大会の盾を置いてやった。
 それと一緒に、若草色の毛糸で編んだチョッキを置いたのは、かみさんである。
 「これ、お母さんが編んだチョッキで、お父さんが気に入っていたんだよ。棺のふたを閉めるとき、中に入れてやりたい」と、かみさんが言った。

棺の上に置いたチョッキ
 母親は編み物が得意で、毛糸の帽子を何十個も作り、親戚、知人に配るようにプレゼントした時期もあった。が、このチョッキはうろ覚えだった。言われてみれば、そうだったのかなという程度である。しかし、かみさんは、すぐに父親のたんすの中からこのチョッキを取り出して来たのだった。
 1月1日の午前中に市役所へ行って火葬の許可をもらい、3日に通夜、4日に葬儀、火葬、納骨という段取りを決め、それから近所の長老の家、町内会の代表の家を訪ねて「家族葬にしたいので、香典、献花などの儀礼は辞退したい」と頼んだ。地域の慣習に従えば、葬儀の手伝いなどは当たり前のことだし、葬儀が終われば地域の女性たちが集まって念仏を唱える風習があったのを断りに行ったのである。
 「そういうわけにはいかない」と言われることは予想できた。「加藤さんはここに来てから、私らとよく付き合ってくれたから、亡くなって何もしないのは申し訳ない」というのを聞いて、「出棺のときに見送ってくだされば、ありがたいことです」と話して、その時間を町内会の方々に知らせてもらうことにした。同じ苗字の家が多く、屋号で呼び合うことが日常的な地域ではあるが、「葬儀を簡素化したいという気持ちもあるので、新しいやり方もいいのでは」と言ってくれる方もいた。
 小さな祭壇は、花屋さんが地味な色合いの花で飾ってくれた。私は、会社から連絡があった生花を辞退したが、弟の会社から生花が2つ届いたので、それを両わきに置いただけの質素は祭壇になった。そこに、胃癌の手術をする前の、ふくよかだった頃の父親が思いっきり笑っている遺影を載せた。

父の祭壇
 野辺送りには、ご近所の十数人が来てくれ、霊柩車が家を出ると、道筋の家の方、畑仕事の手を止めた方々が車に手を合わせてくれた。その気持ちだけで、ありがたかった。
 私の娘も、弟の一家も帰った葬儀の翌日、かみさんが父親の遺品の中から、1枚の写真をみつけて来た。元気にゲートボールの練習をしていた時の父親のスナップ写真である。
 父親は、あの若草色の毛糸のチョッキを着て、笑顔を見せていた。今頃はあの世で母親と9年ぶりに会い、チョッキの話でもしているだろうか。
(2012年1月16日)


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