んだんだ劇場2011年10月号 vol.153
遠田耕平

No116 ブラリ放浪、2011年日本の夏、―拝啓、気仙沼の皆様―

今年は8月の終わりから遅い夏休みをとった。 理由はない。山岳地帯での麻疹流行の調査や、大袈裟な会議が続いたので、自然に遅くなった。 でも、しっかり3週間休みにした。と、正直に休みだと言うと日本の友人たちは「ふざけるな!」と怒るので、たまたまちょっとだけ帰国したということにした。とは言え、このくらいまとめて休みを取れるのが僕ら国際公務員のせめてもの慰めでもある。円高でただでさえ安給料がさらに3割も減り、インフレで生活費が2割も上がるベトナムで、ぼやく女房を横目に、(もっと稼げってこと?)休み位はいいだろうと居直る僕です。


秋田県大曲(おおまがり) ―25年前のカルテー

この夏の放浪は、帰るとすぐ始まった。大学の後輩で、娘の高校時代の同級生でもあるT君が現在臨床研修している秋田県大曲から連絡してきた。
T君;「先生、25年前のカルテにトーダ先生のサインがあって、ハンコも
   残っているんですよ。」
僕;「えええ!(やばい、誤診がバレたか)」
T君;「みんなで笑いましたよ。先生を覚えている人が一杯いるので一度遊
   びに来てください。」(なんだか、やっぱりもっとヤバイ、。。。)
僕にとって大曲は、当時6ヶ月ほどいて、集中して外科の研修をした忘れられない土地だ。学生結婚をしていた僕には当時すでに2人の子供がいて、3人目を女房は身ごもっていた。エレベーターのないアパートの4階を宿舎にあてがわれたので、身重の女房は2人の子供を抱き上げながら、階段を上り下りして、毎日地獄のような生活をしていたらしい。らしいというのは、女房に叱られるが、僕はあまり覚えていない。昼も夜も手術や検査に熱中していたかららしい。すみません。。。

新築して外観が変わったとはいえ、昔の場所のままにある病院をぶらりと訪ねた。現在院長をしている当時の指導医だったF先生と副院長をしている僕の同級生のY君と、T 君の4人で前後不覚になるまで飲んだ。秋田人のY君は入学当時からいつも最前列に座って講義を聴き、コツコツと同級生とも群れずにマイペースでやる学生で、そのくせ、まったく嫌味がなかった。いつでも授業を抜け出せるようにと最後列にいた僕は、そんな彼を遠くから尊敬して見ていたのである。秋田人の不器用さと生真面目さを体現するような彼が、おでこの生え際が多少後退したことを除けば以前のままで、そのままに素晴らしい秋田の「医者っこ」になっているのがなんとも嬉しく、秋田の酒をしこたま飲んで、二人とも不覚になったのである。

当時院長で、僕の外科の師でもあるI 先生とも幸い再会できた。現在75歳になるI 先生は今も現役で小さな診療所を切り盛りしている。突然ぶらりと訪ねた僕を快く迎えてくれた。さすがに、あの外科の豪腕名医も歳を取られたなと思ったが、ふとその先生の周りを見ると見覚えのある当時の看護婦さんたちや病院のスタッフがそのまま25年の歳月を経てニッコリと笑っていた。不思議な感じである。大曲の土地と大曲の時の流れの中に身を任せて、みんなが自然に老い、生きている。彼らの目に映る僕も大曲の時の流れの中では、同じく自然に老い、生きているのね、と彼らには映ったのかもしれない。匂うような時間が雄物川の辺をゆったりと流れた。


岩手県滝沢村 ―走る医者っこ−

それから僕が訪ねたのは岩手県の滝沢村でクリニックを開業しているS先生だ。彼とは外科の研修医時代の同期で、お互い少しずれていたせいか、昔からなんとなく気が合った。 彼は自治医科大学の卒業ということもあって、地域医療には彼なりの哲学を持っていたように思う。結局外科を離れ、開業の道を選んだ。彼が今一番熱心にやっているのが在宅医療である。一度見に来いと言うので数日世話になることにした。

3日間、彼が看護師を連れて、自ら運転する車に同乗して、個人の家、特別養護老人施設、老人ホーム、ケアハウス、デイケアセンター等等、を回って歩いた。白衣も着ずに短パンとポロシャツ姿でふらりとついて回る僕に、大学で演劇部だったS君は芝居の口上のように
S君;「ばあちゃーん、こいつは僕の同級生でなあ。ベトナムから来たんだ
   あ。こんな格好しているけど、これでも医者っこだから、今日一緒に
   診せてもらってもええべかな?」
と秋田生まれの彼は見事な秋田弁で紹介。僕は彼の後を恐縮しながら「えー、これでもイシャッコです。」と、そろりと敷居をまたぐのである。

驚いたのはS君の忙しさである。朝は毎日外来に出て、途中、昼を挟んで訪問診療に車を走らせ、また夕方の外来に戻る。訪問でも次の訪問場所が待っているので決してゆっくりしてはいられない。看護師は慣れた手つきで機械で血圧と酸素飽和度をすばやく測り、数値を彼に告げる。彼はその場ですばやくパソコンに打ち込み、訪問先の患者さんの様子をしばし見た後、薬と請求書と前回の領収書を置いて、時に予め患者宅に用意してある現金を、有り難く受け取って立ち去るのである。 うーん、このスピード感、どこかで経験あるなと思ったら、これは、病院のあの外来のスピードと同じだなとわかった。外来が在宅になっただけに見える。うーん、やっぱりあの外来診療の時間とスピードなのである。 僕にはあのスピードが合わなかった。僕はどうしてもゆっくりと好きなだけ患者さんと話す時間が欲しかったと当時を思い出した。

S君は時に20キロ近くも車を走らせ、開業医の多い市街地の中まで訪問診療する。その理由は近くの開業医が往診をやらないからだという。彼が今一番力を入れてやりたいことは在宅での看取りらしい。 ただ、家族、保健師、介護師、そしてバックアップする総合病院の協力が必要だ。心が一つになることは相当に大変そうだ。

老人施設を訪ねて気がついたのは、遠くから一見するとボーとしているように見えるご老人たちだが、一人一人と向き合って話すと実に明晰で元気がいいということだ。ふと、その診断名を見ると、驚くほど、「老人性痴呆」とか「アルツハイマー症」なんて診断が多い。 

S君が、「おばあちゃん、今日は何月だっけかあ。」
おばあちゃん;「んー、何月だべかなあ? 盆も過ぎたし、8月でねば、9
       月だべかなー?」
S 君;「当たりー! だば、誕生日はいつだか覚えているか?」
おばあちゃん;「そいだばはー、とうに忘れたはー。ヒヒヒ、、、。」

おじいさん;「先生、おら、クソがずっと出てねえーんだ。なんとしても出
      ねー。ケツに詰まってんだ。クソが詰まって岩のように固くな
      ってんだ。」
介護師が耳元で;「先生、おじいちゃんは毎日ちゃんと出ていますよ。。」
おじいさん;「先生、ホントにもう何ヶ月も何年も出てねえんだ。なんとか
     してけれ。ケツにダイナマイトでも入れて吹っ飛ばしてけれ。」
S君;「んー。ダイナマイトかあ? そいだば、過激だあー。」

僕がS君の耳元で「俺だって、ばあちゃんの記憶と似たようなもんだぞ。それに俺も80過ぎてクソの出が悪ければ、じいさんのように思いそうだしな。これで痴呆にアルツハイマーは言い過ぎじゃねえか?」とささやく。S君、「俺もそう思うんだ?」と二人で顔を見合わせて笑った。 

S君は別な病院でつけられた診断と処方をにらみながら、彼のほうから出す薬で不必要なものはどんどん削っていく。その手さばきは見事なものである。S君「ばあちゃん、血圧はなあ、高くてもええんだや。あんまり下げなくてもええんだ。薬一つ少なくして様子みるべな。」と。彼の台所を見たわけではないが、現存の医療保険と介護保険をなんとかうまく合わせ使いながら、赤字が出ない程度に在宅をがんばり続けているように見える。S医者っこは今日も走る。運転だけは誰かに頼めるといいのになあと彼の体を気遣いつつ、子育てをしながら彼を影で支えてきた奥さんにお礼を言って、S 君のクリニックを後にした。


拝啓、気仙沼で出会った皆様

それから5日ほどを、古い友人で、敬愛する先輩医師であるH 先生が主催するシェアというNGOのお世話になって震災から6ヶ月が経つ気仙沼で過ごした。 気仙沼には以前から知り合いだった保健師のOさんが5月から入って、気仙沼市役所の健康福祉部にある健康増進課(65歳以下の検診、予防接種など)、高齢介護課(65歳以上)、障害福祉課(精神障害も含める)の地元の保健師さんたちと連携して健康相談訪問を実施していた。 健康福祉部にあった住民の健康に関する台帳が震災でなくなってしまったために、被災のひどい地域を中心に訪問しながら、台帳作り直す仕事をサポートしているようだ。
今も陸上に残る巨大な船舶
小学校の校庭に積み上げれたままの廃車
僕はベトナムから来たイシャッコなので、保健師のOさんの後ろを、短パンとポロシャツ姿でこれまたそろりとついて行きながら各家を回った。 はじめに訪ねた60歳前後の全盲のUさんのことは今も鮮明に記憶している。Uさんご夫妻は半壊したアパートの2階を借りて被災の大きかった場所のそばに避難所から戻ってきた。訪ねると人懐っこい笑顔の奥さんが、中に入って話してくれというので、お邪魔した。全盲のUさんは持病の腰痛を悪化させて、引きこもりがちになっていると奥さんは心配する。数日前も余震があり、非難警報が出たときは誰もサポートしてくれる人がいなくて怖かったと話す。

Uさんはお話をすると、とてもしっかりした方で、「腰が痛くなってきたので失礼します」といって、体を横たえ、楽になってくるとまたきちんと座り直す。30歳代までは船の機関士として働いていて、その後、網膜症で全盲になった。「全盲になったときは、一家心中をしようと思ったほどUさんは荒れたんですよ。」と奥さんが当時の苦労話をうっすら目に涙して話してくれる。U さんは穏やかな顔で黙って聞いている。それからマッサージの技術を身につけ、病院でも働き、最近は港の近くの自宅で細々とマッサージ師として日々をマイペースで過ごしていた。馴染みのお客さんも増えて、やっと平穏な生活が戻っていたという。そこに震災が襲った。奥さんが仕事場から戻り、全盲のU さんを抱えて、何も取らずに避難したという。家は消え、命は取り留めた。「あのまま死なせてくれればよかったのに、なんで助けた。」とUさんが避難所で奥さんをなじったと言う。それを静かに話せるほどに愛情深いUご夫妻だ。

Uさんは下肢の神経症状もあって、どうやらはっきりした椎間板ヘルニアで、手術が必要なようだが、悩んでいる。全盲の上に震災で家も仕事も失い、もしこの上、手術がうまく行かなくて歩けないようにでもなったら、本当にどうしていいかわからないと。 「ほんとうだね。」と僕も保健師のOさんも思う。Uさんがマッサージという技術を生かして以前のように働けるように、Uさんにとって最善の方法が何かを一緒に考えましょうと話した。 2時間以上も一緒にお話をしていただろうか。帰りがけに奥さんが「これ持って行って下さい。」と一本の羊羹を差し出した。固辞するのも申し訳なく、結局いただいた。その羊羹、なぜか今も食べられずにハノイまで持ってきてしまった。その後、気仙沼市の保健師さんと相談し、脊椎専門の整形外科医がいる病院でちゃんとしたアドバイスが受けれるように、今もご夫妻と話し合いながら最善のサポートを模索している。
気仙沼港から今も毎日引き上げられる瓦礫
気仙沼市の偉大なる保健師さんたち(健康管理センターすこやか)
さらにびっくりしたのは、気仙沼市の保健師さんたち自身の話である。気仙沼では保健師さんたちのほとんどが、自らも被災している。僕の目の前で話している保健師さんも仮設住宅から通っている。明るい顔でやっと新しい土地を近くに見つけ、家を建てることが決まったと話している。 もう一人の保健師さんは火災まで起こった被害の最も深刻だった鹿折(ししおり)地区に家があり、自宅は燃えながら流れていってしまった。どこに行ったかわからず探すのが大変だったと話す。家には金庫があり、せめてそれだけでも探そうと夫婦で随分探したらしい。すると、なんと近所の人が見つけていてくれた。 金庫をこじ開けると中には子供たちの母子手帳と、びしょ濡れのお札が少し見つかったそうだ。「びしょ濡れのお札を伸ばして、洗濯バサミで止めて、干して全部使ったわよ。」と、ゲラゲラ笑いながら話してくれた。彼女も今もまだ仮設にいる。思わず僕もつられて笑ったものの、なんだか変な笑い顔になってしまった。こいつは、一本も二本もやられたな、という感じだ。 気仙沼の保健師さんたちはすごい。

半壊したという家は一見、外見からは元通りのように見えるのだが、この6ヶ月は大変だった。港からかなり離れたところでも、高さ1メートル以上のヘドロと、重油を含んだ海水が家を襲った。それから6ヶ月間必死の修理、修復作業を続けたという。写真を見せてくれて説明してくれたご家族もいた。 夏草が生えて空き地のように見えるところは全て家が流された跡だったと言われてわかった。何千台もの流された車が錆付いて、今も山積みにされ、空き地や学校の敷地などに廃棄しきれずに放置されている。
気仙沼に応援に来た宮城(栗原、色麻)の保健師さんたち
仮設の保健調査に回る保健師さんたち(右端がO さん)
巡回訪問の運転をしてくれた僕より年配だが、実に謙虚で礼儀正しい地元出身のOさんが、気仙沼漁港の被災状況をつぶさに見せてくれた。港は1メートル近くも沈下し、満潮時には街中まで海水が入ってくる。港はまだ使えず、トロール船が今も海底から瓦礫を除去し続けている。気仙沼だけで、1000人以上の方が亡くなられて、500人の方がいまだに行方不明のままである。秋刀魚の初水揚げがあったとはいえ、高知のカツオの一本つり船と一緒に入った漁船が水揚げしたものだ。港の製氷施設が全て破壊されているから水揚げが出来ないのである。漁業の再開はまだ先が見えない。車を30分ほど走らせて、陸前高田まで行ってみてさらに驚く。そこは本当に街が全てなくなっている。平野が気仙沼よりも広く海に開けていたせいで、津波の被害はさらに烈しいものだった。6ヶ月経った今もある津波被害の爪痕は紙面では語りつくせない。 
 
仮設の訪問で、或るおばあちゃんと老夫婦との出会いも忘れられない。農家で80歳になるおばあちゃんは3年前に旦那さんを亡くし、娘夫婦に田んぼを任せて、自分は畑を作り、近所の仲間たちと楽しい老後を送っていた。そこに震災が襲った。裏山に登って逃げ、辛うじて助かった。眼下で自分の家が津波の渦に飲み込まれて消えていくのを見たそうだ。重油タンクも流れてきて爆発がはじまり、一晩中、山の奥に向かって逃げ続けたという。陸前高田に嫁に行った2番目の娘さんが亡くなった。でも、嫁に行った家のおばあちゃんは兄弟も子供もたくさん亡くし、自分よりもっと可哀相だと言う。 優しいおばちゃんだ。市から支給された家電6点セットの使い方がわからないというので保健師のOさんと奮闘する。帰り際に血圧を測る。「おばあちゃん、血圧はとってもいいねえ。」というと、「また来てけれ。」といってくれた。嬉しい。

80歳と87歳になる老夫婦。ご主人は戦前結核になったが、結局徴兵されてシベリアに4年抑留されて戻ってきたそうだ。それから遠洋漁業でずっと働いてきた。3年前には胃がんで胃全摘出をしているが、腰も曲がらず元気である。おばあちゃんのほうは腰が曲がり、数年前に軽い脳梗塞を患って、今は突発性難聴で困っている。薬を9種類も渡されて、飲んだら気持ち悪くて吐いたと嘆く。薬を調べるとあまり必要もない薬なので、「飲まないで様子をみてもいいよ。」というと大いに喜ぶ。 震災の時は二人で庭仕事をしていた。ただならない揺れだったので、家に戻らず、何も取らずに山のほうに逃げたという。全てが流されたが、命は助かった。そのあと、避難所、親戚の家など転々とするが、仮設の抽選がなかなか当たらなかったらしい。当たる人は何度も当たり、一度当たってもその仮設が気に入らないとまた応募できる。本当に必要な人に当たらなかったと、6ヶ月も待たされた心の内を話してくれた。いろんなものを支給されて有り難いと、それでも感謝の心を忘れない。 

話が一段落したので、血圧でも測ろうかと、測っていると、「あんた、ここの人でねえべ。どこの人だが?」という。ベトナムから来ました、とも言えないので、「秋田だよ。」と答えるとニッコリして、「また来てけれ。」といってくれた。その一言が、嬉しいのである。 なんだか久しぶりに、本当に久しぶりに、一人の医者っこに戻った気分にしてくれた。

僕は数日を気仙沼の人たちに助けられながら過ごし、いろんなことを教えられ、考え、後ろ髪を引かれる想いで、気仙沼を後にした。 シェアが支援した気仙沼巡回療養支援隊は日本各地から派遣される保健師ボランティアーの窓口になり、約7ヶ月間で在宅2021世帯、仮設住宅848世帯の訪問調査を終えて、気仙沼市の保健師に引継ぎ、9月末で活動を終了した。 シェアの保健師のOさん、本当にご苦労様。

ハノイに飛び立つ直前に、僕の医者としての先輩であり、尊愛するシェアのH 先生にお礼の電話をした。「気仙沼なら僕のようなものでも、医者っこができるかもしれない。日本でもう一度医者として、こんな僕でも出来る、診療時間も保険診療も無視した、やりたい医療があると久しぶりに思いました。」と僕は思わず心の内を話した。人は僕をバカだという。途方もない夢のような話をするバカだという。僕はそれでいいと思っている。 H 先生が電話口で、「じゃあ、一緒にやりましょう。いつでも。」とささやいた。バカは僕だけじゃない。。。 思わず胸が熱くなった。 

いろんな気持ちを胸に、放浪の夏休みは終わり、僕はハノイに戻った。ハノイに降り立って、胸の中は、なぜか曇りが少し晴れた感じがする。今の自分が、自分なりに精一杯やれる場所がどこかと問えば、それはこのベトナムだろうと、真直ぐに答えられる自分に少しなれた気がする。 もちろん大したことも出来ないのだけど、バカなりに、もうちょっとは、ベトナムの人たちのために出来ることを一生懸命にやれよと。そうでもしないと、あの日本の中で、一日一日をちゃんと生きているあの人たちになんとも申し訳ないでしょうと。 こんな僕でも、もしかしたら医者っことしてやれる場所が日本にあるかもしれないぞ?と思えたことだけでも、今の僕の気持ちが少し軽くなったように感じるのです。逃避といわれようと、錯覚と言われようと、人にはそんな心の逃げ場所があっていいのかもしれませんよ。逃げ込む所もあると思えば、今を無茶苦茶、死に物狂いでやってみようぜ、と言いたくなってくるのです。 いずれ、与えられたこの場所で、「もっとまじめにやれーー。」ということですね。 


拝啓、気仙沼で出会った皆様、

短い滞在の上、何もできなくて本当に申し訳ありませんでした。というか、逆に勇気と元気を山のようにいただき、本当にありがとうございます。いつの日か、かの地に帰れる日を夢に見、しばらくは、この地で皆様に恥じないようになんとかやっていきます。 皆様の日々の健康を遠方より心から祈っております。 

敬具、 
ベトナムの医者っこ拝


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