んだんだ劇場2011年5月号 vol.148
遠田耕平

No111 僕たちの戦争、 未曾有の災害のとき

今回はどうしても大震災と原発事故の話をしないでは先にいけそうもない。  
海外に住んでいて、日本に起こったこの未曾有の事態を知り、まだ何も具体的な行動を取れない自分がいる。ある種の苛立ちの中で、今月号を書いている。 

メディアを通してでしか知りえないが、被災地の状況はまだまだ極めて困難な状態にあるということが、伝わってくる。大切な人や大切なものを失った被災された人たちの、絶望、今日を生きる勇気、明日への希望を。 人だけではない、被災した数え切れないほどの家畜やペットがいる。木々や草花や、土や石や、空気までもが声なき声を発しているようだ。 その上に放射能汚染が底の見えない暗い影を落とす。

今回の大震災と原発事故は僕の中では「戦争」だった。記憶から消し去ることの出来ない大事件。 僕の親の世代が体験したあの世界大戦と同じレベルの大事件として位置づけたということです。 一刻も早く解決されて、早く忘れて、二度と思い出したくないと願うほどの忌むべきこと。でも、しっかりと正視して、しっかりと考えないとならないもの。 今その過程をしっかりと踏まないと必ず悔恨を未来の世代に残すと僕は感じる。

正直に言って、僕には今の日本の状況はやっぱり日本的にみえてしまうのです。 世界唯一の被爆国で、原爆の被害者であると僕も含めて多くの日本人は感じてきた。ところが、その加害者としてきたアメリカの技術で次々と原発を建設し、国策として原発を推進して、その恩恵に地元も日本国民全体も浴してきて今の経済発展の一端がある。 つまり、いわゆる国民の総意で承認してきたことだということです。(大戦も国民の総意だったということになっている。) だからこそ、未曾有の自然災害、未曾有の原発災害を経験している今こそ、自然災害に対するあり方、さらには自然に対峙する人間のあるべき姿と、原発の是非を含めたエネルギー政策、経済政策の今後の日本のあるべき選択をちゃんとした国民的議論という形でしないでどうしようというのか、と思えるのです。 

世界大戦についてもしかりです。敗戦のあとからずっとその議論を避けてきたのは僕ら日本人自身じゃなかったのかと。誰の責任ということではなく、あの時、日本人がどのような選択をして、あの様な悲劇に至ったのか。国民の総意とはなんだったのか。回避する道はなかったのか。 沖縄の基地問題もしかり。 正面から議論しようとする機会が今回もあったはずなのに結局しない。 鳩山元首相が口を滑らせたということでマスコミも国民も一笑に伏してすべてはうやむやになった。 そうしたマスコミの論調と、うやむやにしたほうが沖縄の外、つまり本土に住む日本人には都合がいいと言う国民の総意?です。 

東電と現政権に問題はあるのでしょうが、ただそこに責任をなすりつければ、話をわかりやすくなって大衆受けすると思っているマスコミの白痴化の影響も大きい。 僕ら大衆がバカにされているのか、僕らが本質的に本当にバカなのかよくわかりませんが。

劣悪な環境で、昼夜を問わず原発の放射線漏れを処理する作業を続ける東電の職員の姿こそが、泥の中から行方不明者を探す自衛隊の人たちの活動こそが、連日マスコミから報道されてしかるべきだと感じますがどうでしょうか。マスコミの皆さんいかがですか?  

少し極端な意見ではあるが、僕は日本国民全体が代価を払わないと、つまり身を削らないとダメだと思っている。 現存する原発全部の安全性を根本から見直さざる得ないと思う。 いくらかかるのか、何年かかるのかわからないけど仕方がありません。 未来を考えるしか僕らには希望がないのだからこれも仕方がない。 未来の子供たちのために考えることが今を生きている僕らに唯一できることだから。 

僕らはもう変わってしまったのか?

と、ここまでなんだかナイーブな意見を展開しまったなあと思ったところで僕の恩師M先生に会った。彼はすでに世界は変わってしまったのだと言う。 変化は訪れたのだと。空の色も空気の匂いも変わったと。 変化は内発的に起こるものではなく、きわめて受動的に、外的なエネルギーで起こるもので、それはすでに現在の日本人全体に作用したのだと言う。 大衆が考えて結論を出すとか、国民的議論が変化を作るなんてはじめからありえないもので、日本人にとっても、人類にとっても運命的とも言える変化はすでにしっかりと訪れたのだと。もちろん、その先は見えないままではあるが。 僕の杞憂とは無関係に、個人個人の中ではすでに変化が訪れている、あの一瞬の後に、と。 

直線上に描かれた単純な発展の構図の中のやりきれない不安の中に遂に訪れた「晴天の霹靂」のようなもの。何かがおかしいと思いながらベールに包まれたような不安の中で、もがき苦しんでいた若者たち、いや人類全体にもたらされた、体をゆすぶり起こされたような覚醒の瞬間。 僕たちは今やっと自分たちの目で自然の本当の姿、原子力の実態を見ようとしているのかもしれない。(僕は以前ここで自然のことを書いた。) 変化はすでに訪れたのか? 単純な人間の欲と経済の直線上に僕らの将来はないのだとすると、僕らはいったいどこに行くのか。誰にもまだよくわからない。 僕は今自分の目と耳と体で感じ、心で感じたいと思っている。

ベトナムで未曾有の風疹の大流行と急増する「先天性風疹症候群」

一年半前に僕がベトナムに赴任して以来、数万人単位で流行していた麻疹は、昨年の9-11月に実施した5歳以下の児童を対象にした全国麻疹ワクチンキャンペーンの効果があって、一応の終息を見た。 ところが今年に入って、発熱発疹性疾患(Fever&Rash)の報告が急速に増えてきた。あわや麻疹の再流行かと驚いたのだが、集まってくる血清を調べると麻疹ではなく、全てが風疹陽性とでた。 

実は去年の発熱発疹性疾患(Fever&Rash)の報告のうち風疹が血清診断でわかったものは3000例近くと麻疹の2倍もあったのである。それでも流行はあまり顕在化しなかった。しかし、今年になって感染症を専門とするハノイの病院の外来は数ヶ月で数千人もの風疹の患者であふれ、病棟も脳炎などの重症化した風疹脳炎などの患者で一杯になった。もちろんメディアも書き立てる。

風疹の歴史

「風疹」は一週間程度の潜伏期のあと、発熱と発疹を主症状として発症する急性の感染症だ。「三日はしか」とも呼ばれるように麻疹と似ているが、全身症状は一般に麻疹よりもずっと軽度で、死亡例は極めて少ない。子供の頃に罹っていれば、終生免疫を持って再感染は一般にない。たまに重症化するものでは脳炎や関節炎が見られるが回復は良好だ。 しかし、風疹の最大の問題は「先天性風疹症候群」である。 母親が妊娠初期の12週までに風疹に罹ると、ウイルスが胎盤を通って胎児に感染し、臓器を形成する時期の胎児の体に深刻な障害を残すのである。その主な障害は目、耳、心臓に集中するが、脳、肝臓、骨髄、骨などにも及ぶ。目の障害は白内障、緑内障、耳は難聴、心臓はあらゆる心奇形として現れる。

まだワクチンが使われる以前の1960年代に風疹は欧米で大流行した。アメリカでは推定で1200万人の患者と2万人以上の先天性風疹症候群の子供が産まれたと報告されている。日本でも、その直後沖縄で500人の先天性風疹症候群の子供が産まれたのである。1960年代後半に風疹ワクチンが開発され、1970年に入って風疹ワクチンが使われるようになると日本でも妊娠可能な女性、15歳の女子学生を対象に接種が始まった。しかし、残念なことに風疹の流行は収まらず、数年に一度の流行とともに先天性風疹症候群の子供が産まれ続けた。 1994年になって、児童の定期予防接種への導入によってやっと流行の終息を見るのである。 日本全国にある多くの聾学校はこの過程で整備されていったものらしい。

ベトナムの実態

ベトナムではまだ風疹ワクチンが定期接種に導入されていない。世界では140ヶ国がすでに導入している中で、しかも予防接種活動では優等生のベトナムがまだ導入していない。 その最大の理由は疾患に対する認識の不足だ。風疹は長く子供の病気だった。妊婦の感染による胎児への影響がクローズアップされたのはここ4-5年のことである。風疹が報告すべき感染症となったのは今年から。「先天性風疹症候群」の報告は全く義務化されていない。医師の知識が不十分なことも問題。インタービューした新生児専門の医師は、「胎児への影響はインフルエンザだと大学で教わった。」というトンチンカンな答えが返ってくる。「先天性風疹症候群」の報告は一部の大病院に限られ、その実態は全くわかっていない。 障害を持った子供たちのケアが十分でないベトナムでは目や耳に障害を持った多くの子供たちが、その原因もわからずに、学校にも行けず家事を手伝っていることが多い。 ベトナムでは今回の大流行で4000人以上の先天性風疹症候群の赤ちゃんが一年間で生まれると推定している。風疹に感染したと疑う妊婦の人口流産が急増しているのも悲しい現実である。 
両目の白内障と心奇形、母親は風疹に感染。 母親は子供を病院において失踪したため、孤児となった。
重度の心疾患(ファローの四徴)と白内障、母も風疹に感染
風疹に有効な治療薬はないが、安くて効果の高いワクチンがある。30セント(25円)のワクチン一回で90%以上の予防が可能である。 それでも政府はワクチンの導入を見送ってきた。一方で、ドナーの思惑に押されて20ドル(1600円)以上する肺炎や下痢ワクチンの導入に拍車をかけている。「風疹で子供はあまり死なないだろう。だから大事じゃないよ。」という乱暴な意見まで出てくる。 生涯にわたって目や耳が不自由になり、心疾患を抱えて生きて行く毎年何千人という子供たちとその家族の想いはいったいいくらするというのだろうか。 僕はここ数年来、風疹ワクチンの早期導入を説いてきたが、どうも政府からは真剣に相手にしてもらえなかった。

二人の助っ人と病院行脚

今回は素敵な助っ人が二人現れた。 一人はWHOのインターン制度で短期契約でやってきた小児科医の飯島真紀子先生。彼女は長崎大学の熱帯病研究所の大学院に所属する臨床医で新生児も診れるので僕には助かる。僕が新生児に触るとぎゃーぎゃー泣き出すのだが、彼女が触るとぴたりと泣き止む。さすがである。もう一人の助っ人はアメリカのCDC(疾病コントロールセンター)からきたスーザンリーフ先生。彼女はアメリカの風疹対策の責任者でもある。50代後半の赤毛のスーザンは気さくに、世界の風疹対策の10年の変遷を見事に教えてくれた。
重度の先天性風疹症候群の新生児を診る飯島先生
重度の先天性風疹症候群の子供と対面する父親。初めての子供だという。
助さん角さんを伴った黄門さまの珍道中はベトナムの北部から南部の感染症、小児、新生児、産院などの主要病院を行脚して歩いた。 ハノイの病院にも先天性風疹症候群の子供たちはたくさん居たのであるが、北部独特の書類上の複雑さから実際に診ることはかなり制限があった。南部のホーチミン市に行くと、事情はがらりと変わった。僕の知人も多いこともあるが、数多くの「先天性風疹症候群」の新生児を実際に診ることが出来た。その数は僕らの予想を遥かに超え、今年3ヶ月で60人以上が入院している新生児科もある。南はあまり問題ないだろうという北の予想は大いに外れた。

一度に10人以上を診た新生児たちはいずれも正常児に比べると明らかに体重が少なく、肺炎などの感染症を合併し、多くが白内障と心奇形を伴っている。そして多くに母親の風疹の感染歴と新生児の感染抗体が証明される。実際は難聴が隠されている子供たちはこの何倍もいるのである。僕自身がこれだけ多くの「先天性風疹症候群」の新生児を一度に診るのは初めてのことで、これはかなりのショックである。僕の場合こういうショックは大いに原動力となる。連日のように現場の報告をレポートにして保健省の担当者に送り、なんとか保健省の専門部会で風疹の会議を開いてもらうところまでこぎつけたのである。 助さん、角さん、ありがとう。

政府の風疹ワクチン導入に関する方針はまだ不透明なところが多いが、一筋縄ではいかないこともわかっているところである。黄門珍道中としては、お家騒動、幕臣の陰謀は日常茶飯事。解決のためにはご老体、老いの身に鞭打って大いに燃えるところである。 乞うご期待。。。


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