んだんだ劇場2011年2月号 vol.145
遠田耕平

No109 脱腸で考えたこと

2回もお休みしてごめんなさい。脱腸になりました。 麻疹ワクチンのキャンペーンの視察で全国各県を2ヶ月間、毎週のように回って歩いていた時です。 途中から風邪をこじらせ、しつこい咳が一ヶ月以上も止まらず、疲れもピークだったある日、どうも左の脚の付け根が引っ張られるように痛い。リンパ節でも腫れたかな?と思って触ると、ポニョっとした感触。ああ、「又の上のポニョ」、いや「坂の上のポニョ」、いや「ソケイヘルニア」、いわゆる「脱腸!」だとわかった次第。

脱腸というと、顔をしかめる人が多いようなのですが、よく聞くとどうも直腸の一部が肛門から出てしまう「脱肛」と勘違いしているらしい。 脱腸はそもそも胎児の自然な発生過程に起こるので、完結の仕方が少し不十分だったというだけのこと。 僕らが母親のお腹に居る初めの頃(胎生7週頃)、男性の精巣、いわゆる「きんたま」はお腹の中の腎臓の少し下あたりにあります。それが妊娠7ヶ月頃からだんだん下に降り始め、9ヶ月目には陰嚢、いわゆる「ふくろ」の中に収まっていく。その際、腸が入っているお腹の一部も一緒に引っ張りながらソケイ部(いわゆる北野たけしのコマネチ!のライン)を超えて「ふくろ」降りてくる。そして「きんたま」が「ふくろ」に収まると、お腹の一部を一緒に引っ張ってきた通路は閉じて、「ふくろ」とは切り離されるのです。 実はこれは女性でも全く同じで、男性の「ふくろ」にあたる陰唇に向かってお腹の一部は同じように引っ張られ、同じ通路を作り、閉じるのです。

脱腸はこの通路がちゃんと閉じてくれなかったときに起こります。お腹の一部が「ふくろ」の近くまで伸びているので、お腹に力がかかるたびに腸の一部がその通路にもぐりこんでしまう。 泣いたり咳をしたりするとはっきりと飛びだしてくる。放って置いたら治りましたという人があるが、それは、成長とともにその通路の壁を作る筋肉が強くなって閉じるらしい。ヘルニアのある子は自分の手でポニョを押し戻し、慣れてしまっている子もいる。腸がその狭い通路に入り込んだままで戻らなくなると、血行障害が起こり、これは緊急手術になる。 

腹圧が強くかかることで閉じたはずの通路が緩んでしまう脱腸はどうやら全年齢で起こるらしいとわかった。それにしても僕の体はいろんなところが緩んでいる。先日、胃カメラを飲んだら、食道裂肛ヘルニアだと言われた。食道と胃の境目が緩くなって、胃液が食道に逆流するそうだ。胸やけの原因らしい。 さらに最近、食べるとよくむせる。これも食べ物が気管に入らないようにしてくれる喉の筋肉の動きが緩んでいるせいらしい。もちろん頭のねじはとっくに先天的に絶望的に緩んでいる。

初めは可愛らしかった僕の「又の上のポニョ」も次第に大きくなり、歩くだけでも出てくるようになった。困り果てて、秋田の某病院で外科部長をしているK先輩に連絡を取ったのである。 先輩は長く連絡を取らなかった不祥な後輩にも拘らず、快く対応してくれ、年末の慌しい時期に僕の手術を入れてくれた。縁とは不思議なもので、去年の夏、友人の計らいで、女房と僕は始めて人間ドックなるものをその某病院で受けた。その時に、たまたま先輩と10数年ぶりに再会したのである。日本以外では絶対にあり得ないと確信するてきぱきしたドッグのスタッフの手際に女房ともども感心。先輩にはドックで何か見つかったらお願いしますね、と冗談交じりで挨拶をした。冗談ではなくなった。。。

年末、秋田に戻った翌日に、受診と入院、次の日には手術となった。病室に入ると、老練の看護師が口早に手順を説明してくれ、わが陰毛を電気カミソリで剃っていった。面倒くさかったのか、剃った毛の一部は無造作にパンツの中に残され、手術の不安も一緒に残った。 翌朝、浣腸もされ、点滴はなぜか3回入らず、手術室に入った。仰向けで天井を見ながら入室したのは医者になって初めてだが不思議な気分だ。手術室の看護師たちは実に親切。でもマスクで顔が見えないので表情がわからない。最近マスクが病院で励行されているので仕方がないのだが、表情が見えないのはどうも困る。患者の立場からすると、医者も看護師もみんなマスクをされていると、どうも不安になるのはそのせいかもしれない。 どうしてもマスクをしないとならないなら、表情の見える透明なマスクができて欲しいものである。

先輩が自ら上手に腰椎麻酔をしてくれたのだが、どうも手術部位での効きが悪く、やり直したが、2度目もやはり効きが悪い。結局、痛いなあ、と思いながら手術は一時間で無事終了。麻酔はそれから出遅れてたっぷりと効き始め、真夜中まで下半身も陰部も、お尻も感覚が戻らなかった。尿意もなく、結局、真夜中に老練の看護師に導尿され、少し情けない。でも、翌朝までにはなんとか自力で立てるまでになり、排尿もしっかりできるようになった。 

翌朝、外科にいた当時の後輩が回診にきて、「先生、こうしてベッドに寝ていると、患者のようですね。」と笑った。 当たり前だ。患者です。。先輩のK先生もわざわざ来てくれて「傷口はよさそうだから、家でおとなしくしているなら帰ってもいいよ。」と言う。もう一日は入院の予定だったが、傷口を押さえながら夕方に帰宅した。 小雪交じりに吹いてくる冷たい空気を胸の奥まで吸い込むと痛みが和らいだ気がした。たった二晩でこれだから、長く入院する患者さんは本当に大変だと思う。 あまりのいい雪に、我慢できず、手術後5日目に傷口を押さえながらスキーをしてしまったことは内緒である。


医者を取り巻く日本の医療現場

脱腸のおかげで、親しい同輩や後輩、さらに先輩からも日本の医療現場の現実を聞く機会を得た。要約するに彼らは厳しい医師不足の中で、全く休みが取れない激務の中にいるということである。 そこで以前から不思議に思っていたナイーブな疑問を聞いてみた。 僕が医学部を卒業してから30年近くが経つという事は、毎年一万人弱の医師が誕生するわけだから、30万人近い医師が僕の卒後巣立ったことになる。それなのに、なぜ今も医師不足というのだろう。 答えは意外にも明確だった。 最大の要因は高齢化社会である。以前は老人の外科適応と言うとせいぜい70歳半ばくらいまでだった。ところが今は高度の管理が可能になったので90歳くらいまでやると言う。 悪性疾患は高齢化とともに増加するのだからリスクを背負った手術数は倍増し、ひとりの患者にかける検査や管理にかかる費用も時間も倍増する。そして一人の医師の肩にかかる仕事の量は激増する。 その一方で医者が増えない。それは、経験ある年配の外科医たちが次々と一線を退く一方で、若い医師たちは激務で割りの合わない外科に行きたがらない。医師不足のなか、患者も手術も増え続ける。これは小児科、産婦人科、みな同じである。割が合わない。。。

もう一つ医師不足に拍車をかけたものがある。厚生労働省が肝いりで進めた研修医制度の導入だ。これはヤクザの組長の如き医学部教授と縄張りの如し大学医学部の医局制度をぶち壊してしまえという、単純痛快な構図であった。アメリカのような実力本位、自由主義にしようという考えだ。確かに新卒の医師はやくざの親分に仁義を切らなくても実力さえあれば好きな病院を選んで研修できると言う利点はあった。しかし、その結果、単純明快な構図に乗った新卒の医師たちは単純明快に都市部の大病院を選んだ。地域住民を長年支えてきた地方病院には行かなかった。 一方、大学病院を研修病院にするために地方病院を支えていた中堅の医師たちは大学にどんどん呼び戻された。結果、地方病院は深刻な医師不足で診療継続困難となり、どんどん潰れていったのである。

やくざ?の言い分

思うに、やくざにも言い分はあったのである。実は地方病院はそれまでやくざの縄張り、つまり、大学医局制度で支えられてきた部分が多かった。そもそも医者は職人的な性格が強い職業である。新卒の医師は兵隊アリのように先輩の指導の下、薄給でこき使われる一方、何かあったら先輩たちがサポートしてくれるという見えない安心感があったことも事実で、それが若い医師たちの成長を裏打ちしていた。さらに、僻地の病院に回されても、我慢すれば数年で大学に戻って研究する機会も保障された。 若い医師をやくざの縄張りに中で循環させることで地方病院には活気があった。 ところが、地方の大学病院は今、厚労省の指導に従って指導医はそろえたものの、研修医は大都市部の病院に流れ、医局を構成する医師は激減し、研究も教育も立ち行かなくなり、医学部自体が潰れかけている。まさに厚労省の描いた医局潰しのもくろみは見事に成功した。しかし地方病院も大学も潰れていくことを十分に予想していたのだろうか。役人の仕事である。 

医師不足には患者ニーズにこたえるための高度医療の細分化も原因の一つにあるようだ。最高の医療を要求される現代、医師は細分化した専門分野にはいっていく。 何かあると「自分は専門が違うからこれこれの専門の先生に紹介しますよ。」と、延々と患者の旅が始まるのかもしれない。専門性は確かに大事であるが、何かがおかしい。 誰が昼夜を問わない救急や、当直や、一般内科、外科や、小児科や、産婦人科を担うのであろうか。 僕には休みなく働く、不器用で実直な先輩や同輩、後輩たちの顔が目の前をよぎる。 

丁度今、研修医をしている息子には「パパ、これが現実なんだから仕方がないんだよ。」と言われる。「子供の時から塾に行って、ずっとレールに乗ってきた現在の医者の卵たちが、わざわざ割りの合わない仕事を選ぶわけがないでしょ。」と見透かしたようなことをいう。そういえば彼は一度も塾というものに行かなかった。それも少し特別だが、彼の言う通りなのかもしれない。 でも、「何で医者になったの、君は?」つい、そんなナイーブな質問を聞いてみたくなる僕は、その質問が実は僕に向いていると気がつく。


いまから、これから

要するに、くどいようだが、今の日本の「医者っこ」の現実はなんとも厳しいということである。 ふと、「ああ、聞かなければよかった。」と思った。燃え始めた僕の心の奥底の火にちょっぴり水をかけられたような気がした。 アジアの途上国のフィールドで働く楽しさは前にも増して強いのだが、どうも最近WHOという「死にゆく恐竜」が自分の終の仕事には思えなくなってきている僕がいる。50歳の半ばを越え、残る体力の限界をかけて、人生の最後のページを埋める僕なりのチャレンジとはなんだろう。 燃えるような思いで、夢中になれる何かとは。死に行く恐竜の体内で定年をむさぼる未来が僕にはどうしても想像できなくなってきている。 

僕にやり残したことがあるというなら、それははっきりしていた。病を癒す一臨床医としての自分だった。人生は一度きりなんだから、そんなにいろんなことがきるわけないでしょ、と言われる。ひたすら夢を追って途上国を歩いてきたんだから、それで十分いいでしょ、と。何を血迷って、臨床医として長い経験もないのに、緩んだねじの頭で研修をしなおして、今から苦労しようというの?まったく何を考えているんでしょうね。ああ、それなのに、それなのに、「一度きりの人生なら、やるしかないでしょ。」と、つぶやく僕がやっぱりいるのです。

僕を知り尽くしている女房は、朝もまともに起きれない怠け者で、休暇のしっかりある国際機関の海外生活に慣れきった僕が、厳しい今の日本の臨床医ができるとはとても信じられない。ごもっとも。しかも、そんな中途半端な医者に命を預けるとすれば、患者さんがなんとも不憫だと嘆く。さすが女房である。ただ、多動症の亭主が一度動き出したら止まらないこともご存知である。 まずは数年かけて先輩、後輩や友人たちの世話になりながら臨床の感を取り戻す。それから僻地の農村か漁村で、在宅診療を専門とする「医者っこ」になる。空想と言われようと妄想と言われようと、自分の想いを形にする術は、具体的に動き出す意外に方法はないから仕方がない。その時間はきっとまだ僕に残っていると理由もなく信じる僕がいる。 

ぼんやり窓の外の雪景色を見ている僕に気づいた女房は、「バカなことを考えてばかりいないで、外の雪かきでもしておいで。」と、雪かきシャベルをポンと渡してよこした。 外に出ると冷たい空気が胸に張り詰めて、ぼんやりとしていた心は覚醒する。不安で怖いような、でも、楽しい、わくわくするような想いが湧いては消える。なぜかそれは新鮮で、ひんやりとした純粋な雪の匂いがした。 雪かきを終えて、トイレに入ると、女房が日めくりをしている相田みつをさんのカレンダーが目の前にあった。不器用なほどに見事に暖かい書体で「いまから、これから」と書いてある。 僕もそう思っていますよ。


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