んだんだ劇場2008年3月号 vol.111
No7
花嫁の「パパ」ラッチ

別世界 「スーパー**と行く世界紀行」
おそらく、ある条件を満たしているせいで、間違って送られてくるのだろう。我が家に定期的に届く、某旅行会社のパンフレット「シニアパッケージ60/スーパー**と行く世界紀行」の中身は、世界の名だたる観光地への豪華な旅のお誘い。もちろん、最初から私たちには問題外なのだが、少しはつながりがあると思って、野次馬気分でながめるのがイギリスに関するご案内。そのひとつが、「コッツウォルズの田園風景と湖水地方の景色を満喫/伝統のスコットランドからイングランド縦断の旅11日間」というツアー。エジンバラ2泊、湖水地方2泊、チェスター1泊、コッツウォルズ2泊、ロンドン2泊と連泊を中心に、スコットランドの首都エジンバラからバスで英国を南下周遊するゴールデンコースの旅と書かれている。

バイブリー(フットパスを歩いた靴の泥を落として)

ハワースの草原をマウンテンバイクで降りる子どもたち
大都会で過ごす時間には、いまのところ興味がないので、最初と最後のエジンバラとロンドンの街は歩いたこともないが、途中通過するハドリアヌス城壁、連泊で見学する湖水地方のニア・ソーリー村ヒルトップにあるピーターラビットに関連した場所、ワーズワースが過ごしたというダヴ・コテージ、ウィンダミア湖の遊覧、「嵐が丘」の舞台となったハワース、シェークスピアの生家があるストラットフォード・アポン・エイボン、さらにバートン・オン・ザ・ウォーターやバイブリーといったコッツウォルズの村、世界遺産のバース・・・ここまでは最初の2年で、それぞれに私たちなりの訪ね方(入場料のあるところはバースを除いて、外からの見学のみ)をし、私たちなりの感じ方、楽しみ方をしている。
ツアーは、さらにストーンヘンジ(ここは訪ねていない)を経て、ロンドンへと7日間かけて、バスで移動。その距離を合計してみると、1295キロの旅。表示されている基本旅行代金は出発時期によって、649000円から799000円。これに、日本国内の空港施設使用料、現地空港諸税、燃油サーチャージが追加される。これらの総額は、私たちがイギリスに一ヶ月滞在した時の一人当たりのほぼ二倍。

パンフレットの注意事項
こういうパンフレットを見る時、やはり気になって、必ず書かれてある注意事項をのぞく。出発・到着の時間帯は諸事情によって変更あり。これは、いつでも、どんな場合でもそうだ。続いての項目。教会や修道院ではミサなどが行なわれていて、急遽閉館になる場合があり、その際は外観のみの案内。湖水地方の観光はミニバスに分乗の可能性あり。エジンバラ城、ホリールード宮殿は王室行事などで入館できない場合があり、その際は外観のみの観光。ラベンダー畑・ひまわり畑は期間中でも天候等の事情により、開花していない場合は立ち寄らない・・・などと書かれてある。

ペファウンテン・アビー(リポン)にて

湖水地方・アンブルサイド近郊のステッピング・ストーン
もしこんなことがあったら、ほかにもこれに類したことがあったら、ツアー参加の人たちはどんな反応をするのだろうか。たとえ連泊が基本のゆったりした日程とは言っても、毎度めぐってくる三度の食事、そして常に動いていること(移動すること)がこのツアーの基本部分であることは、その行程表をみれば、容易に想像できる。そうした時間の楽しみは楽しみとして、限られた時間で、次々とめざしていく目的地(観光地)をそれぞれに精一杯満喫しようとすると、あっというまに時間は過ぎ、必ずや各人の思い通りにはいかないところが出てくるはず。そんな時、それぞれの方はどう気持ちを収めていくのだろうか。つい、私はそんなことばかりが気になる。
そこのところは、イギリスを旅する紳士淑女の方々のおおらかな心、リッチな心持ちで、軽く受け止められていくのだろうか。まあ、そんな時にこそ、**の腕の見せ所なのだろうが、好みの違う人たちが一緒のツアーの中、これが団体旅行の最低条件ということで求められる寛容さ、従順さというものが、やはり私には我慢できない。ましてや、こんな大金をかけての旅行だと思うと、なおさらのこと。別に私が行くわけでもないのに、ついこんなことを書きたくなってしまう。

日本人のツアーグループ
これまで3度のイギリスの旅(延べ90日)の間、日本のツアーグループには2回だけ会った。一度はコッツウォルズのカッスルクームで、一度は「嵐が丘」の舞台となったハワースのヒースの花が咲いている道で。たった2回だけというのは、私たちがいわゆる観光ポイントになりそうな場所へ行くことが少ないせいもあるし、たとえ行っても、入場料のかかるところは外から眺めるだけで充分と、たいていはそのまま通り過ぎてしまうことが多いせいかもしれない。
カッスルクームへは、『旅名人/コッツウォルズ・西イングランド(英国を代表する田園風景)』(日経BP刊)をみて、「映画のロケ撮影によく使われ、イギリスで最も古い家並みを残している集落」という紹介のされ方に惹かれて、でかけたと思う。
ただ、直接そこへいくだけではつまらないから、チッペナムからバスでヤットンキーネルへ行き、そこからカッスルクームをめざしてみようと歩き始めた。ところが、いざ歩き始めてみると、なかなかその道がみつからず、そんな私たちを見て、近くで農作業をしていた、ごつい感じのまだ若そうな男性が、かなりの先まで案内してくれて、やっと地図に書いてある道にたどりつくことができた。最初は道もはっきりせず、そんなにいい感じでもなかったのだが、先へいくにつれ、のどかないつもの道になり、最後はゆっくり下っていったところにカッスルクームはあった。そこで、思いがけずたくさんの日本語が聞こえてきた。

ペカッスルクーム(コッツウォルズ)にて

ハワースに咲くヒースの花
中年男女のにぎやかなその日本人一行は、一時間ほどの自由散策時間が終わって、バスへ戻るところだった。その中の何人かと話をした。その時、心に残ったこと。川沿いのベンチで、リュックの中から出したパンや果物で昼食を始めようとしている私たちをみて、「いいなあ、いいなあ、こんな感じがいいなあ」と言いながら、名残惜しそうに戻っていったその後ろ姿。もうひとつ、この人たちとは別のツアーの人たちなのだろうか。通りかかった二頭の馬に乗った女性に頼んで、つまり無理やり立ち止まってもらって、堂々とその二頭の馬をはさんで記念写真を撮っていた中年のおばさまたちの、実にあっけらからんとした立ち居振る舞い。
もう一ヶ所のハワースでは、たまたまヒースの咲いている場所をみつけた私たちが、その場所でのんびりしていたら、大型バスが止まって、思いがけず日本語の説明を聞くことになった。その現地ガイドによると、ハワースではこの場所が一番最初にヒースの花を咲かせるところらしく、それでここへバスを止めて、ヒースの花の見学になったとか。説明の後は、それぞれにヒースの前で写真を撮り合い、まもなくバスは出発していった。息子は久し振りの、私たち以外の日本語が嬉しかったらしく、そのバスにずっと手を振り続けていた。後にも先にも、これ以外に、私たちは日本人の団体ツアーには会っていない。

似たような、日本の中年夫婦
個人の中年夫婦には、これも二組会った。最初の年、オックスフォードからのバスで、私たちの日本語を聞いて、話しかけてきた中年の夫婦と、バスに乗っている間ずっと話をしていた。この時はこちらもイギリスの旅を始めたばかりだったので、ツアー以外に個人で旅行をする人たちはどんなやり方をしているのか、そんなところを聞いてみたかったし、さらには自分たちの知らないイギリスの旅への興味があった。

グラスミア湖(湖水地方)にて

ウィンダミア(湖水地方)オレストヘッドの朝の散歩
二年目の湖水地方では、連日のように、ある中年夫婦に会って、これはなんともおかしかった。どうやら、向こうもフットパスを歩きにきたらしく、そういう場合湖水地方(ウィンダミア)では歩く場所も似たような道になるのか。あるいは、日本人が選ぶコースというものは案外決まってしまうものなのか。お互いに同じ、日本的ウォーキングスタイルで、なぜか毎日どこかで顔を合わせることになった。ただそのたび、向こうの方には「ここで日本人には会いたくない」といった、私たちを避けるそぶりがあって、最初にちょっと話をしただけ。ところが、この二人には二度目の町へ移動した時にも、町の中でばったり会って、お互いにまたびっくり。ただ、この時以来、似たようなめぐりあわせは、いまのところない。

日本人オーナーの宿
ところで、イギリスには日本人がオーナーとなっている宿もあって、これまで2ヶ所でお世話になった。それぞれに印象深かったのだが、少しイギリスに慣れてきた現在、どうしても日本人の宿でなければというこだわりもなく、あえてそれを避けるという気持ちもない。三年目からは、たまたま訪ねる町にそうした宿がなかったというだけのことだが、最初の年、そして二年目には、それぞれに日本人ならでは・・・の心地いい時間を過ごすことができたと思っている。
一年目、あらかじめ宿を決めていなかったせいもあって、途中から連日の宿探しが大変になってきた。そんな時、ガイドブックにあった日本人オーナーの宿に電話して、自由に日本語で話せた、この時のめぐりあわせには随分助けられたような気がする。

セトル近郊のフットパス

ベイクウェル・ハドンホールからの眺め
なにより夏の旅行時期というものを考えたら、宿を決めずにでかけてきたことは、3人でひとつの部屋に続けて滞在することも含め、多少無謀なことでもあったらしく、かなり困り果てていたこちらの事情を察してくれたのか、予約の連絡を取ったその前の宿へ電話をかけ直してくれた。その電話で、こちらがいましたいことをいろいろ話すうちに状況が好転。旅行最後の11日間、部屋を変えたり、別宅(彼らの住居)へ移動したりしながら、続けて泊まれるように配慮してもらえたことで、その後の私たちの日程もかなりゆったりとしたものになった。実は、この時の居心地のよさから、以後ひとつの宿にできるだけ長く泊まるというパターンができたともいえる。

最後の夜のパーティー
そして最後の夜、宿のご夫婦は私たちのために、日本食を盛り込んだ豪華なパーティーを開いてくれたのである。この時の我が息子、存分に日本語が話せたこともあり、またそこで働いていた若い女性たちともたっぷり話ができて、いまもって彼には印象が強い宿になっている。
そんなこともあってか、二年目の最初も日本人夫婦の宿にした。英語が達者(得意)なわけではない私たちに、その気安さは嬉しかったし、ちょうどサッカーのドイツ・ワールドカップが開催されていた時でもあって、リビングで一緒にワインを飲みながら、応援観戦もできた。そして、次の宿へ移動する時、私たちのために作ってくれた、おにぎり付きのお弁当をいただいたこと。次の町に着いて、まだ落ち着かない状態で、それがその日の夕食となり、それが日本人の「心」を味わう時間であったこと。さらには、三年目の宿のことで、英語のサポートをしてもらったこと。そして、私たちの友人たちも、時期を違えて、偶然泊まっていたことが後でわかったりして、私(たち)の及ばないところで、ひそかにこの宿の余韻は「いま」につながっている。

さて、四年目の今年、いまのところ、日本の方とは縁がなく、計画は進んでいるのだが、いつどこでどんな形で、日本の誰とめぐりあうのか、これは誰にもわからない。

イギリスでみる日本の夢
日本にいてもそうだが、イギリスを旅行している間も、毎晩のように夢をみる。必ず見る。その夢というのが、連日イギリスのフットパスを歩いているはずなのに、場面は決まって日本のものばかりというのも、不思議といえば不思議。
この夢、いつものように、日によって内容はさまざまなのだが、旅をしている時ほど、どんでん返しがいろいろあって、ドラマチックなものが多い。毎日これまでとは違った日々を過ごし、体もそれなりに疲れていて、夢など見ることなく、ぐっすり眠れそうなものだが、意外にも日々の思いがけない出来事にさらに輪をかけたような、動きの激しいダイナミックな夢が多く、おかげで夢の中でも、私は休むことなく大奮闘していることが多い。

ある町の宿の夜明け前

ある町の宿で、ふと目が覚めて
連日、夢の中の私は必ず日本へ飛んでいって、たいていその夢のせっぱつまった場面で目が覚め、それが夢だと気づき、しばらくして、いまいるここが日本からはるか遠いイギリスであることを思い出し、そのたびに奇妙な気持ちになる。私の中で、一体どんな深層心理が働いているのだろうか。夢の中には、いまは亡き父がよくふらりと登場してくる。昨年のイギリスではそんな夢が多かった。
そんな時、しばらくぼんやりしていることもあるし、そのまま眠ってしまうこともある。以前会社に勤めていた頃、タイミング悪く、次々と現実のいろんなことがめぐってきて、そのまま眠れなくなることがよくあった。翌日の仕事のことを考えると、睡眠時間が足りないということは、当時の私にはちょっとした不安な状況であって、それで余計眠れない自分に焦ることもあった。いまは違う。たまたま目が覚めて、たとえ眠れなくても、いずれ昼寝でも、ほかのなにかで取り戻せると思うから、その時の具合でラジオをつけたりすることもある。

ラジオ深夜便
いまだによくみる夢は、試験を前に何も準備していない・・・という類の夢。今日は、あなたの知っている短歌(和歌)を一首だけ書けばいいという試験で、なにひとつ浮かんでこないという状況で目が覚めた。夢の中で、いつになく苦しんでいたせいか、すっきり目が覚めてしまった。
こんな時、最近はよくNHKの「ラジオ深夜便」を聞く。別に、そんなに熱心に聞いているわけでもなく、隣の部屋で眠る息子の邪魔にならないよう、小さな音で聞いている。つけた時間で、聞こえてくる番組はそれぞれで、そのまま聞いてしまうこともあるし、内容によっては、いつのまにか眠ってしまうこともある。多いのは2時から4時までの間、まれに1時台のこともあって、続けて毎日聞くこともあれば、しばらく聞かないでいることもある。

ハドンホール(ベイクウェル)

ハドンホール(ベイクウェル)からの眺め
現在、私は部屋に一人で寝ている。旅行の時は三人一緒だが、私はある時から妻とは別の部屋で寝ることになった。いつか必ず一人で寝ることになるだろうからというのが、もっともらしい理由。ひとつは、夜中に目を覚まし、そのたびゴソゴソする私がうるさいからという妻の「提案」、これが一番決定的な理由かもしれない。以前は目が覚めた時、本を読むこともあったが、いまは目が疲れるので、もっぱらラジオだけ。そのどちらも、静かに眠りたい妻には好ましくないらしい。60歳目前の私はまだ若い部類のリスナーのようだが、番組で紹介される人たちの便りを聞けば、闇の向こうに、私がこれから近づいていく世界の人たちのたくさんの夜を感じる。

ここだけの時間
さて、この2年ほどの間、私の中に入ってきた「ラジオ深夜便」の世界。明け方4時台「こころの時代」(各方面の方へのインタビュー、そのお話)は内容によって、必ず聞くということもないのだが、2時台の「ロマンチックコンサート」、3時台「にっぽんの歌こころの歌」といった音楽の時間はそれなりに楽しめる。たまたま偶然、思いがけなくめぐってくるこの時間、懐かしい曲がかかったりすると、暗闇の向こうから、それを聞いていた頃の時間が一瞬舞い戻ってくるような、妙にせつない気持ちになって、これは手持ちのCDを聴くのとはちょっと違う、ここにしかない世界というものを感じる。

息子のこれから
そんな夜を過ごすこともある私と、ふすま一枚へだてた隣の部屋に寝ている息子のことを、私はなかなかうまく説明できない。彼は現在32歳。知的障害という認定を受け、障害者手帳を持ち、ある福祉作業所に通っている。28歳の娘は現在外国で暮らしているが、この息子とは彼が生まれた時からずっと一緒に暮らしている。いや、一緒ということでいえば、私が東京へ単身赴任していた1996年2月から4年2ヶ月の間、ほぼ週末ごと、私は家に戻ってはいたが、この期間だけ一緒に暮らしていたとはいえない。
ハドリアンズ・ウォールパス
先のことはわからない。なにひとつ、わからない。ただ、おそらくこれからも、彼とは同じように暮らしていくだろうと、いまは思っている。果たして、それがいつまでかとなると、この先私たちにはどうにもならないことも起こってくるだろうから、いまはなんともいえない。それでも、できる限り一緒に暮らしていこうと思っている。

私が変わったこと
息子との出会いによって、私はいくつか変わったと思う。それまでの私にしみついていた物の考え方、受け止め方が少しずつ形を変え、いまに至っているのだと思う。その中で一番大きなもの。それは、この現実を決して不幸と思っていないことだろうか。彼が小さかった頃、私は努力すること(頑張ること)で、必ずや道は開けてくるはずと思い、息子も私たちもお互いに奮闘し合うべきで、それこそがすべてのように思っていたのだが、やがてそうでもないことがいろいろと出てきて、逆に腹が据わってきたところもある。
ある時から、私は息子を誰かと比較するのをやめた。そのことに一喜一憂するのはおかしなことだと気づいたからだ。そして、ほかの人の学力や能力、財力、美力などいろいろなことが、そんなに羨ましいことでもなく思えてきた。むしろ、それが逆に作用することだってあるのだと思えてきた。さらにそれらが、決して「幸せな思い」にはつながっていないということも感じられた。そしてなにより、彼の中にある、私には決してない、彼の彼らしいところ。これこそがすべてではないかと思うようになった。

シンプルなこと
一部(かなり)能天気なところもある私が、彼と一緒に暮らして、彼のことで時々考え込み、沈み込むこともある一方、彼のおかげで味わえてきた時間というものがあることに気づいた。私にはなくて、彼にあるもの。それは、実にシンプル。彼は人を疑うということがない(ように思える)。まず、彼が人を悪くいうのを聞いたことがない。もちろん、彼にも得手不得手の人があって、不得手の人は(彼らしく)自然に避けていて、そんな場合も、彼は決してその人を悪くいうことがない。これはすごいこと(だと思う)。それでいて、彼は嘘がつけない。このことが、彼自身で心の負担を多くしているのではないか(と私には思える)。

ペマーラムのフットパス(ヨークシャー・デールズ国立公園)

ワーレンサイド山頂(ヨークシャー・デールズ国立公園)
彼が羨ましいもうひとつは、いろんなことに感謝の気持ちがあることだろうか。これも、実はとてもシンプルなこと。彼にかかれば、毎日の食事はちょっと心を砕くだけで、いつも豪勢な食事になる。「ああ、今日も豪勢な食事!」と満面の笑みで、目の前の光景を言葉にする彼をみていると、これは間違いなく彼の本心からでているものだと思えて、こちらも嬉しくなる。そして、もしかしたら、これは彼の人生の中の最大の知恵ではないかとさえ思えてくる。なにより、贅沢な感覚だと思う。だから、日々起こる彼の「心の事件」に、たとえひととき気持ちが沈むことはあっても、自分では気づかないところでも、私たちは随分救われているのだと思えてくる。

決めたこと
彼が心の問題を抱えて、私たちと暮らすようになって、決めたことがある。これからは、できる限り、彼を含めたこの家族のことを最優先に考えていこうと決めた。そのひとつが、いまかろうじてできている、この「イギリスのフットパスを歩く旅」なのかもしれない。外からはいろいろな憶測で眺められたり、不本意な受け取り方をされたとしても、それらはさりげなく流して、あえて弁解もせず(?)、こっそり静かに、自分たちのしたいことをしようと思っている。
一体なにが原因だったのか、どんなきっかけだったのか、はっきりとはわからないが、ある時から彼は心のバランスを崩している。私が勝手に意識しているのは、私が東京へ単身赴任となった4年と2ヶ月の間のこと。ただ、これは私の心の中に止めておく。

ツアーの中での息子
これまで、回数はそんなに多くはないが、ほかの人たちと一緒のツアーに参加した時の話。彼に対しては、会ってまもなく、あるいは会ってしばらくすれば、それぞれの人がそれぞれの印象を持つだろう。それがどういうものなのか。人それぞれの胸に秘められていることもあれば、そのうち自ずとこちらにも感じられてくる、なにかだったりもする。そんな彼のありのままは、決して隠そうと思って隠せるものでもなく、それはいつも自ずと判明してしまうことなのだが、グループがそれなりの少人数(あるいは適度の人数)の場合、息子の存在はそのグループに不思議な影響をもたらすことが多い。
とてもシャイな反面、彼のストレートな人なつっこさのせいで、グループの中が意外に早く、思いもよらないところから和んでくるのだ。そういう変わりようを、妻も私も、これまで何度かみて、知っている。息子は、これはという人を瞬時に見分けることができて、そういう人には実に気軽に話しかけていく。時にずうずうしくというおまけまでついてしまう、彼のその直接行動がきっかけとなって、グループのほかのメンバーの間にも自然に会話が広がっていくことがある。

ラトリッグ山(ケズイック)

お待ちかねのバス(ハドリアンズ・ウォールパスにて)
これは、いつもおもしろいと思うのだが、ツアーではいつのまにか、彼は「**ちゃん」「**ちゃん」と呼ばれるようになる。それぞれの方がどんなところから、そう呼びかけ、話しかけてくれるのか。それはそれとして、一緒にいる私(たち)も、おかげで安らいだ気持ちになれることが多い。これは日本人のツアーの場合なのだが、外国でのさまざまな初対面においても、似たような経験はある。彼の「一見して、どこか違う」という感じが、時に奇怪な印象になったりもするのだが、彼の中から出てくる「万国共通のような笑顔」、彼そのものが、私たちの知らないところで、私たちの旅を支えてくれているのかもしれない。

一枚の紙、旅カレンダー
前にも書いたが、これから先の大きな予定を知ってしまうと、途端にそれが気になって、心の負担になってしまう息子には、旅行なら出発直前になって、行き先を発表することにしている。だから昨年(2007年)も、福祉作業所から戻ってきた彼に「明日出発」と告げ、彼にできる荷物と心の準備をしてもらい、やがて揃った荷物全部の状況を見て、彼はそれとなく「今回は長い旅らしい」ということを察知した(ようだ)。その行き先は、新幹線に乗り、上野から京成電車に乗り、成田へ着くまでの間少しずつ具体的になり、最後に搭乗券に引き換えてもらう段階で、初めて行き先はイギリス、期間は一ヶ月ということになる。

息子が作った2007年、旅のカレンダー

2007年、イギリスへ出発前の成田空港
これは、昨年イギリスへ出かけた時のこと。それを聞いた彼が、その場で、出発の日から日本へ戻ってくるまでのすべての日(その数字)を、ある紙の裏側に書き始めた。できあがってみると、それは私たちのこれからの「イギリスの旅のカレンダー」のようでもあった。彼はこれを折りたたんで、胸のポケットに入れ、以後過ぎていったその日を、毎日○で囲むことになった。
どんな思惑があって、そういうことになったのだろうか。一ヶ月という、私(たち)が決めた旅の予定を彼なりに受け止め、彼なりの心の処理をするための彼の知恵だったのだろうか。この一枚の紙(旅カレンダー)、日中は彼の持ち物を入れる宿の引き出しの中に、ほかのものと一緒にしまっておいて、彼は毎朝それを取り出し、過ごした一日を○で囲む。そのうち、これが彼の大事な一日のリズムになってきた。こうして、○の数が毎日ひとつずつ増えていく。彼には、それが嬉しいようでもあって、その朝の日課は最後の日迄きっちりと続いた。もしかしたら、この一枚の紙が私たちの旅を見守ってくれていたのかもしれない。そんなふうにも思える。彼の書く字は、いつも味わいのある字に思えて、私は大好き。

息子が中学生の時に描いた絵

水たまりのフットパス(グラシングトン郊外)
娘の結婚
外国に住んでいる娘が結婚した。この2月に一時帰国、私には思い出深い式の余韻を残して、二人が暮らす外国の町へと戻っていった。以下、一生に一度、思いがけず味わえた「花嫁の父」体験記。
イギリスに出発前、潮来で見た婚礼(2007年)
私たち夫婦の間では、娘たちが特別に結婚式というものをしなくても、それはそれでいいのだという気持ちもあった。これは、決して娘たちの存在をないがしろにしていたからではない。実は、とても現実的なところで、通常の挙式の費用とは、これが私たちの常識(?)をはるかに超えた金額であることに抵抗があって、その分の負担(出費)は(できるなら)限りなく、少なくしてもいいのではないかと思えていた。誰の負担かといえば、私たちの**でもあり、当人たちの**でもある、現実的な出費の話。

しかし、相手方のご意向もあり、以後の事のなりゆきから、式はすることになった。それなら、できるだけ質素に、お金をかけない形で進めてほしいと思いながら、いくつかの事柄に接してきて、いま振り返ってみれば、お互いのそれなりの妥協点で形になった式だったと思っている。

36年前のこと
娘の結婚式を迎えるにあたって、まず思い起こすのは、社会人になったその年にやってしまった私たちの結婚式のこと。その頃の私(たち)に、いまほどの毅然としたもの(?)はなく、事の流れに流され、結局は両親にはそれなりの負担をかけてしまったこと。おまけに、どうせやるものなら・・・と式の演出に至るかなりの部分まで、私たち(というか私)のしたいままにさせてもらったこと。いま思えば、ただただ若気の至りで、恥ずかしいとしかいえない数々。しかし、その後の私のさまざまな身勝手を考えれば、やはり避けようがなかったことにも思えてくる数々。
リポンのセント・メリー教会でみかけた結婚式(2007年)
そんな36年前の、身の程をはるかに越したとしかいいようのない、突然に降って沸いたような出来事を思い出しながら、それを娘たちの「現在進行中のいま」と何の脈絡もなく重ね合わせながら、式当日に至るまでのあれこれを、私は眺めていた。そう、今回の私は、ただ眺めているしか、ほかにすることがなかった。そして36年後の式当日、今度は立場を変え、花嫁の父として、やっぱり「私は私なのだ」と苦笑いするしかなかった。

花嫁の父
私のまわりのほとんどの人が口をそろえていった。花嫁の父というものは、じっと動かず、デンとすわっているものだと。しかし、私は最初からそんなつもりはまったくなかった。その場をわきまえ、誰からみても立派な父親を演じることなど、到底できるはずはないと思っていたし、そんな自分がいいとも思っていなかった。なにより、この日の挙式、披露宴は私たちの娘のことだから、私なりに存分に味わいたいという気持ちが一番にあった。ただ、その味わい方が、ほかの人とは少しだけ違っているだけだと、私は勝手に思っていた。
以下に述べる、私の行動のある部分までは、妻も娘もあらかじめ予想していたようで、決してすわったままではいないことには、事前に反対もされなかった。まあ、仕方のないことと、あきらめていたのかもしれない。こういう場合、妻は実に慎み深い人で、そういう人柄を、私には決してないものと認めている。だから、彼女は彼女。しかし、私は私。

折り紙のパンダ(娘たちが私に出番を作ってくれた

キャットベルへ登る途中
もちろん、そうはいっても、これは相手のあること。私はまわりの様子を眺めていた。いや、事前にそれなりの情報は入っていたので、この日の会場の雰囲気でそれを確認し、私は自分へゴーサインを出した。まずは、娘のそばをうろうろして、娘たちに関わる写真を自分が満足するまで撮ること。これだけは、どんなことがあっても、最低限やろうと思っていた。それが、新婦(花嫁)の父としてふさわしい行為であるのかどうか。これは、きっと誰にも答えられないことだろう。ただひとつ、私は後悔したくなかった。それで、一眼レフのでかいデジカメを持ち、万が一の場合のため、モーニングの後ろポケットにはポケットサイズのデジカメを入れておいた。

私の予想と思い込み
おそらく、私が予想するところ、私以上に密着して、娘の写真を撮る人間はおるまいと思っていた。この日の私には、花嫁の父という制約もあるにはあるが、一方で父親としての特権もある。なにより、そうしたい(!)思いに満ち満ちている。多分、今迄の自分を振り返ってみても、じっと眺めていることなどできないだろう。だから、もはや躊躇することもなかった。
例えばこんな場合、私がちょっと異常な(?)行動を取ろうとしている写真ということに関して、妻は写真ではなく、自分の目で見て、その場で感じて、それで充分という人である。私は、それが羨ましいと思いながら、それがどうしてもできない。ならば、あえて無理をすることもないだろう。それに、生涯たった一度の機会ではないか。
娘に聞けば、その役目をする人はいないらしい。ならば、私しかいないだろう。そこで、私は「これは」と思える光景を撮り続けた。ほかに、欠かせないもの。それはこの式に来てくれた、私たちの親たちの写真。この日の出席者は、娘が選んだ、そして私たちが考えた最低限の人たちで、しかもそれぞれに了解を得て、この日の都合がつき、喜んで来ていただけた人たち。その数は決して多くはなかったが、私には納得できた。だから、その人たちの写真も撮りたいと思っていた。それが、私の気持ち。

一番味わえた時間
それは挙式前のある時間。娘の手を抱え、バージンロードなるものを歩く、そのリハーサルをするといわれ、新郎新婦と挙式場で過ごした時間だったろうか。キリスト教会式というのは、料金的なことが一番の理由だったと聞くが、それはそれでいい。私には、これら儀式に関する「形」のこだわりも、しがらみも一切ない。なければ、ないでもいいと思っていたから、どんな形でもよかったのだが、いま思い返してみると、以下のことを含め、初めての体験となった、このキリスト教会式での時間を持てて、なにより嬉しかった。

リハーサルへ向かう二人、後を追う私

リハーサルの最中、ポケットカメラにて
バージンロードを歩くなどという動作、元々身についているものではないから、うまく演じることは最初から無理と思っていたし、失敗は充分に考えられ、その場合はそれでいいような、ちょっといいかげんなところが私にはあった。もちろん、精一杯やろうとはしていた。しかし、ダンスのステップの経験もないし、私に華麗な身のこなしなどはありえない。案の定、二人が最初に踏み出す足を決め、父親の私はちょっと先に行くように一歩、お互いその足に合わせるように反対の足を添え、今度はその足から踏み出して、また反対の足を添える。それをゆっくり悠然と繰り返しながら、前へ進む。たったそれだけのことだったが、緊張すればするほど、頭と足は完全にバラバラの状態になって、なんともおかしかった。しかし、そんなことを、娘と精一杯やっているその時間が、私には一番楽しかった。

この日のすべて
たとえ、うまくいこうがいくまいが、こんな状況でこんな「妙なこと」をやる一生に一回の出来事。そのたった一回のリハーサルの時間。いま思い返してみると、新郎も含め、娘と私、そこでたった三人だけで過ごしたわずかな時間、それでもそれなりに長かったように思える時間が、この日の私のすべてだったような気もする。この日は、ほかにもたくさんの関係者がいるはずなのに、たまたまこの時、私たちだけで過ごしたこの奇妙な時間が私には楽しかった。そして、私にとって、この時のすべてが本番以上だった。変かも知れないが。

本番はいきなりやってくる
リハーサルも本番も、うわの空のまま、あっというまに過ぎ去っていったような気がする。ただ時間にすれば、リハーサルの方がわずかだったはずなのに、この時は「まだまだ先がある」と思えたせいか、不思議とゆったりとしていて、普段着に近い気分で、私には贅沢なくらい、誰に遠慮もせず、この世界を満喫できていたような気がする。
さて本番、私はリハーサルで言われた通りにしたつもりでいながら、実はまったくの成り行きまかせ。娘とのテンポも合わず、やっぱりおかしかったのだろう。そんなことが、すぐそばで私たちを見ている参列の人たちの表情にも感じられ、ここは神妙にしているだけでもなく、笑ってもいいのかなといった感じで、笑っていたと思う。ゆっくり歩いて、かなり向こうだったはずの終着点には意外に早くたどり着いて、「ここで、新郎に手をお渡しください」という合図に気づいて、娘の手を新郎の手に渡し、最前列の父親の席にすわって、やっと自分に戻った感じがした。

ポケットカメラ
もちろん、こうした間は写真も撮れないのだが、式場に入る前、私はモーニングの後ろポケットに入れておいたデジカメで、ベールをかぶった娘の横顔を何枚も撮った。私には、これまで過ごしてきた時間の中で、私の好きな娘の表情というものがある。それを娘が好きかどうかはわからないが、そのひとつでも写真にしたいと思った。もちろん、この(薄暗い)雰囲気の中でフラッシュは使えないし、こういう場合のフラッシュはつまらない(と思っている)。そんな限られた状況で、動きには対応できない、しかしシャッターの音がしないポケットカメラ。これもいいものだと思った。おかげで、どさくさにまぎれて、何枚か娘の横顔が撮れた。

これから、一緒に式場へ入る娘

ケズイックにて
新婦の父だから、最前列に座っている関係上、式がクライマックス(?)に進む間、さすがに写真は控えた。控える代わりに、目の前のいろいろを味わっていた。そしたら、やはりまずいことに涙がでてきた。そうなのだ。こうならないために、私は今日できるかぎり動き回っていようとしていたのだった。どういうものか、こういう涙もろい性質を娘も引き継いでしまっていて、もはや目の前で感極まっている。そういう娘を見ていると、私の方も穏やかではなくなってくる。涙が自然に出てくる。出てくるものは仕方がない。こういう時は気持ちのままにしていいのだろう。

そして、この一枚
やがて、式が進んで、新郎新婦が退場の場面となる。ここで、やっと私はカメラを手にすることができた。重い大きな一眼レフのデジカメは、会場の後ろなら、安心して撮れるかもしれないというホテルの人のアドバイスで、後方座席においてあったが、ここはすばやく後ろポケットから取り出したカメラで、二人の後姿を撮ろうとした。が、その時、どうやら私は娘のウエディングドレスの裾を踏んでいたらしい。涙をこらえて退場しようとした娘が「あらっ?」という感じで振り向いたその瞬間、私も「あれっ」とは思ったが、これまでの習性で、ともかくもカメラのシャッターだけは押していた。その時の写真がこのピンボケの一枚。

「あらっ?」
私は今迄数え切れないほどの写真を撮ってきた。それでどうだということもない。ただ、シャッターを押した回数が尋常ではなかっただけのこと。それでも、シャッターを押せば、写真のできが気になる。たいていは、がっかりすることが多い。カメラの才能などない私に、写真はいつも偶然の産物。だから(?)、まれに偶然が偶然を呼び、シャッターチャンスに恵まれ、偶然に満足できるものが撮れたりする。そんな時、いつも私はその偶然に感謝する。しかしやっぱり、満足できない写真が多い。特に、ピンボケ写真には、これまで何度もため息をついてきた。

嬉しいピンボケ
ところが、そんな私に、これは初めての体験。ピンボケの写真というものが、今迄こんなに嬉しかったことはない。理屈なしに、あの偶然の瞬間がそのまま、こんな形でぼんやりとしているところが嬉しい。このピンボケが、私にいろんなことを残してくれた。別に、誰に誇れるというものでもない。写真としては、ある一瞬のぼんやりとした再現でしかないのだが、これを見ていると、私にはあの時のことがいろいろによみがえってきて、それが嬉しい。
あの時の私、それまで使えずにいたカメラをやっと手にして、あわてて娘たちの後姿を追い、急いでシャッターを押そうとした私は、一歩踏み込んだその足で、娘のウエディングドレスの裾を踏んでいて、振り向いた娘の様子で、自分のしでかしたことを知り、もちろんすぐに踏んだ足を外したわけだが、その涙と笑いの入り混じった一瞬がこんな形で残った。

ここで、新郎の父
この時、新郎の父が即座に「これが私だったら、とんでもないことでしたよね」と見事な合いの手を入れてくれた。瞬間、場がなんとも和んだ。もしこの時、もっと勢いよく、強く足を踏み込んでいたら、きっと思いもよらぬドラマが起こっていたに違いないのだが、そうはならず、事はそのまま静かに流れ、まもなく式は済んだ。この勇み足のおかげで、忘れられない時間になった。だから、私としてはすべてヨシ。娘がどうかは、聞いていない。

写真を撮り続ける
披露宴に入っても、私は写真を撮り続けた。事あるたび、メーンテーブルへ何度もでかけていって、新郎新婦に挨拶にきて、一緒に写真を撮ろうとしている、そんな場面の写真を何枚も撮った。

披露宴、始まる

娘の友人たちの余興
そういう私の姿が会場のほかの人たちにどんなふうに映っていたのか。この頃になって、私はもうほとんど考えなくなっていた。最初のうち、少しは抑えるところがなかったわけでもないが、それ以上に体が動いて、二人に関わる写真を撮りたくて、仕方がなかった。おそらく、そうすることで、あの時の「ある状態」を抑えられていたのかもしれない。ありがたいことに、相手方にはお酒を好む人が少なく、酒を注ぐことなく、それぞれに挨拶できたこともよかった。おかげで、それらしい場面を察知すれば、すぐ写真を撮りに動くこともできた。実を言えば、酒を注いで回るという慣習、私は好きではない。

そして、長持唄
この日ここまででも、私は充分に変な存在ではあったろうが、私にはさらにもうひとつ、したいことがあった。改まって、挨拶をしたいわけでもない。ただ、新婦の父として、なにかしたかった。果たして、これが適切なことだったのかどうか、これもよくわからない。それはそれとして、私には、婚礼と言えば故郷の長持唄。これを歌いたかった。なぜなんだろう。それが、私の気持ちの一区切りだったからだろうか。この唄は一応身についていて、いつどんな時でも歌える。問題は、この場合感極まって歌えなくなる、それだけが、いやそれこそが一番の問題だった。そうなったら、みっともない。それで、ちょっとだけ躊躇した。
しかし、会場の雰囲気をみて、私は司会者に頼んだ。こういう場合、決まって私はこう考える。「同じ後悔をするなら、しないで後悔するより、したいと思うことをして、後悔した方がいい」と。実はこんな企みが、この日朝から私の中に沸いてきて、それでできるだけ、軽やかな気分でここまでを過ごしていたのかもしれない。できれば、みっともない姿はしたくない。それで、お調子者の状態をずっと保っていたような気もする。それに、どこかで、明るめの感じの長持唄にしたら、失態にならず、歌えるかもしれないという計算があった。

蝶よ花よと 育てた娘
今日は**さんの 手に渡す

と、ただこれだけの唄を、実際には「ちょお〜〜よ〜お、な〜よ〜おおおお、はなよと〜お〜およ〜、(は〜やれやれ〜)、そだ〜て〜た、む〜す〜め〜えええ、きょ〜は〜な〜よ〜おおおお、**さんの〜お〜よ〜、(おや〜〜)、てにわ〜〜たすな〜〜え〜〜」といった感じで歌う。

通常、**の部分は「他人」と歌うのだが、私はそれでは落ち着きが悪いから、ここに相手の名前を入れて歌った。歌い終えて、新郎の前へいき、彼と握手をした。どういうわけか、事の成り行きで、そういう行動を取ってしまった。そして、これで私の役目を終えた気がして、再び写真を撮り始めた。

再び、写真を撮る
とにかく写真が撮れる状況にあった時は、気持ちのままに撮り続けた。オートフォーカス(自動焦点)のカメラだから、ピントのことなどは考えることなく、気が向いた場面でシャッターを押した。やがて、娘が私たちへ宛てた手紙を読んでいる時、その姿を遠くにみながら、この時は音をさせてはなるまいと、これはポケットカメラのシャッターを何度か押した。案の定、まわりの暗さもあって、手ぶれの写真になってしまったのだが、逆に、これはこれでよかったのだと思う。

手紙を読む娘が遠くにかすんでいる

アルツウォーター湖(ケズイック近郊)にて
その娘の手紙。「・・・小さい頃から、休みがあれば、必ずどこかへ旅行に出かけていたから、旅行は楽しかったけど、それよりも家でのんびりしていたくて、もう行かないと宣言したこともありましたね。でも、大人になるにつれて、気づかされたことがありました。私が旅先で当たり前のように見てきた風景は、みんながテレビや写真でしか見たことのない風景だったんですね・・・」と、これは後でその文面を写したものなのだが、そんな挨拶を聞きながら、写真を二枚ほど撮った後、私はこれまでの過ぎてきた時間とともに、もうひとつの「おせっかいな光景」を頭に浮かべていた。
それは、もう現実的ではなくなったのだが、できれば一度だけ、この娘とも一緒に「イギリスのフットパスを歩く」という世界を味わってみたかったと思った。いまだに性懲りもなく、この父親はそんなことを考えていた。

そして、最後に
時間はあっというまに過ぎた。最後に会場の出口で、お客様を見送りするそばにも、私はカメラを置いて、一段落したところで、新郎新婦、向こうのご両親、妻、司会者やらホテルの関係者(これまで娘たちがいろいろ打ち合わせしてきた人たち)を交えた写真を何枚か撮った。とにかくバチバチ撮った。そんな中に一枚でも、娘たちの気に入った写真があればいい。

当然ながら、私のカメラに私の姿はないのだが、かろうじて、娘と式のリハーサルを終え、本番を待つ間、介添えの方が「お二人でお撮りしましょうか?」といわれて、撮ってもらった写真がご愛嬌として形になった。妻がこれをみて、私はリラックスした感じだと思っていたのに、「娘を嫁にやって、惜しい、寂しいという顔をしているね」といった。まあ、そうかもしれない。
この日撮った写真はそのままCDに移し替え、そのうちの何枚か(私たちが気に入ったもの)をプリントして、二人に渡し、何日か過ぎて、結婚式に関する支払いを終え、娘たちはまた日本を離れ、いつもの日々が戻ってきた。出席してくれた親たちが、私から送られてきた写真をみて、自分たちも穏やかな顔で映っていると、これが意外にも好評。きっと、娘の晴れやかな、ウキウキした、嬉しい気分がそのまま、ほかの人たちにも伝わって、こんな表情の写真になったのだと思う。そんな話を聞いて、写真を撮った私も嬉しい。
マーラムのフットパス(ヨークシャー・デールズ国立公園)
こうして、まだまだ先のことだと思っていた娘の結婚式も、いつのまにか、ゆっくりと近づいてきて、その日が過ぎれば、やがて遠くへ離れていく。同じような感じで、いまはまだ寒い日本からは、遠い遥か向こうにしか思えない「イギリスへの夏の旅」も、いつかは近づいてくるのだろう。

遠くにイギリスを思いながら
寒い季節、朝食前は道路も凍っているから、陽も高く、朝のかじかんだ空気がゆるんだ頃に歩くことが多くなった。散歩に出るのは、最近はほぼ日課に近い。家にいると、知らずに時間は過ぎていくのだが、そのうち血のめぐりが悪くなっていくような、体の中になにかが滞っていくような気がして、外を歩きたくなる。これをしないでいると、なにかを取り残したようで、落ち着かない。散歩には、たいてい妻を誘う。こちらが誘われることもある。場合によっては、一人の時もある。そんな時は空を眺めながら、自分に話しかけながら、歩く。
歩くのは、できるだけ車の音を感じない静かな道を選び、同じコースを毎日のように歩く。歩きながら、これがイギリスのフットパスなら、どんなにいいだろうと思う。現実には、住宅地の間を縫うように設定した道で、いまのところ、我が家のまわりでは、これが一番好みの道でもある。

湖水地方・グラスミア湖近くのフットパス

モンサル・トレイルからの眺め
妻と一緒の時は、たいていなにかを話している。彼女と暮らし始めて38年、二人で話をするという習慣は、いつのまにか自然にできてしまった(ような気がする)。こうなった背景のひとつに、たとえば、次のようなことがある。
いまも私たちは、まれに(?)冷戦状態になりかける時がある。これまで・・・というなら、数え切れないほど、幾度もあった。そんな時、長い時間沈黙し、意地を張り合うということが、お互いに無理だと、これはかなり若い頃に知り、そんなことのために使うエネルギーが無駄で、もったいないものだと、これも同じ頃に気づき、以来なにはともあれ、お互いに話をしなければ、事は動かないのだということを何度も味わって、いまに至っている。お互いにモヤモヤした状態を抱えたまま、一緒に暮らすということができない。いつのまにか、お互いにそういう生理状態になってしまった。もちろん、いくら話しても、それぞれが違う人間であるという意識はそれぞれの中にいつもあると思うのだが。

そんな非常事態(?)の時も含め、私たちはなにかれと話をする。これは歩くことに似て、やはり私たちの習慣なのだろう。家の中で話すのと違って、歩きながらの話は、歩くテンポに合わせた、違った状況の違った展開になって、これはこれでいい。歩くリズムはそんなにゆったりでもなく、それなりに早足のことが多い。その時々の「気がかり」を相談しあうこともあるし、歩きながら、見かけた光景から話題が生まれることも、なんとなく話が浮かんでくることもある。近頃、二人の共通の話題は、お互いが身近になってきた「老い」ということだろうか。これまでの思い出話も多いが、まだどうなるとも予測のつかない、これからのことについてよく話をする。

ヘイフィールドの町へ下りるフットパス

ハドリアンズ・ウォールパス
なにがきっかけだったのか、妻が映画『きみに読む物語』の元になった原書『THE NOTEBOOK』(ニコラス・スパークス著)を読み始めた。アルツハイマーと診断された妻アリーが、この先病状が進んでいった時の自分を予測し、二人でお互いの若い頃の恋物語を綴り始める。やがて、その時がやってきて、年老いた夫のノアが、妻にその物語を読んで聞かせる。奇蹟を信じ、妻が思い出すまで読み続けるノアに、アリーはある時「どこかで聞いたことがあるような気がする」という。しかし、それはまた、ひとときの幻(?)。
自分たちのこれからのことなど、もちろん、わかるはずもないことなのだが、こんな映画の話に近いことが、いま私たちの共通の話題になることがある。そんなことを話しながら、つくづく思うことがある。年を取ってきて、少しずつ失っていくものが増えてきていると。その一方で、この年になって、ようやく見えてくるものもあるのだと。

犬の散歩
散歩をしていて、私はよく犬に吠えられる。犬に限らず、動物を飼ったことがなく、小さい頃からそういう世界に接する機会が少なかったせいもあるのだろうか。決して、犬を飼おうとは思わない私を、犬の方でもちゃんと知っているのか、私はほかの人より吠えられていると思う。お決まりの散歩コースには、そんな家が二ヶ所ある。家を出て、2〜3分のところにあるその家のビーグル犬は、口になにかはめられているようで、私(たち)の足音を聞きつけると、くぐもったような声で吠える。それを聞くと、私はちょっかいを出したい気分になって、足音をもっとはっきりさせる。すると、それに応えるように、さらにくぐもった大きな声でその犬は吠える。
散歩コースを半分過ぎたあたりの家もビーグル犬で、こちらは塀の中で放し飼いになっていて、100メートルも先から私の足音を聞きつけると、もう吠え始めている。塀があって、絶対安全と思うから、私はその塀ギリギリにまで近づいて、やはりその犬にちょっかいを出す感じで、大げさに通り過ぎるのだが、それに反応して、犬は塀の向こうで大ジャンプを最大3回、普通は1回、たまに2回やった後、くるりと横を向いて「私、あんたなんか知りませんよ〜」という顔をする。そういうやりとりが、いつのまにか散歩の楽しみになって、私はまたからかってみたくなる。

近くのビーグル犬

チャッツワース(ベイクウェル)にて
日によって、ベンチの上に座ったまま、「フン」といった感じで、あえて私を無視しているように思えることがある。それでいて、こちらがじっとみていると、やはり気になるのだろう。ちょっとだけこちらを向いて、すぐに「フン、やっぱり、あんたなんか、しりませんよ〜」とまたそっぽを向く。それで、私は後ろ向きに歩きながら、曲がり角を終えるまで、その犬をずっと眺め続ける。犬の方も、時折またこっちを向いて、またプイとそっぽを向く。そんなやりとりが楽しい。
ただ、朝が早かったり、寒い時などは、小屋の中で寝そべって、あるいは小さく丸くなっていて、まるで反応がなく、拍子抜けすることがある。逆に、ある暖かい昼下がりなんか、犬もよほど気持ちがよかったのだろう。塀の下から甘えたような、それでいて、遠くを眺めるような顔を出していた時があって、私はその場に腰をかがめ、しばらくその犬を眺めていた。

犬に襲われた話
散歩の途中、犬を連れた人たちに出会うことが多い。イギリスでも犬を連れた人が多い。ただ、イギリスの犬に関するマナーは日本とは比較にならないほど徹底している。散歩中の犬が人に吠えるなどということは、飼い主のしつけができていない恥ずかしいことという厳しい世界(?)だから、ほぼ安心していられるのだが、これまで、私はイギリスで二度犬に襲われたことがある。きっと、日頃のバチが当たったのだろう。
襲われたと書いたが、実は犬が私の方に向かって、一目散に走ってきたというだけのこと。しかし、私はとても臆病な人間なので、こんな時ふだんは考えられないような、とんでもない悲鳴を上げて、まずは逃げようとする。これまで、こういう時は落ち着いて、じっとしていればいいのだと妻から何度も言われているのだが、いまもって、それができない。

ベイクウェルの町で

2007年の出発前、佐原の町で
一度は雨の中、ヘイ・スタックという山へ登っていた時、頂上付近でいきなり二匹の犬が現れた。もちろん、悲鳴を上げた。まさか、こんなところでずぶぬれの犬がいるとは思ってもみなかった。その犬は、私たちのまわりをウロウロしながら、どうも遠くから、私(たち)を見張っている感じだった。彼らの正体はいまもってわからないのだが、よくよく考えてみると、牧羊犬だったのかもしれない。やがて、その犬たちはどこかへ姿を消した。
もう一度は、湖水地方、カンブリア・コーストウェイの花がいっぱい咲き乱れた草原を歩いていた時のこと。車に乗せて、大きな犬を連れてきた、私にはおっかなく思えた***風のおじさん二人が犬のリードを外した途端、その犬が私をめがけて走ってきたので、またまた悲鳴を上げた。そして、その二人の男に、とっさの英語が思いつかず「ストップ、ストップ」とでも叫んだのだろうか。いや、悲鳴だけだったのかもしれない。なんのことはない、離れたところにいる妻が呆れたように私に叫んだ通り、その場にじっとしていたら、犬は私のそばを通り抜けて、向こうへ走っていった。ハハハ、私はからかわれただけだったのかもしれない。

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