んだんだ劇場2008年7月号 vol.115
遠田耕平

No84 Dr.ストレンジゴジラはいかにして心配するのを止め・・・

お医者さんになりたい
 「カエプリアン(雨の月)」に入って、緑の樹がたくさんの真っ赤な花をつけて咲きほころんだ。「火炎樹」、僕の大好きな南国の樹だ。この国では「プカークローンゴック(孔雀の花)」という。タイでも孔雀の花と呼ぶらしい。ベトナムでは「ホアフォン(火炎樹)」、インドでは「グルモハール」と呼んでいた。どんな意味だったか忘れたが、デリーでは、その名前のついた場所に住んでいた。
 雨が始まって少し涼しくなるかと期待していたが、甘かった。雨は数日に一度ザーッと降るが、すぐに止む。止むと、降る前よりもずっと強い南国の日差しが戻って、容赦なく大地を照りつける。水溜りは一気に蒸発し、湿度が上がり、却って乾期の暑さのピークの時よりも暑く感じる。でもプノンペンの空は雨期の空だ。大きな雲が立ち上がり、どんどん広がる。いろんな色の雲は果てしないプノンペンの空を自由に流れる。雲が大地に日陰のグラデーションを作る時、一瞬の涼しい風がプノンペンを走り抜ける。空を見ていると、僕の時間が止まる。バブル景気や選挙の喧騒も、金持ちの怒鳴り声も貧しい人たちの嘆きも聞こえない。僕はカンボジアの空と雲と一つになる。
「雨の月」の火炎樹と花(プカークローンゴック)
 夕方、女房と一緒に犬の散歩をしていた時だった。空を見上げると、西の空に立ち上がる大きな白い雲があった。その雲がスーッと西に傾いていく太陽を遮った。すると太陽が光のスジになってとなって、雲の端から放射状に光線を放った。それを見ていた女房が「ゴジラみたい。」と言ったのである。
「ほら、頭があそこでしょ、口があそこ。」と空を指差した。
「え!」と驚いたが、本当にゴジラがいた。
 白い雲は、確かにゴジラが立ち上がり、口を開けているように見えた。その雲の端から漏れ出る太陽の光のスジは、本当にゴジラが口から放射線を吐いているように見えたのである。「ギャオー」、ゴジラが吼えている。西の空に広がる雲のパノラマを見ながら、女房の愉快な想像力に僕は腹を抱えて笑った。

 先月号で僕は「夢を見ているようだけど、あまり覚えていない。」というような話をしたばかりである。ところが最近、妙にはっきり覚えている夢がある。僕がお医者さんをしている夢なのである。
「え、お医者さんじゃなかったの?」と訊かれと、
「うん、まあ、いちおう…、昔は。」と曖昧な返事をしまいそうでどうも困る。
 今の仕事はこちらの保健省のお手伝いをするだけである。言ってみれば、こちらのお役人の補佐のようなものである。診察室で患者さんを診ることもなければ、治療をすることもない。ましてや僕の関わっている予防接種の仕事は治療のできない病気ばかりで、ワクチンが治療に勝る唯一の予防ですよ、というものばかりである。ワクチンで予防できるはずの病気が発生すると、僕はバックパックを背負い、保健省の仲間と村を回り患者さんを追跡する。ワクチン接種の仕事の何が問題なのかを調査し、中央に持ち帰って対策を練り直す。それが僕の日常である。
 日常だから、まったく問題ないのである。まったく問題ないのであるが、それで本当に満足で幸せかと言われれば,よくわからない。ここに至ってもまだはっきりとわからないのであるから、未熟なままに50を越えたわが身が恨めしい。
 僕は医学部を卒業して医者になってから、何度か「医者になって本当によかった。」と、僕を導いてくれた何か大きなものに感謝した。不器用でも僕らしくやれる仕事あると確信した。患者さんを診て、喜んでもらえる、それだけで本当に嬉しかった。ところが病院の狭い診察室が苦手だったのである。回診車を押しながら病棟の廊下を歩いていると息が詰まりそうになった。外科は好きだったし、手術も好きだった。人も一杯いて、人と接することは何よりも楽しかったのだが、どうも病院そのものの居心地が悪かった。空が見たくなるのである。広い空の下を無性に走り回りたくなるのである。
 そんな頃、縁があって病理教室に入って、病理診断と研究の仕事をした。ここは病院とは違った。いつでも空が見れた。居心地がよかった。そこには気がついたら長く居て、たくさんの忘れられない大切な人たちに出会った。自分と向き合う時間も一杯あった。家族とも大切な時間を過ごした。それなのに、病理学そのものを心から楽しむまでにはなれなかったのである。それだけ残念だった。そのあと、やはり縁あって法医を少し手伝った。ここには人がいなかった。僕の心が動く人が。法医は大切な仕事であると、言い聞かせてみるのであるが、最後まで好きになれなかった。居心地が悪かった。
 そして長い回り道と、多くの人たちの助けをかりて学生時代に惚れ込んでしまった熱帯の国の仕事に就いた。ここは居心地がよかった。空があった。人がいた。むき出しの心の人たちが一杯いた。
 それなのに今、僕はフツーのお医者さんだった頃の夢を見る。なぜだろう。患者さんを前にして、診断や治療を一所懸命に思い出そうとしているらしい自分は夢の中とはいえ、何とも目覚めが悪いのである。

デング熱
 そんな頃、日本から来た若いお医者さんが、デング熱になった。学生を引率してカンボジアの田舎に行き、プノンペンに戻ってくるなり高熱を出したのである。医者でも病気にはなる。僕は本当にアホで、今でもデングと日本語で書かれていると「天狗」と頭の中で読んでしまう。くどいが、デングは天狗ではない。天狗のかかる熱ではない。デング熱は蚊が媒介するウイルスによる熱帯特有の感染症である。熱帯に来て異常な高熱を発すると、僕らは、場所によっても多少異なるが、まず、肝炎、マラリア、腸チフスそしてデング熱を疑ってみる。僕はベトナムで腸チフスに罹った事がある。熱帯病は罹ってみるに限る。罹ると二度と忘れない。そのくらいしんどい。診断も治療も間違わない。最近はSARS,ニッパウイルスや鳥インフルエンザもあるから大変だ。
 去年カンボジアでは4万人以上の子供たちが重症のデング熱に罹り、400人以上が亡くなった。僕はたまたまその対策に一ヶ月ほど借り出され、多少なりともデング熱の臨床を身近なものとして理解した。今その患者が目の前に居るのであるから、申し訳ないのだが、なんだか興奮した。去年タイから来たデング熱の診断と治療で有名な先生からもらったデング熱の本を引っ張り出し、むさぼるように読んだ。アホな僕でも本当の患者を前にしていると難解な本の中身がどんどん頭に入る。もちろんその若い先生も熱にうなされながら熱帯病のお勉強をした。これが一番身になる。症状も血液の動きもまさにその本に書いてあるとおりだった。
 デング熱の90%は症状も軽く、罹ったことさえわからないものまである。ただ、残りの10%は症状が重くなり、「デング出血熱」呼ばれる。さらにその数%は出血性のショックとなり死の危険がある。デング熱に罹ったその先生は、不要な抗生剤も使わず、点滴も最小限に抑え、デング出血熱一歩手前で快方に向かった。発症から10日目でほぼ全快した。僕が名医だったからだと言いたいが、実は名医は何もしなかった。その人の回復力をじっと我慢して診ていただけである。名医は我慢である。すると体は出血熱になる一歩手前でUターンして回復していったのである。体の回復力はすごい。そしてそれも一人一人みんな違うのである。違うから一人一人を油断せずにしっかり診ていないとならない。

 事務所にいる蚊の専門家から面白い話をきいた。デング熱を媒介する熱帯シマ蚊が性質が悪いという。小さな水溜りがあるとすぐに卵を産んで増えるから、都市でも流行る。さらに日中に吸血する習性があるので、人を刺す。すると日中は人も活動しているので蚊を手で追い払う。お腹が一杯になる前に追い払われた腹ペコ感染蚊はまた近くの人を刺し、お腹が一杯になるまで刺しまくって感染を広げるのである。
 一方、マラリアの蚊は夜吸血する習性がある。人はぐっすり眠っているので、腹いっぱい吸血できる。そのお陰で狭い場所でたくさんの人が同じ蚊で感染を起こすことは少ないらしい。一緒に行った学生たちにデング熱が発生しなかったのは幸いだった。日本で発症したら診断にはかなりてこずっただろう。いや、今やデング熱の名医となったその若いお医者がいるから大丈夫。

肘内障(ちゅうないしょう)
 カンボジアに長く住んでいる日本人の友人の家族から電話がかかった。2歳になる男の子が突然、左手を動かさなくなったというのである。遊んで欲しいとせがむその子の両手を握って何度も「高い高い」をして持ち上げたその時だった。子供が「ぎゃ。」という小さな声を立てて少し泣いたかと思うと、左手をぴくりとも動かさなくなった。お父さんは自分のせいだと、意気消沈している。
 「ははーん。あれだな。」と僕は思い当たった。もう20年以上も前のことだが、実は僕も自分の子供の手をもって持ち上げて遊んでいた時、同じ事が起こった。子供の関節は柔らかく、軟骨が主体で骨は未熟である。強い力で引っ張ると、骨の先端に絡んでいた靭帯が抜けかかる。2〜3歳の子供の手を両親が引っ張る時によく起こる肘の亜脱臼である。整形外科の分野では肘内障として知られている。当時、僕は自分で整復したのであるが、どうやったのかどうもはっきり思い出せない。
 とにかく、仕事を抜け出して、その子供を診るために友達の家に行った。賢い目をしたその子は唇をキッと噛んで僕を睨んでいる。触られるのが嫌で、避けようと左腕を動かそうとするが、やはり動かない。診断はわかっているのだが、子供を前にしてもやっぱり整復方法を思い出せないのである。少し動かしてみたが、子供の顔が「おじさん、うまくいっていないよ。」と言っている。こいつはダメだなと諦めた。フランス人の医者がいる診療所に行ってみるように話して、僕は仕事に戻った。
 しばらくすると、また電話がかかってきて、その医者がいないという。困った。頼れる臨床医が一人いた。日本大使館の医務官で来ている馬場さんに電話してみた。彼はバンコクに出張中だったが親切に教えてくれた。
「トーダ先生、肘を曲げるんですよ。」
「ああ、そうか。そうだった。」昔医者は、やっと思い出した。
「今、もう一回行くからね。」と電話して、もう一度、夕闇せまる中、友人の家に駆けつけた。男の子は、キッと僕を顔を睨みつけた。
「このやぶ医者、まだ何かやる気か?」と目が言っている。僕は彼に、
「申し訳ない。もう一度やらせてくれ。」と頭を下げた。
子供と向き合って、左腕をまっすぐにして、肘を支え、前腕を少し内に回した。それから、ゆっくりと肘をグーッと曲げた。「きゃっ」と男の子が小さな声を上げたその瞬間、「カポン」と音がした。いや、音がしたように感じた。振動が伝わったのである。整復した。子供はみるみる機嫌が良くなり、左手を動かし始める。もう僕を睨んでいない。いや、もう僕のことなんか忘れている。よかった。お母さんが喜んでいる。よかった。
 外に出ると、雨上がりの空だ。西の空が夕暮れの茜色に染まっている。ゴジラはいなかった。僕がゴジラの代わりに「ギャオー」っと吼えた。よかった。
「出て来い、ゴジラ」、カンボジアの雲


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