んだんだ劇場2007年5月号 vol.101
No45 一時帰国

桜満開、そして教育問題
 大気汚染でかすむチェンマイを後に、家族全員で日本へ一時帰国した。思ったより肌寒いのにはびっくりしたが、そのお陰で、実家あたりの桜は丁度満開。近くを流れる川沿いの桜並木も満開、実家の裏にある自然公園の桜も丁度見頃であった。短い一時帰国の期間と、これまた短い桜の盛りがちょうど一致するなんて、なんとラッキーなのかしら、と毎日毎日桜を見て過ごした。
 さて今回の帰国の第一目的は、9月の本帰国に向けての下準備として、帰国後どのあたりに住むか、子どもたちの学校はどうするか、を探ることであった。勤務先が新宿なので、どこに住んでも通勤には問題なさそうだ。となると住む場所を選ぶにあたって、一番問題なのが、子どもの学校(来春小学一年生になる長女の学校)ということになる。
 基本的に私立受験は考えていないので、公立小学校に行かせることになると思うのだが、巷で騒がれている学級崩壊やら、教師の質の問題やら、なんだか不安も多い。また人に聞けば、公立小学校にもかなりレベルの差があり、良い学校もあれば、あまり良くない学校もあるという。
 今回はとりあえず、帰国子女や外国籍児童の受け入れに定評がある、目黒区と世田谷区の小学校をいくつか見学に行った。しかし見学といっても、担当の先生に会って校内を案内してもらう、という程度なので、実際その学校がどんな感じなのか、はっきりいってよくわからない。ただ、どの小学校でも半数以上が中学受験をするらしく、今時の小学生はかなり大変そうであった。
 私個人としては、子どもたちには、知る楽しさ、考える楽しさを知ってほしいし、言われたことを鵜呑みにして丸暗記するのではなく、疑問を持って自分なりに考えて結論を出すことができるようになってほしい、と思っている。
 私自身は、まさに偏差値、受験戦争の世代なので、それこそ、丸暗記詰め込み式で勉強してきた。試験に合格するために勉強してきたというのが正直なところで、実際学ぶことの楽しさを知ったのは、社会に出て仕事を始めてからであった。そしてイギリスの大学院に行くことにしたわけだが、まず大きな驚きだったのは、そこで行われていた授業のほとんどが、教師に教わる授業ではなく、自分たちで考え、答えを見つけていく授業だったことだ。
 黒板にかかれたことをノートに写し、そのまま丸暗記していくのに慣らされていた私にとって、討論し、自分たちで調べてレポートをまとめる、という形の授業はなんだか不安でもあったし、いつまでたってもなかなか慣れなかった。実際のところ、まだ慣れない。
 結局、教師が教えてくれる正解をそのまま覚えるのは、実に楽チンなことなのだ。それに慣れてしまった私の脳は、自分で考えることが億劫になってしまっていたのだろう。考えることをやめた脳、うーん、実に空恐ろしいではないか。
 こんな経験があるので、私は子どもたちには、自分で考えて答えを見つけ、それをしっかり伝えられるようになってほしいのだ。それから正解は一つではない、ということも知ってほしいと思っている。1足す1は2というけれど、2つの粘土の塊を合わせれば大きい1つの塊になることもあるわけで、いわゆる常識にとらわれない、柔軟な考え方のできる人にもなってほしいと思う。
 多分、今の教育方法は、私たちの頃からはだいぶ変わっているのではないか、と期待もしているのだが、実際はどうなのだろう。公立小学校にどのくらい期待できるのだろうか。学校には期待せず、学力は塾でつける、という人も多いらしいが、本当にそうなのだろうか。塾でつける学力というのは、つまり入学試験に合格するための学力ということなのだろうか。そして、その学力をつけて世間一般にいわれているいい学校に入学し、そしてまた塾に通って、これまた世間でいうところのいい大学に入学して、そしてその先には何があるのだろうか。
 考えているとどんどん泥沼にはまってしまい、思考が停止してしまう。
 多分、私の心のどこかに、子どもたちを「いい」学校、そして「いい」大学に入れなくてはという気持ちがあるから、このような思考の泥沼にはまってしまうのだろう。子ども自身の気持ちをよそに、母親だけが突っ走っているのである。つい、「いい」学校に入れたら、それでもうOKと誤解しがちだが、そうではないのである。学校は子どもの生活の一部。家庭や社会での経験は、学校での経験以上に大切なのではないか。
 それにだいたい、子ども自身が将来何をしたいか、というのが一番大切なわけで、学校の選択がその子どもの夢への可能性を閉ざしてしまわない限り、どんな学校でもよいのではないか、という気もする。
 それから、勉強も大事だけれど、子ども時代に思いっきり遊んでほしいと思う。それはテレビやゲームではなくて、自然の中で泥んこになって、という意味だ。これに関しては、都内のいくつかの公園内にプレーパークとよばれる場所があり、そこでは怪我は自己責任、泥だらけになって思い切り遊べる、ということを偶然発見したので、何はともあれ、なるべくそういう公園のそばに住もうと思っている。
 結局、学校のことはまだ結論が出ない。親だけで先走っていないで、長女の意見をじっくり聞いてみるのが一番かもしれないなあ。

いろいろできる、これしかできない
 いろいろなことができるのはすごいことだけど、果たして本当にそうなのだろうか。最近、自分の将来と子どもたちの教育問題を考えていて、ふとそう思った。
 私が子どもたちの将来に希望することはただひとつ、「夢中になれるものをみつけ、人生を楽しく送ってほしい」ということである。夢中になれるものとは、趣味でもいいし、仕事でもいいし、なんでもいい。自分が好きなこと、打ち込めることがあって、そして毎日楽しく暮らすことができれば、私はそれが一番幸せだと思う。裕福でなくてもいいし、社会的に高い地位になくてもいい。もちろん自立していることは大切だけれど、別に結婚しなくたってよいと思う。
 というのも、自分の今までの人生を振り返ってみて、ちょっと疑問に思うことがあったからだ。
 自分でいうのもなんだけれど、私はまあまあ器用なほうである。そのため、いろいろなことを、それなりにこなすことができた。また自分自身、何でもできるようになりたい、という願望があったのかなかったのか、いろいろとやってはみるものの、ある程度できるようになると、また次に移っていくということの繰り返しで、広く浅くは出来るけれど、これなら私におまかせ、というものがない。いわゆる器用貧乏というものであろう。
 趣味にしても、テニス、スキー、読書、バレエ鑑賞、温泉めぐり、といろいろあるのだが、これに夢中になって打ち込んでいます、というのがない。
 だから、なにか一筋に打ち込んでいる人をみると、つくづくうらやましいなあ、と思うのである。
 私の37年間の経験に基づいていえば、結局、自分にはこれしかない、これしかできない、これだけが大好き、といえるものがある人のほうが、いろいろなことがそれなりに出来る人よりもずっと幸せなのではないか、と思うのである。別に何でも出来なくたっていいのだ。これなら人に負けない、というものが、ひいては自分の自信や人生への満足感につながっていくのだと思う。
 そういうわけなので、子どもたちには自分の夢中になれるものを見つけてほしいし、他のことはダメでもいいから、これだけは人に負けないというものを持ってほしいなあと思うのだ。
 親としてできることは、いろいろなことを経験するチャンスを作ってやることだけなのだろう。その際にも、親の興味のある分野にだけとらわれず、なるべく幅広い分野にも目を向けなくてはならないと思うが、これが結構難しいんだよね。


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