んだんだ劇場2007年3月号 vol.99
No19
中世の終わり(三)

 豊臣秀吉。今さら言うまでもないが、日本史上において最も出世した男である。尾張国(現・愛知県西部)中村の百姓の出身で、織田信長に才能を認められ、出世を重ねて中国方面の攻略を任せられる。西国の太守、毛利輝元と交戦中に主、織田信長が明智光秀によって本能寺の変で自刃すると、毛利氏と講和し、その足で光秀を討った。その後、織田家の家宰として信長の後継者の地位を手に入れる。これに不満を抱く、柴田勝家を越前北庄(現・福井県福井市)に滅ぼして、北陸一帯を平定。かつて、織田信長に抵抗し続けた、毛利輝元、上杉景勝といった名だたる戦国武将をも参加に組み込み、四国の長宗我部元親、九州の島津義久を平定。1585年(天正十三年)に朝廷から、関白に任命された。
 さすがに、日本において百姓から朝廷における最高の地位である関白に就任した、人物は秀吉くらいであろう。
 関白就任後の秀吉の目は、まだ戦乱の真っ只中にあった「東国」に向いていた。1590年(天正十八年)7月、再三の上洛要請に応じなかった、北条氏政の籠る小田原城(現・神奈川県小田原市)を落とした。前年から30万もの兵で囲み、一夜城を「石垣山」という小田原を見下ろせる山に築いた。完璧な持久戦であった。この戦は「小田原攻め」と言われており、豊臣秀吉の全国統一の完成と言われている戦いである。
 このとき、奥羽米沢城主(現・山形県米沢市)の伊達政宗が小田原に参陣して秀吉から罪を許された。政宗の「罪」というのは秀吉の「惣無事令(そうぶじれい)」に違反したことである。1587年(天正十五年)に奥羽の諸大名に向けて発令された、大名同士の私闘を禁止したものである。政宗はこの命令を無視して、会津(現・福島県西部)の葦名義広を攻めたのである。小田原参陣の政宗は白装束を纏う異様な格好であったそうだ。
 1590年(天正十八年)8月、伊達政宗の先導で豊臣秀吉は宇都宮、白河を経由して会津黒川(現・福島県会津若松市)に入城して「奥州仕置」と呼ばれる奥羽の諸大名に対する仕置を行った。
 秀吉は政宗から会津を没収して、腹心である蒲生氏郷(がもううじさと)に与えた。また、小田原参陣に応じなかった諸大名を改易処分にした。また、改易した諸大名の領地には浅野長政といった、秀吉配下の奉行が派遣された。
 ここでこの時期のルーツの動向を探ってみることにすると・・・

三十二 範祐 行岳御所候ス 龍千代 加名生次郎範茂長男
三十三 範脩        三郎監物 範祐長子 行岳候ス
    範興 三郎舎弟   主馬進 範祐四男奥州○○住ス(天正十八年討死)
    範敏 三郎舎弟   帯刀 範祐五男 奥州和賀住ス(天正十九年討死)
    祐脩        範脩ノ長男 行岳行宮ニ仕官ス大谷諏訪姓祖
※○は参考資料の劣化により読むことのできない語句である。

 上は以前も参考にした「諏訪家系類項」の家系参考資料からの引用である。「範脩」「祐脩」については前回紹介した。今回紹介したいのは「範興」「範敏」という二人のルーツについてである。ここで注目すべき点は「小田原攻め」が終わり天下統一の完成を実現した、天正十八年、十九年にルーツが「討死」していることである。「奥州仕置」が行われ平和になったはずの「奥州」でどうしてルーツは戦死したのであろうか。

 私はこの事実に非常に興味をもった。戦国時代が好きということもあったのだが、「諏訪家系類項」によればこれ以降のルーツの「討死」は見られないのである。
時代区分的に見ると「天正末期」にあたるこの時期は武士の世の中である「中世」から、天下泰平となる「近世」への時代の変わり目である。「僕のルーツ・中世への旅」の終わりは最も身近な「東北地方(奥州)」となった。
 私は2006年(平成十八年)12月26日、ルーツの痕跡を追って「和賀(わが)」へ飛んだ。和賀郡というのは現在の岩手県北上市一帯である。これまで「北上(きたかみ)」という町に降りたことは2、3回しかないが、特段この地で「和賀」という名前を意識したことはほとんどなかった。
 奥羽本線上りの始発で秋田を経ち、横手から北上線で和賀郡に向かった。そして、降り立った駅は「藤根」という小さな駅である。藤根駅は北上線の駅で北上から西に4つ目の駅である。藤根駅に降り立ったときは、肌寒かった。秋田県沿岸部に暮らしている私にとって、この山地の寒さは妙に新鮮でもあった。これから向かう先は「岩崎」という集落のあるところである。この集落までは結構な距離を歩かなくてはならなかった。途中で「和賀中央橋」という和賀川に架かる橋を渡った。西側にはそんなに高くない奥羽山脈の「和賀山塊」と呼ばれる連山が美しく並んでいる。目につくものに「和賀」という名前が多く目立ってきた。こうして一歩一歩、踏みしめて目的地に詰めていく旅もなかなか楽しいものであると、このとき初めて実感した。重い足取りも僅かながらではあるが、軽くなってきた。40分ほど歩いたろうか、正面の小高い丘に模擬天守が見えてきた。あれが今回の目的地「岩崎城跡」であろう。風が吹き荒れる県道から車の轟音を避けるように、右手の山道に入った。
 けっこう険しい山道である。上り詰めた、果てには天守閣を模した建物が建っていた。四層(?)の天守閣の一階は「北上市立岩崎公民館」で、ニ〜三階は「資料展示室」で、最上階は「展望台」となっていた。ここでもらったパンフレットには岩崎城に関することが詳細に書かれてあった。

 「岩崎城とは・・・岩崎城は、室町時代の前後約400年にわたり和賀地方を治めていた和賀氏一族の城です。一族の中心的な城だった二子城に次ぐ大きな城でした。豊臣秀吉が全国を統一したとき、和賀氏の領地は取り上げられ、南部氏に与えられました。岩崎城など和賀氏の城はすべて廃城となりました。まもなく、和賀氏は領地を取り返すために反乱を起こし、岩崎城にたてこもって南部氏と戦いましたが、敗れてしまいました。岩崎城を舞台としたこの戦いの様子や、城の様子を詳しく書いた貴重な記録が残っています。『和賀岩崎一揆由来記』」(北上市岩崎公民館「公民館あんない」より)

 この日は平日だったため、公民館も業務しており、私も中に入ることができた。様々な資料を見ていたのだが、やはり気になるのが天正十八年に起きた「和賀一揆」のことである。私のルーツはたしかに天正十九年に和賀で討死した。これは、一揆に加担して、討死したのではないだろうか。しかし、その辺りの情報を資料展示室で得ることはできなかった。
 ところが、公民館では和賀氏に関する様々な書籍を販売していた。その中でも最も求めやすかった岩崎村社会教育委員会編の「和賀家小史」と呼ばれる冊子を購入した。その際、公民館の職員の方が声をかけてくれた。秋田から先祖の調査にやってきた旨を話すと、たいそう親切にして頂いた。和賀氏を訪ねて秋田から来る人も多いそうである。
 帰りの北上線車内でこの冊子をぱらぱらめくると、興味深い記述が多く見受けられた。その冊子には「伊東祐親(いとうすけちか)」という名前が書かれてある。偶然にしては・・・と思い一瞬、目をこすったが、この記述に間違いはなかった。どうやら、和賀氏のルーツは伊東祐親にあるようだ。しかし、今回の「旅」と直接的な関係はないため、これについては割愛させていただく。
 「和賀家小史」を忠臣に天正十八年以降の和賀氏の動向を紹介していきたい。このときの当主は和賀義忠であった。秀吉の「小田原攻め」への参陣の是非で再三軍議になったが、そのときすでに小田原城は落城してしまう。その後、秀吉によって「奥州仕置」が発令され、小田原参陣しなかった和賀氏は改易となった。領地没収には三戸の南部信直と秀吉配下の奉行、浅野長政が軍を率いて下向して十八ヶ崎城(現・岩手県花巻市の花巻城)に入城した。和賀氏をはじめ、同じく所領没収の憂き目にあった、十八ヶ崎の稗貫(ひえぬき)氏らは秀吉の権威を恐れ居城から一族郎党四散して近郷に潜伏した。浅野らは秀吉の配下を代官として、和賀・稗貫氏の旧領の各城館に入れ、それぞれ帰国した。
 仕置軍が帰ると即刻、和賀・稗貫の旧領主は蜂起して、秀吉配下の代官を悉く殺害した。時、同じくして葛西晴信や大崎義隆といった改易された奥州の諸大名の旧領でも同じようなことが起こった。天正十九年になると、南部信直配下の九戸政実が本家へ反旗を翻して九戸城(現・岩手県二戸市)で独立した。手に負えなくなった、南部信直は秀吉に援軍の派遣を求めたのである。こうして奥州では「九戸・和賀・稗貫・大崎・葛西」といったおよそ170キロに及ぶ秀吉政権への一揆同盟が組まれた。
 驚いた、秀吉は会津の蒲生氏郷や伊達政宗を先鋒に豊臣秀次(秀吉の甥・後の関白)ら六万騎(後詰を含めば十万とも言われている)を奥羽に派遣した。中でも葛西晴信の旧領での抵抗は凄まじく、佐沼城(現・宮城県登米市)に籠った葛西氏の残党、二千五百人は「撫で斬り」で仕置軍によって討ち取られた。葛西、大崎の一揆を殲滅した仕置軍はついに和賀郡まで進軍してきた。和賀郡に押し寄せた仕置軍は四万騎と言われて、一揆勢の籠る和賀の旧本城である二子城(現・岩手県北上市)はじめ支城群を包囲した。三日間戦い抜いたが、和賀の残党の兵力は百三十騎と八百人しかおらず仕置軍との雲泥の兵力差であった。
 和賀という地で四万もの軍勢が攻撃してくることなど古来よりみても、始めての出来事であろう。和賀義忠もまさか、秀吉の仕置軍が大軍を率いて和賀郡に侵攻してくるなど想像していなかったはずである。結局、和賀の残党は再び四散した。その中には、九戸政実を頼って落ち延びるものもあったという。また、大将の義忠は仙北の本堂氏(和賀一族)を頼って落ち延びたとも、土民に討たれたとも言われているが定かではないそうである。こうして、和賀一揆は平定された。これは天正十九年のことである。以上のことから、私のルーツ「範敏」はこの戦いで戦死したのではないだろうか。確証はないが、和賀を訪れてその気持ちはいっそう高まった。
 また、「諏訪家系類項」にある「範興」に関する資料の劣化で読めない部分の一文字目は『石』であることがわかった。奥州石・・・とくれば私は即座に「石巻」を連想した。石巻とは宮城県東部にある大きな港町であるくらいはニュースや旅番組で見たことがある。虫眼鏡を使って資料を食い入るようにして見つめるとうっすらではあるが「巻」の上の部分が確認できたが、正確には把握できない。石巻は、戦国期に葛西氏の領地であったそうだ。天正十九年に葛西氏領内の一揆が平定される前年に、葛西氏の残党は、新領主である秀吉が派遣した木村吉清の暴政に対して蜂起した。よって天正十八年に石巻でルーツ「範興」が戦死していることはこのときの蜂起に関わったものと思われる。
 ただこの二つの推測は、確証がもてない。「石巻」や「和賀」といった地名が漠然としすぎているのである。和賀郡といってもその耕土は想像以上に広い。石巻は現地を訪れたことがないために、詳細な状況を把握することはできない。
 ただ、今回「和賀郡岩崎」を訪れたことがルーツへ近づく第一歩となったことだけは事実のようである。

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参考文献
・『諏訪家系類項』(諏訪兄弟会)
・『和賀家小史』(岩崎村社会教育委員会)
・『日本の名族・東北編U』(新人物往来社)
・『公民館あんない』(北上市岩崎公民館パンフレット)
・『天を衝く(1)(2)(3)』(高橋克彦著・講談社)


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