んだんだ劇場2007年2月号 vol.98
No18
中世の終わり(二)

 クリスマス、お正月と瞬く間に時は流れて、新年がやってきた。高校生にして昨日の晩飯の献立を忘れ、今晩、何を食べるのかと考える。気楽なものである。
 おっと「気楽」ではない。話題にしたいのは「記憶」である。人の記憶というのは至極、曖昧なものである。私に限らず昨日の晩飯の献立を忘れる人は多いはずである。(少なくとも私の周囲には・・・)
 「記憶」を確実なものにするためには、勿論「記録」することである。私は中学生の頃からネット上で日記を書いていた。今で言うところの「ブログ」というものである。暇なときに過去の日記を振り返ることが多いが、想像以上に過去のことは忘却しているものである。写真もビデオもない時代には、記憶を残すには文書として記録するしか道はなかったはずである。しかし、現在のようなコピー機やインターネットが存在しているはずもない。写本や戦乱による消失により正確な情報が得られるどころか、虚構や虚実までもが見られる場合もあるのである。
 前回は「由利十二頭」の成り立ちや由縁について、ほんの少しだけ紹介したのだが、由利十二頭に関する真実の記録などほとんど残っていないのが事実である。「奥羽永慶軍記」といった軍記物語や、写本による「由利十二頭記」でしか知る術がない。
 私のルーツが由利郡に数百年もの長きに渡って土着することになることは前回触れた。少なくとも、長い土着により由利郡の民の血が濃くなっていったことは確かであると思う。
 由利郡の歴史を調べるということは、数えることのできないルーツの原点になるとも思うので、ここで少し由利郡(特に旧・大内町)の歴史を紹介したいと思う。ここでは「大内町史」を参考にしたい。

 話は再度、南北朝時代まで遡らなくてはならない。以前も記したのだが、私は秋田県の城館を巡ることが趣味であり、両親に車で様々な場所に連れて行ってもらった。父親の実家である、旧・大内町にもよく遊びにいったのであるが大内町役場(現・由利本荘市大内総合支所)裏手の庭にある「勧請墓」の存在を耳にして訪れたことがある。「大内町史」によるとこの墓石には「前岩屋領主、岩屋左兵衛源朝繁墓」と記されているとある。岩屋朝繁とは由利十二頭の一人、岩屋氏の最後の当主であり「関ヶ原の戦い」以降に本領を安堵された「由利五人衆」の一人であるそうだ。安東愛季、本庄繁長、最上義光に仕えていたのだが1622年(元和八年)に徳川幕府によって最上義俊が改易されると、同じく領地を没収されてしまった。その後、秋田藩佐竹氏から扶持を与えられたが、これを潔しとせず、旧主であった秋田実季(安東愛季の子・当時は常陸国宍戸の大名)のもとに身を寄せることになる。その後、秋田家は三春(現・福島県三春町)に国替えとなり、朝繁もそれに随行してその地で生涯を終えた。よって、勧請墓は朝繁の墓を故郷の岩谷(現・秋田県由利本荘市岩谷)に勧請したものだそうだ。
 しかしながら、私がその地を訪れると明らかに「大内町史」の内容と違っていた。白い標柱が立っており「楠正家公墓」と記されている。この当時は何気なしに思っていたのだが、今だったら「楠(くすのき)」という名には少なからず反応するだろう。
 そう、楠とは楠木のことであり。勿論、悪党出身の武将、楠木正成を連想してしまうのである。南北朝時代はルーツとも繋がりが深い。ゆえに「僕のルーツ・中世への旅」でも第4回から第8回にかけて詳しく紹介し、楠木正成についてもそれなりに触れている。
 さて、楠正家とは何者なのか?
 「大内町史」によると「親川楠氏の系譜」という資料・文献を使い、正家について紹介している。1336年(建武三年)正月、建武政権(後の南朝)は旧・鎌倉幕府の執権、北条一族の居城であった瓜連城(現・茨城県那珂市)を没収した。楠木正成は代官として正家を派遣した。正家の任務は北朝方の佐竹氏を討伐することであったが、佐竹勢の攻撃により瓜連城を放棄せざるを得なかった。その後、奥羽に赴いて北畠顕家と共に西上したが、正家は1348年(貞和四年)の「四条畷の戦い」で戦死している。これらの動向はかつての「中世への旅」で紹介したのでそちらを参考にしてもらいたい。しかしながら、「親川楠氏の系譜」には驚くべきことが記載されている。「大内町史」よりそのまま引用する。

 「(前略)そこで後村上天皇の第六皇子、良成親王が後征西将軍となって、1391年(元中八年)、九州に下り、正家はこれに供奉した。しかし、九州の北朝方は次第にその数を増し、南朝方の頽勢は立て直すべくもなかった。そうした中で1392年(元中九年)南北朝合一の議が成り、中央段階では戦争には終止符が打たれた。けれども奥羽にはまだ戦いの余燼が残っている。良長親王は征夷大将軍、正家は副将軍となってここに活路を見出し、長慶上皇、北畠一族と呼応して南朝の復興をはかろうとした。しかし、良成親王は長い旅の疲れで奥羽岩ヶ崎で亡くなられた。正家は小笠原氏と姻戚関係を結ぶなどして由利地内に入り、川内打越に居城して南朝与党の拡大につとめ、南朝の再興を企てたが意のごとくならず、岩倉の城に引きこもって1404年(応永十一年)に死亡する。(後略)」

 「大内町史」では「親川楠氏の系譜」の真偽について正家の年齢を上げて疑問を投げかけている。ところで、征西将軍、良成親王の墓所は九州の福岡県矢部村というところにあるそうだ。つまり、良成親王は奥羽に落ち延びてはいないのである。また、長慶天皇については第10回で詳しく述べた。長慶天皇行幸伝説は奥州(特に南部地方)に多く存在している。南部煎餅誕生のきっかけを作った人物でもある。北畠氏は南朝を支えた北畠親房、顕家の末裔が奥州浪岡に土着した浪岡御所こと「浪岡北畠氏」のことであろう。小笠原氏は由利十二頭の仁賀保氏や赤尾津氏の祖である信濃国(現・長野県)から下向してきた小笠原一族のことである。
 これ以上、深く追求すると本題から脇道にそれるため、ほどほどにしておく。「親川楠氏の系譜」の真偽は定かではなく、怪しいところも数多いが、この後、楠氏は小笠原氏、由利氏と姻戚関係を結び、「打越(うでち)氏」を称するのである。打越氏も由利十二頭の一人である。
 楠正家の存在からも室町時代の由利郡は「南朝勢力」の根強さを感じる。ルーツがこの地に落ち着いたもそのような理由があるのではないのだろうか?
 さて、戦国時代の由利郡は勿論、動乱の真っ只中である。南の庄内から大宝寺義氏の侵攻や北の秋田の安東愛季による由利郡介入。東の小野寺義道との交戦。さらには、由利十二頭の内輪もめである大井氏(矢島氏)と仁賀保氏の抗争など、戦の日々であった。しかし、豊臣秀吉の出現によって「奥州仕置」がなされ、由利十二頭の諸将は所領を安堵される。
 この後、秀吉の政策の一つである「検地」に反対して、奥羽の各地で検地反対一揆が起こった。大規模なものでは、奥州の「葛西・大崎一揆」や「和賀・稗貫一揆」をはじめ「九戸政実の乱」であるが、由利郡内でも仙北郡から波及した一揆が起きた。1590年(天正十八年)のことであった。この一揆の鎮圧に秀吉政権の重要なポストである五大老の前田利家、上杉景勝らが出陣して大騒動に発展した。
 だいたいではあるが、先祖が浪岡から由利に土着したのはこの時期ではないのだろうかと「諏訪家系類項」から推測される。
 その後、仙北郡に山形の最上義光(もがみよしあき)の力が及んだあたりから由利十二頭も最上氏の影響を強く受けることになる。豊臣秀吉が没して、五大老筆頭の徳川家康と五奉行筆頭の石田三成が対立を始めると世の中の動きも不穏になる。大国、会津の上杉景勝が石田三成に呼応して挙兵すると、家康方の最上義光は苦戦を強いられた。頼みであった隣国の伊達政宗は上杉と不戦同盟を結んで中立を保っていたため戦力ではなかった。ここで仙北の小野寺義道は上杉方に呼応したために、最上は上杉、小野寺に挟み撃ちにされてしまった。庄内、仙北、置玉、そして伊達領の大崎という隣国全てが敵になったのである。最上義光は独力で山形を守るしか道はなくなったのである。このとき、由利郡内では大井氏の残党らが小野寺に呼応して笹子(現・秋田県由利本荘市鳥海町)の赤館で挙兵した。
 しかし、1600年(慶長五年)9月の関ヶ原の戦いにおいて、徳川家康率いる東軍は、石田三成率いる西軍を破ったのである。これを知った上杉勢は矛をおさめて山形から撤退を開始した。小野寺や大井の残党は孤立して翌年、東軍に降伏する。小野寺義道は所領を没収されて石見津和野(現・島根県津和野町)の坂崎出羽守預かりとなった。
 徳川家康は最上義光の戦功を評価して、小野寺の旧領の仙北郡はじめ、由利郡と大幅に領地を加増した。秋田実季と戸沢政盛といった北羽に長く君臨した諸将は秋田の地を離れ常陸(現・茨城県)に転封された。秋田には常陸からやってきた佐竹義宣が入部した。由利郡は最上義光の預かるところとなり、義光の臣、楯岡豊前守が由利郡の中心部に城を築き本城とした。これが今の由利郡の中心地「本荘(ほんじょう)」の由縁である。
 由利十二頭からは仁賀保氏、打越氏が大名に取り立てられ他国へ移封。岩屋氏と滝沢氏は最上家臣として所領を安堵された。「関ヶ原」以降の由利郡は最上氏のもとで楯岡、岩屋、滝沢の三氏で治められることになった。それ以降の情勢は前段の「岩屋朝繁」の項目で記した通りである。
 時代はすでに中世ではない。近世初頭、江戸時代である。中世、最後の当主である、祐脩は浪岡から由利郡大谷に土着した。そして1633年(寛永十一年)正月二十二日に大谷の地で工藤祐脩は没した。
 この祐脩以降、名字は「工藤」から「諏訪」に改名して、代々の世襲名であった「範」は「脩」という字に変わって明治時代まで続くことになる。これらの理由の詳しいところは分からない。ただ一つ明らかなことは家紋に「庵木瓜」を使っていたことだけである。この家紋は「藤原南家」の工藤為憲から使われていたもので、伊東祐親も使用していた。世の中が変わり主君も変わり苗字や名前が変わっても伝えるべき家紋は血筋とともに伝えられてきたのである。
 「僕のルーツ・中世への旅」もここで終わりそうな勢いであるが、もう少しお付き合い頂きたい。次回は話を少し遡り中世の終わり(三)ということで祐脩の叔父の動向について紹介する。

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参考文献
・『諏訪家系類項』(諏訪兄弟会)
・『大内町史』(大内町史編さん委員会)


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