んだんだ劇場2007年1月号 vol.97
No17
中世の終わり(一)

 鎌倉、南北朝、室町、戦国と、およそ「いい国作ろう鎌倉幕府」の語呂合わせから、何百年にわたって「中世」と呼ばれる時代が続いたのであろうか。中世の始まりは、源頼朝が鎌倉に幕府を開いたという周知の事実から始まっていることは明確だが、中世の終わりは、厳密には不明瞭なところである。一般的には、刀槍中心の戦いから傭兵制を備え、鉄砲という新兵器を手にした織田信長によって中世という時代に幕が打たれ、近世という時代が始まったと言われているが、私は疑問を投げかけたい。実際、織田信長は天下を一つに纏めることなく、本能寺の変で自刃したのである。このとき山陽には大国、毛利氏が存在し、関東では北条氏が権勢を誇り、奥羽では戦いの止む事の無い戦国時代であった。関東以西は近世ではあっても、東国以東は完璧な「中世」だったのである。
私たちは後の世に産まれたので、当たり前のことながら中世以後の時代を歴史という年表の上で把握することができる。天下泰平の江戸時代から騒乱の幕末戊辰期、更には近代化の迎えた明治維新、二度のアジアを巻き込む世界大戦を経験して、玉音放送から60年の歳月が経っている。しかしながら、当たり前のことではあるが、私たちは、未来のことを知る術を持っていない。「本能寺の変」の起きた瞬間、果たして当時の人々は、これからやって来るであろう、本当の中世の終わりに気づいていたであろうか。少なくとも、多くの人は信長が死んだことで、再び騒乱の戦国時代に逆戻りすると思ったに違いない。しかしながら、信長の家臣であった、羽柴秀吉が畿内の信長勢力の跡を継いで、中国、四国、九州、紀州を平定、越後に大国を誇った上杉氏や当時の日本で最も天下に近いと思われた徳川家康でさえも秀吉に傘下に組み込まれた。秀吉はこの後、関白になり、豊臣秀吉を名乗り、全国統一に乗り出すことになる。

 このような時、私のルーツはどうしていたのか?
 そのことについては、回数を重ねるごとに考察してきた。そう、ルーツは中世のど真ん中である「北奥羽」に存在していたのである。長いこと先祖の軌跡を追ってきた。「諏訪家系類項」という一冊の書物を参考にして・・・・・
 源頼朝の監視役として、中世最初の戦い「石橋山の戦い」で大勝するも、鎌倉幕府に捕えられ自刃する、伊東祐親。中世の動乱期、南北朝時代にあってはひっそりと後醍醐天皇に組して、南朝のために戦ったルーツたち。室町幕府の天下にあっては廃れていく「後南朝」を支えて、その後は関東へ、奥州へ。しかし、奥州という土地もルーツの安住の地ではなかった。
 さて、前回参考にした「諏訪家系類項」の参考資料をもう一度紐解いてみると、

三十二 範祐 行岳御所候ス 龍千代 加名生次郎範茂長男
三十三 範脩        三郎監物 範祐長子 行岳候ス
    範興 三郎舎弟   主馬進 範祐四男奥州○○住ス(天正十八年討死)
    範敏 三郎舎弟   帯刀 範祐五男 奥州和賀住ス(天正十九年討死)
    祐脩        範脩ノ長男 行岳行宮ニ仕官ス大谷諏訪姓祖
※ ○は参考資料の劣化により読むことのできない語句である。

 一番下にある祐脩は行岳行宮(浪岡御所)に仕えた後に由利郡大谷(現・秋田県由利本荘市大谷)の諏訪姓になったとある。この後、明治時代までの数百年の間、諏訪氏はこの地に定住することになる。どうして、代々の姓であった「工藤」から「諏訪」に名前を変えたのであろうか。これには諸説考えられるが、はっきりしたところ定かではない。また、奥州の浪岡から羽州の大谷までは、およそ150キロの直線距離がある。何故、これだけの距離を移動しなくてはならなかったのか。私が考えるに、やはり主家である行岳行宮(浪岡北畠氏)の滅亡が考えられると思う。祐脩の父親である、範脩も行岳行宮に仕えていたが、その弟に当たる、範興や範敏は浪岡に仕えることなく奥州の各地に住んでいたようである。これは、行岳行宮が滅亡して、一家が離散になったのではないかと思う。範興や範敏の動向についてはそのうち、詳しく紹介したいと思う。
 ところで、工藤一族と秋田を結ぶ接点は前回も述べたように岩倉右近にあるような気がする。岩倉右近は浪岡北畠氏の一族であったが、主家滅亡後、秋田の安東愛季を頼って落ち延びてきたという事は前回も触れた。これは私の推測だが、祐脩は岩倉右近を頼って秋田にやって来たのではないだろうか。
 しかしながら実際のところはほんとによく分からない。当時の由利郡には「由利十二頭」と呼ばれる小豪族が割拠していた。「由利十二頭」に関する詳細な参考資料は、「由利町史」や「大内町史」「本荘市史」などがお勧めである。
 「本荘市史・通史編」によると「矢島十二頭記」を参考にして、「矢嶋、仁賀保、赤宇津、潟保、打越、下村、玉米、石沢、滝沢、沓沢、子吉、鮎川」といった国人衆が十二頭として挙げられるるとあり、また他の資料では「沓沢」と「岩屋」が入れ替わっているとある。さらに、由利郡の十二頭の数は十二人以上になるのに、何故、十二頭というのかということに対して、姉崎岩倉著の「由利郡中世史考」を参考に「十二神将」に関係していると述べている。「十二神将」とは、1331年(天徳三年)に出羽国由利郡津雲出郷の源正光、滋野行家が天下泰平を祈願して鳥海山に奉納したものであるという。宗教的なことはよく分からないが、「12」という文字は縁起がいい数字であるそうだ。この「由利十二頭」という存在は、大名勢力の圧力を受けながら、何処の勢力にも属さずに小地域を占領して互いに争った、典型的な中世の国人勢力の模範である。しかしながら、由利十二頭は結果、最後まで何処の大名家に属することもなく(こういえば嘘になるかもしれないが)、秀吉の天下統一に組み込まれていくことになるのである。
 安東、戸沢、小野寺、大宝寺、最上、上杉といった勢力を渡り合った由利十二頭。地域によっても特色は様々である。安東領に近い、赤尾津氏や岩屋氏などは安東よりで、矢島の大井氏は小野寺よりであった。また仁賀保氏は庄内よりであったと思われる。また、矢島の大井氏と仁賀保氏は領民の国境問題から波及して互いに戦になり、仁賀保の当主は矢島の大井五郎によって次々と失われてしまうことになるが、最終的に五郎は由利十二頭全てを敵に回してしまい、矢島を去ることになってしまうのである。

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参考文献
・『諏訪家系類項』(諏訪兄弟会)
・『郷土史事典・秋田県』(昌平社)
・『本荘市史・通史編』(本荘市史編さん室)
・『ウィキペディア』(http://ja.wikipedia.org/wiki/)


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