んだんだ劇場2006年9月号 vol.93
No27
五箇山豆腐


これは大変!
 千葉県いすみ市の、我が家の畑の外周に、夏空を背景にして背の高いルドベキアが咲いている……と思っていたら、これが大変な草だということが、つい最近わかった。
 宇都宮市に本社のある日光種苗(株)の日光店長、小川浩徳さんが、いつも美しい写真をつけて書いている「日記」を、私のパソコンへ送信してくれている。小川さんは「日光種苗の知恵袋」と言われている人だ。その最新号によると、この草はオオハンゴンソウ(大反魂草)と言って、標高1400メートルの日光・戦場ヶ原では、在来の植物を脅かす「外敵」として、ボランティアの人たちが毎年抜き取っているのだそうだ。

高々と咲くオオハンゴンソウ
 我が家でこの草が見られるようになったのは、3年前だと思う。私より草花にくわしいかみさんも、父親も、これを「ルドベキアの1種」と思っていた。キク科の園芸種であるルドベキアには、たくさんの品種がある。だから、「ずいぶん背の高いルドベキアもあるんだなぁ」というくらいにしか考えていなかった。
 ところが、小川さんの日記によると、これは「外来生物法」で「特定外来生物」に指定されている栽培禁止植物だという。オオハンゴンソウは、種でも地下茎でも広がる多年草で、そのままにしておくと、そこらじゅうにはびこってしまうらしい。小川さんは、標高の高い戦場ヶ原から、次第に平地に降りてきているのに驚いたと日記に書いていたが、我が家は、海まで直線で5キロメートルの「低地」である。こんな所まで進出したとなると、いずれはセイタカアワダチソウのようになるのかもしれない。
 そういう植物をもう1種、最近知った。それは「大金鶏菊」。キバナコスモスのような美しい花を咲かせる草だ。
 これは、読売新聞社の先輩、Hさんのメールで知った。Hさんは、数年前に開所した老人ホームの事務局にいて、庭の管理も仕事の一つ。早く美しい庭にしたいと思って、道端にたくさん咲いているこの花の種を集めようとしたのだそうだ。ところがこれも今年から「特定外来生物」に指定されたことを、しらべてみてわかったという。
 オオハンゴンソウの学名は「ルドベキア」である。インターネットで調べたら、「ルドベキアが逃げ出して野生化した」と解説している人がいた。大金鶏菊も、最初は栽培種だったのだろう。美しい花なので、これをデザイン化して校章にしている学校もあるくらいだ。それが「野の花」になった例は数多い。
 「除草剤を散布した土地には、以後数年、大量の帰化植物が出現する例が多い」という解説も見つけた。確かに帰化植物には、そういう強さがある。
 ところで、我が家のオオハンゴンソウは、「来年抜こうか」と、私は思っている。
 正体がわかったので退治しなければならないのだが、咲いている盛りを手折るとなると、やはり、ちょっと「もののあはれ」を感じる。
(小川さんの日記は、日光種苗ホームページの「店長のブログ」をクリックすれば読めます。でも、今出ているのは5月分まで。オオハンゴンソウの話は、まだ公開されていないようですが、とても写真が美しいので、バックナンバーも楽しいですよ)

世界遺産の合掌集落
 車が新しくなったので、ドライブしたくなった。で、前々から行ってみたいと思っていた「白川郷」を目指した。
 愛知県稲沢市の私の単身赴任宅からは、30分もかからないで東海北陸自動車道に入ることができる。出かけた8月5日の土曜日は、学校が夏休みなっていることもあって、郡上八幡の手前で渋滞に巻き込まれたが、それでも、荘川インターチェンジで下りて国道158号を走って30分、全部で「実質2時間」(ちょくちょく休憩したので本当はもう少しかかった)で、白川郷(岐阜県白川村)に着いた。

白川郷の合掌造り
 写真を撮ったのは、集落の入り口にある家。これは、観光写真でもよく見かける風景だ。ところが、集落に入ると、ぶつかりそうになるほど観光客が多く、合掌造りの家はほとんどが土産物屋になっていた。ちょっと興ざめし、すぐに「五箇山」を目指した。白川村から富山県方向には東海北陸道が開通していて、10分ほどの距離である。
 現在は富山県南砺市になっている五箇山には、2か所、やはり世界遺産に指定されている合掌造りの集落がある。

五箇山・菅沼の合掌造り
 だが、五箇山まで足を伸ばしたのには、もう一つ目的があった。それは、「縄でゆわえて持ち帰れるほど硬い豆腐」である。世界遺産の菅沼集落で、「どこに豆腐店屋があるか」を尋ねたら、国道をもっと下った所にある「喜平豆腐屋」だと言う。それは菅沼から5キロほどの、上梨集落にあった。

硬い「五箇山豆腐」のポスター
 「そんなに硬い豆腐があるのか」と、前々から食べてみたかったのだが、現物をみて、まず大きさに驚いた。写真の豆腐は「2丁分です」と、「喜平商店」のおかみさんは言う。店では半分の「1丁」にして売っているが、それでも大きい。さらに半分(200円)に切ってもらって、店先で食した。
 これほど硬くするのには、ほかの地域の豆腐の倍の時間、重しをかけて水分を絞るのだそうだ。と、聞いてみると、なるほど、味の濃い豆腐だった。ついでに「豆乳ソフトクリーム」(350円)も食べた。が、こちらは「絞る前の豆腐」が原料だから、それほど豆の味はしなかった。
 今は、軟らかい豆腐が全盛。特に「絹ごし豆腐」には、グルコノデクタラクトンという、「薄い豆乳でも固めてしまう」凝固剤が使われているものがあって、私はそれを絶対に買わないが、そうでなくても、最近の豆腐は頼りないと思っている。
 正反対に、山形県には「鉋(かんな)で削る」豆腐があるそうだ。伝統的な保存食らしいが、「豆腐の角に頭をぶつけて」死ねるくらいのそいつを、次に食べてみたい。
(2006年8月6日記)



三岸節子の絵


桝井ドーフィン物語
 先週、千葉県いすみ市の自宅に帰って、久しぶりに愛犬モモと散歩に出た。2キロ離れたコンビニへの、いつものコースだが、その途中に、大きなビニールハウスが2棟できていた。中をのぞくと、この近辺では珍しい無花果(イチジク)が栽培されていた。

ハウス内に植えられたイチジクの苗木
 栽培者がいたので、品種を尋ねると、「桝井ドーフィン」だという。広島県廿日市市の果樹専門種苗会社「桝井農場」が、全国に苗木を供給している無花果である。栽培しやすく、ちょっと皮が厚くて収穫後の日持ちがよいというので、今、日本の栽培無花果の8割を占めているという品種だ。
 無花果は、人類が栽培した作物の中で最も古いものの一つだ。アラビア半島から小アジア地方が原産地だそうで、そう言われると、アダムとイブが天上界を追われる時に、股間を隠していたのが無花果の葉っぱだというのも、なるほどと思う。日本ならヤツデの葉があるが、小アジアの乾燥地帯では、股間を1枚で隠せるほど大きな葉っぱは、無花果しかなかったのだろう。
 日本に無花果が入って来たのは、江戸時代の初めで、蓬莱柿(ほうらいし)という品種だった。これが全国に広まったので、「無花果は昔からある」と思っている人が多いようだが、実際は、それほど歴史のあるものではなく、明治42年に桝井ドーフィンが輸入されるまでは、蓬莱柿1種しかなかったそうだ。
 フランスでは、もっといろいろなタイプの無花果があって、肉料理の付け合せに使われたりもする。日本では、果物として食べるか、甘く煮るのが一般的だろう。
 もっとも、私が育った福島市では無花果を植えている家が多くて、無花果は道端に伸びた枝から勝手に取って食べるものだと、子供のころは思っていた。東京の大学に入って、八百屋で無花果を売っているのを見て、驚いたものだ。
 我が家の近くで無花果のハウス栽培を始めた方は、「今年は木を大きくするだけで、収穫できるのは来年」と話していたが、「実は、市場に出すほどの量がなくて、販路をどうするか、今から悩んでいる」という。この地域では先進的な作物だから、そういう悩みは確かにあるだろうと思う。
 さて、桝井ドーフィンの話に戻る。
 明治42年に、この品種を日本に入れたのは、桝井農場初代の桝井光次郎という人だ。アメリカへ行って、日本の農業に適した作物はないかと探し回った末に、この無花果を見つけたという。桝井光次郎は、近代農業の先覚者の一人なのである。
 ……というようなことを書いた『桝井ドーフィン物語』という本がある。それは平成5年、桝井農場の85周年記念として出版された。当時、読売新聞の「食べ物記者」だった私へも、その「案内」が送られて来た。「そういう先人がいたのか」と感心したのだが、「この後、無花果のことを書く機会はないだろうな」と思って、買わなかった。
 ところが今回、インターネットで調べたら、『桝井ドーフィン物語』は今や、1冊5千円もするではないか!
 面白そうな本は、すぐに読まなくても買っておくべきだ、と、反省している。

さいたさいたさくらがさいた
 これも先週、いすみ市の家でNHKの「迷宮美術館」という番組を見ていたら、三岸節子さんの花の絵がいろいろ紹介されて、その最後に「さて、この絵の題名は?」というクイズが出た。
 画面いっぱいに白とピンクの渦がのたうちまわっているような絵で、なんとも奇妙な迫力があった。
 答は、「さいたさいたさくらがさいた」。

「さいたさいたさくらがさいた」(絵葉書を撮影)
 平成11年(1999)に94歳の生涯を閉じた三岸節子が、その前年、神奈川・大磯のアトリエの庭に咲いた桜を描いた、最晩年の大作である。
 この絵が「三岸節子記念美術館」にあるという。
 しかも、美術館は愛知県一宮市にあるという。
 一宮市の隣が、私の単身赴任宅がある稲沢市だ。それなら、ぜひ本物を見なくてはと思って名古屋へ戻り、19日の土曜の午後、三岸節子記念美術館へ行った。

三岸節子の像が立つ「三岸節子記念美術館」
 美術館は、単身赴任宅から車で20分ちょっとの距離だ。住所は、一宮市小信中島字郷南。木曽川が近く、今は一宮市だが、以前の尾西(びさい)市起(おこし)で、江戸時代は中島郡起村と言って、織物で栄えた場所だ。三岸節子も明治38年、毛織物工場を経営する吉田家に生まれた。工場は大正時代の不況で倒産してしまったが、美術館は、その生家跡に建てたという。
 桜の絵は、常設展示室にあった。横1・6メートル、縦1・3メートルの、堂々たる大作だった。
 日本の女流画家の先駆者となり、結婚生活10年で夫の三岸好太郎を失い(好太郎は31歳で急死)、絵だけで3人の子を育て……という苦難の生活は、それぞれに調べていただきたいが、平成10年3月、三岸節子は急に体調を崩して入院し、退院後、体がまともでない中で描いたのが、この絵だったという。
 遠くからは、満開の桜のあわあわとした感触があふれている。しかし近づいて見ると、ごつごつと油絵の具を塗り重ね、しかも、その絵の具を溶かした油がキャンバスを伝って垂れている。それがいく筋も、いく筋も、周囲の色を溶かしながら、画面下方の奈落のような暗黒世界へ流れ下っている。
 たぶん、それは、意図したことではないだろう。
 そういう「汚れ」など気にせず、「この色を塗りたい」、「この色を重ねたい」という思いだけが、筆を動かしたのだろう。
 これが自分の命の最後の輝きになる、という自覚があったと、私には思えてならない。
 ところで、土曜の午後に三岸節子の絵を見に行ったのは、その午前中まで、井上靖の『孔子』(新潮文庫)を読んでいたからだ。一週間かかってしまったが、ようやく読み終えて、出かける時間ができた。
 『孔子』もまた、井上靖の最晩年の大作である。
 文庫本で400ページを超えるこの長編は、井上靖が80歳で書き始めた。それは、食道癌の手術後だったという。月刊誌に2年間連載して、単行本になり、その1年後、井上靖は83歳で没した。
 孔子の没後、孔子の言行を記録し、まとめたのが『論語』だが、『論語』が現在の形になるまで300年を要した。その最初のころ、断片的に伝わっていた孔子の言葉を、儒学の後継者たちが集め、そこにどんな意味があるのかを探ろうとしたことを、架空の人物を中心に展開しているのが、この小説だ。しかし、そこには、井上靖自身が、自分の人生を重ね合わせ、孔子の言葉に独自の解釈を加えようとしている姿が、ありありと見える。
 やはり、「遺作」という思いがあったに違いない。
 69歳で他界した藤沢周平の遺作、『漆の実のみのる国』は、米沢藩の上杉鷹山を描いた小説だが、最後の章は突然に終わった感がある。連載の最終回の原稿を、奥さんが受け取って「これで、いいの?」と尋ねると、「これで、いいんだ」と藤沢周平が答えたという。
 それは、本人自身が、「これが絶筆」と自覚していたからだろう。
 三岸節子も、井上靖も、藤沢周平も、自分の仕事にきちんと区切りをつけて、逝った。
 見事な晩節である。
(2006年8月20日記)


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