んだんだ劇場2006年11月号 vol.95
No15
北奥羽の戦国時代・3

 秋田の安東愛季、三戸の南部晴政の大規模な抗争である「鹿角郡争奪戦」の後、両雄は互いに干渉することはせず自領の統治に乗り出した。南部氏にとっては家中にあって宗家をよく思わない一族の九戸政実や津軽の国人、大浦為信が動き始めていた。
 同様に安東氏の家中にも内紛が起きようとしていた。今は秋田市の一部となったが、ついこの前までは秋田県には「河辺郡(かわべぐん)」という名前が存在していた。岩見川と雄物川が出合う交通の要衝であった河辺郡を治めていたのは、豊島氏という国人領主であった。豊島氏は武蔵豊嶋氏を祖としている豪族であった。武蔵豊嶋氏については私のルーツとの接点があることから、第八回でも述べている。戦国期当時の河辺郡は現在の秋田市河辺、雄和はもちろん、上北手、下北手、仁井田、牛島、川尻を含む広大な領土であった。ちなみに上北手、下北手という名前の由来は豊島氏の居城である戸島城(現・秋田県秋田市河辺戸島)を中心として北手の方角に位置することからこのように名づけられたと「河辺郡大観」には書かれている。これほど豊島氏というの秋田における主要な国人領主であった。この頃の豊島家当主は豊島重村(入道休心)であり、かなりの謀略家であったと伝えられる。永禄年間には安東一族の豊巻季林(とよまきすえしげ)の籠る白華城(現・秋田市豊岩豊巻)を落城させ、豊巻氏の家臣、白根氏の居城、白根館(現・秋田市雄和水沢)を落とした。その勢いで河辺郡内にも戦を巻き起こして、種沢や平尾鳥の諸氏らが豊島重村によって攻略されていったのである。
 豊島氏は湊安東氏と対等に同盟を結び交易を行っていたという。更には、秋田の内陸にあった、小野寺氏や戸沢氏などの仙北地方の国人との雄物川筋交易も豊島氏が仲介を握っていた。また重村は由利十二頭の仁賀保大和守の娘を妻としており、由利郡内(現・秋田県南西部)にも顔と名が広く聞こえわたっていた。
 しかし、愛季は湊安東氏に舎弟の茂季を入れることで懐柔に成功した後に豊島氏などの国人領主との貿易を制限。内陸部の国人は秋田との交易が難しくなった。豊島氏にとっても愛季の登場は死活問題でもあった。
 この後、豊島重村を激怒させる決定的な事件が起きる。この記述は「奥羽永慶軍記」にある。奥羽の諸大名には毎年、羽黒山(現・山形県立川町)から神札が配られることが通例であった。羽黒山別当の使者、智賢坊(ちけんぼう)はこの年、戸島城を訪れて重村と面会した。重村と智賢坊は由利の仁賀保(現・秋田県にかほ市)で面識があったので意気投合。重村は交易の件での下国安東愛季の専横ぶりを智賢坊に話し、下国家への神札配布を取り消すように求めた。智賢坊は比内の浅利氏まで赴いたにも関わらず、安東家の居城、檜山城に寄らずに羽黒山に帰ってしまった。この行為は愛季の逆鱗に触れてしまった。この頃、下国家は由利郡を巡り庄内の大宝寺義氏と敵対していた。羽黒山別当職の土佐林氏は大宝寺の家臣であったため、愛季は豊島重村を大宝寺義氏の臣下とみなし、攻撃することを決意する。
 重村は愛季のこの行為についに堪忍袋の尾が切れた。交易の件で愛季を快く思っていない仙北の小野寺、戸沢の諸氏らと同盟を結び、旧湊家臣の国人、川尻中務、下刈右京らと土崎湊城を襲撃し、当主の湊安東茂季を監禁するという暴挙に出た。驚いた、愛季は軍勢を秋田に向け急行させた。豊島重村と安東愛季は推古山(現在の秋田市手形山)に陣を張り二年にも及ぶ長きに渡って対陣し続けるが、強大な愛季軍の前に河辺の一国人である豊島重村など成す術もなかった。重村は舅の仁賀保氏を頼り由利に落ち延びた。また、監禁されていた、湊安東茂季は当主としての自信を失い、豊島氏落城後の戸島城に入城した。これにより安東愛季は下国、湊の両安東を統一して、居城を湊城に移して磐石な体制を築くことになる。1570年(元亀元年)のことであった。しかしながら、実際は諸説があってこの事件の正確な年代は不明である。この事件は「湊騒動」と呼ばれている。
 世の中は天下人の座を着々とモノにした織田信長が越前の朝倉義景を近江姉川で破り、翌年には信長が比叡山を焼き討ちにするという前代未聞の弾圧に乗り出した頃であった。
 1574年(天正二年)安東愛季との関係が悪化した比内の浅利勝頼は津軽の大浦為信の後援を得て、比内の山田(現・秋田県大館市田代町山田)で安東愛季の大軍と戦う。この戦は、勝頼の叔父、浅利宜頼が戦死するなど激烈を極め、浅利方が大敗を喫することになる。翌年には安東愛季のもとに、天下人、織田信長からの親書が届いた。当時、武人のたしなみとして流行していた鷹狩のための名鷹を得るため鷹匠を派遣するという内容であった。出羽国は名鷹の産地であり、その名は全国に響いていた。愛季は鷹を献上し、その返礼に「紀新太夫」などの太刀を拝領した。これ以降、織田家と安東家の外交は続いていく。「秋田安東氏研究ノート」によると、愛季は信長の斡旋により1577年(天正五年)7月22日に従五位下に叙任し、同八年の8月13日には従五位上侍従に任ぜられたとある。「侍従(しじゅう)」とは、中務省に属する天皇に近侍した官人のことを指すそうである。
 前後して、1578年(天正六年)に津軽では政変が起きた。津軽の南部支配下の豪族、大浦為信が浪岡北畠氏の居城、浪岡城を攻撃するという事態が起きたのである。浪岡についてはNo12でも述べたし、北畠氏についても、私のルーツと南朝との関わりから、今までの記述で数多く述べた。次号では本来の「僕のルーツ・中世への旅」へと戻り、浪岡御所と先祖について再度、クローズアップしたいと思っている。

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参考文献
・『諏訪家系類項』(諏訪兄弟会)
・『秋田安東氏研究ノート』(渋谷鉄五郎著・無明舎出版)
・『郷土史事典・秋田県』(昌平社)
・『ウィキペディア』(http://ja.wikipedia.org/wiki/)


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