んだんだ劇場2006年7月号 vol.91
No11
畿内大乱

 先祖の軌跡を追って一年近く経とうとしている。しかしながら、南北朝時代や戦国時代の私のルーツを辿るにもかなりの遠征を要している東国と違い、西国の方にはなかなか行く機会に恵まれない。厳密に言うと「行く機会に恵まれない」というよりも「行く必要がない」のかもしれない。そうは言っても歴史を追う者にとって、最も重要性のある歴史ある街は、つい百数十年前まで日本のキャピタルだった西国の中心「京都」であることはいつの時代も変わりないと思う。
 生徒の身分で贅沢なことを言うようだが、実際、京の都を訪れたことのない私が西国について語っても説得力がない。また、自分自身でも、歴史的にも地理的にも文化的にも実感が湧かないのでどうも上手く己の感情を伝えることができないことをお詫びせねばならない。
 京は、古来より多くの東国に住む「東夷(あずまえびす)」が夢見た上洛。当時は、西国に上れば時代の波に乗るチャンスが多かれ少なかれ可能であったに相違ない。上洛すれば、どうにかなるさ・・・・といったところであろうか。
 しかし、今追っている時代は室町時代も後半戦、いわゆる戦国時代である。1467年(応仁元年)に勃発した「応仁の乱」は華やかな京の街を壊滅的にしたと言われている。第9回でも述べたように上方の浪人、伊勢新九郎(後の北条早雲)は京への可能性を見限って東国に落ち延びてきた。それにも関わらず、なぜ私の祖先は戦国の中心でもある西国方面に向かったのか?その心意のほどは実際分からない。ただ「諏訪家系類項」には次のようにある。

「三十一 範晴 ○麿弟 播州赤松○○ニ仕フ」
(○は私の古文知識の浅さから読めない字など。)

この記録から三十一代、範晴は播州に向かい、赤松氏に仕えたことが分かる。赤松氏は前号でも述べたように室町幕府の四職に数えられる要職の家柄であったが、1441年(嘉吉元年)に赤松満祐が「嘉吉の乱」を起こし六代将軍、足利義教を暗殺するという事件を起こした。それ以降、赤松氏は衰退を続けたが、1457年(長禄元年)に吉野に潜伏していた南朝の残党の勢力(俗に言われる「後南朝」)から神器を奪い返し幕府の信頼を取り戻したとある。この長禄の変と同時期に吉野で後南朝に仕えていた、私の先祖、二十四代、範睦はなんらかの戦で討ち死にしている。このように、赤松氏と私のルーツは予想外にも深い因縁がありそうなのである。しかし「諏訪家系類項」の家系考証資料からは範晴が播磨に向かった年代や、それに関する理由などは得ることができない。また、赤松氏と言っても大族であり、本家なのか、それ以外の国中に散らばった分家なのか特定することは、私の古文知識の浅さからできなかった。
 ただ、私はあるべきものに注目してみることにした。「範晴」という名前である。
「範」の字は「諏訪家系類項」から十五代〜三十三代まで一族を証明する名であることが読み取れる。江戸時代における徳川将軍家の「家」のようなものである。(例えば、家康とか家宣など)では、範晴の「晴」はどこから来たのであろうか。
 私の勝手な憶測に過ぎないが、室町幕府十二代将軍の足利義晴(あしかがよしはる)の名前から付けられたものではないだろうかと思う。武田晴信(後の武田信玄)や関白、近衛前久などは足利義晴から偏諱(へんき)を授与された。偏諱というのは、貴人から臣下への恩恵の付与として与えられたものであり、鎌倉〜室町時代まではよく行われた日本人の風習であるという。公家や武家(官位的に高い家柄)などは将軍から直々に名前を与えられたと言われている。特にこの時期の武将は「晴」を名乗っている武将が全国的にも多いのである。これらのほとんどは将軍、義晴から偏諱授与されたものである。私の先祖、範晴が将軍から直々に偏諱授与されたことはありえないと思うが、範晴の主家、赤松氏が室町幕府の要職にあったことから、なんらかの形で「晴」の名前がつけられたのではないだろうかと勝手な妄想に耽ってしまった。
 足利義晴とはどのような人物であったのだろうか。インターネットのフリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」によると、十一代将軍、足利義澄の嫡男で後の将軍、足利義輝、義昭の父親であり、将軍職には1521年(大永元年)から1546年(天文十五年)まで在って、管領職であった細川氏内の争いに巻き込まれ、弟の義維(堺公方)と対立。細川氏の後に実験を握った、三好元長に京を追われ近江(現・滋賀県)に落ち延びるが、三好元長と対立した石山本願寺(一向宗)や管領、細川晴元と手を結び堺公方・三好元長の勢力を畿内から退ける。その後、近江の六角氏の力を借りて帰京して、子の義輝に将軍職を譲ったとある。
 恐ろしいほどの権力抗争と権謀術数が蠢いていた、戦国時代前期にあって畿内は大乱に巻き込まれていたようである。上記の記述を読むだけでも、もう足利将軍家とは「名ばかり」の存在であり、権力によってたらい回しにされていたことがうかがえる。
 では、私の先祖が在ったと思われる播磨の情勢はどうであったのあろうか。範晴が播磨にいた年代は前に述べたように分からないが、私の勝手な妄想から凡そ将軍、義晴の在位期と仮定すると、当時の赤松氏当主は赤松晴政である。晴政の場合も将軍、義晴から偏諱授与されたもので、元の名前を政村と言った。1520年(永正十七年)に幼くして父、義村から家督を譲られた。しかし、備前守護代の浦上村宗に父を殺害され自身も拘束されてしまった。1531年(享禄四年)細川晴元と細川高国らの一族対立に乗じて細川晴元に味方して、摂津において細川高国を擁立した浦上村宗を破った。晴政は、弱体化した赤松氏を再興したかに思えるが、出雲(現・島根県東部)尼子氏の大軍侵攻や、嫡男である義祐との対立、更には周辺勢力との抗争から赤松氏の勢力は一気に衰退してしまった。
 戦国時代の常であるとはいえ、戦続きの畿内において範晴は安住の地を播磨に見出すことはできなかったに相違ない。範晴の没年や没理由も分からない。ただ一つ分かるのは世の中が取り返しのつかない漆黒の戦国時代に向けて歩んでいくことのみである・・・・

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参考文献
・『諏訪家系類項』(諏訪兄弟会)
・『ウィキペディア』(http://ja.wikipedia.org/wiki/)


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