んだんだ劇場2006年5月号 vol.89
No9
関東

 回を重ねるごとに源平の戦、更には南北朝時代の動乱期を駆け抜けた私の祖先たち(ルーツ)の軌跡を追ってきた。ルーツが分かるということは、とても幸せなことだと最近実感するようになった。
 私たち日本人のルーツはすべて「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」に辿りつくと言われている。源氏、平氏、藤原氏、橘氏・・・しかし、詳しいところまで分からないのが「家系」というものである。家の事情、戦乱、そして身分などが絡み「家系」は次々と変えられていった。実際に「諏訪家系類項」における「家系考証資料」も系図の腐敗で読み取れない部分が数多い。そんな中から、ルーツを探すというより、むしろ辿る作業は並大抵でない根気のいる作業である。私の場合「諏訪家系類項」という一冊の書物があることが影響してこの作業をパスして、ただその資料をもとに自分の意見や考えを述べている。とてつもなく幸せというか贅沢なものだ。世の中には先祖を知りたくても知る術がない人々が大勢いるというのに・・・

 さて、家系が目まぐるしく書き換えられた時代がある。それは日本史上、類を見ない戦乱の時代「戦国時代」である。厳密に言うと、戦国時代という時代区分はない。室町時代から安土・桃山時代の総称である。その時代の始まりと終わりには諸説があって、応仁の乱から戦国時代が始まったとする説や一介の素浪人、北条早雲が小田原城を落とした時から始まったとする説などがある。

小田原城本丸跡(神奈川県小田原市)
 小田原は相模国小田原(現・神奈川県小田原市)にある城だ。先日、数年ぶりに小田原城を訪れる機会に恵まれた。小田原城は幕府直轄地だったためか、藩政時代の面影を強く残している。そうした理由から、とても北条氏(後北条氏)の統治時代を物語る中世の面影を垣間見ることはできない。ただ、街は活気づいており、北条鱗(北条氏家紋)の街灯や北条氏が京より持ち込んだとされる「ういろう(外郎)」など街から中世を垣間見ることができた。「週刊ビジュアル日本の歴史・121」によると北条早雲は城下の税を減免したとある。当時の年貢は「六公四民」が当たり前だったが、早雲はそれを「四公六民」にするなどの善政を敷いたのである。これは人々の心を掴んだ。領主の横行略奪が当たり前の戦国時代、早雲の善政によって、諸国から民、商人が小田原に集結して、小田原は京を凌ぐほどの繁栄ぶりで、まさに関東一の城下町であった。

 さて、話は少し遡るが、関東の強大な権威を持つ関東管領、山内・扇谷上杉氏は1455年(康正元年)幕府の命を受けて鎌倉にあって幕府を凌ぐほどの権力を誇示していた足利成氏(鎌倉公方)を今川氏らとともに討伐した。成氏は古河(現・茨城県古河市)に落ち延びて「古河公方」を称するようになった。1457年(長禄元年)には、その勢力に対決するかのように幕府は仏門に入っていた足利義政の弟を還俗させて政知として堀越(現・静岡県伊豆の国市韮山)に入部させた。
長禄元年と言えば、前回述べたように、私の先祖「二十四代・範睦」が後南朝の勢力として長禄の変で討ち死にした年である。このことからも室町幕府というのはもう名目だけのものではなかったのではないだろうか。畿内では後南朝、関東では古河公方。世の中は動乱へと向けて歩み始めていたのである。さらに、この年に扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の家老、太田道灌(おおたどうかん)が江戸城を築く。この太田道灌という人物は文武に秀でた関東にその名が聞こえる名将であったと伝えられる。
 長禄元年から10年後の1467年(応仁元年)には将軍家の跡目相続や守護大名のお家騒動が絡んだ応仁の乱が勃発。十一年の長い間に渡って京の都は戦乱にさらされることになる。
 そんな中に翌年、将軍家に仕えていた(又は一介の素浪人)と言われている伊勢新九郎という人物が妹の嫁ぎ先、今川義忠を頼り駿河国駿府(現・静岡県静岡市)に下向した。この人物こそ、後の北条早雲である。
 1473年(文明五年)、扇谷上杉政真が古河公方成氏の軍勢と戦って戦死して、叔父の定正が扇谷上杉の頭領になった。太田道灌は家宰として、当主の戦死で混乱する扇谷上杉家をよくまとめたと言われている。
 その三年後の文明八年四月、駿河の今川義忠が領内一揆の制圧の際にその残党に殺害されるという事件が起きた。これにより今川領内は家督相続をめぐりおおいに荒れたと伝えられる。伊豆の堀越公方は扇谷上杉家に今川の内乱に対する鎮圧軍の派遣を要請した。
 この要請を受けて、道灌は扇谷上杉の家宰として駿府に赴いた。ここ駿府で幕府軍総大将、太田道灌と今川家臣、伊勢新九郎は会談を開くのである。伊勢新九郎は「家督争いは幕府に異心があるわけではない。自分が今川の内乱を収拾して和解させる。」と弁解して太田道灌を納得させたのである。このとき新九郎と道灌は同い年であった。無名の新九郎、名将として名高い道灌。歴史に名を残す二人の武将の最初で最後の出会いであった。
 そのとき、関東では道灌の留守を狙い、鉢形城(現・埼玉県寄居町)の長尾景春が主君の山内上杉顕定を攻撃した。景春は顕定が自分を差し置いて弟を長尾家当主にしたことに納得がいかなかったのである。景春は古河公方成氏を組み込んで、上杉VS古河公方の構図を作ることに成功した。この戦は俗に「長尾景春の乱」と呼ばれている。
 当初、道灌は「山内上杉家の内紛」として動向を定かにはしていなかったが、景春の乱が関東に波及すると道灌はこの戦の鎮圧に扇谷家が加わることを表明した。
 ここまで淡々と室町末期の関東の混乱を述べてきた。それには理由がある。「諏訪家系類項」に話を戻したいと思う。諏訪家系類項には次のようにある。

「三十範光 兵衛武州豊嶋泰経ニ仕え文明九年四月道灌ニ責ラレ落城討死」

驚いたことに、私の先祖、範光は太田道灌との戦によって戦死しているのである。後南朝の勢力として畿内にあった先祖が突然関東に登場したのである。二十四代・範睦の後、範光までの系図には詳細なことは描かれていないため不明である。だが「加名生太郎」や「加名生次郎」など加名生(あのう)という単語を読み取ることができる。NO5でも述べたように加名生は南朝の拠点であったことから長く畿内に住していたものと思われる。
 兵衛範光について話しを戻す。武州とは武蔵国(現・埼玉県や東京都など)のことである。豊島泰経とは武蔵の国人で石神井城主(現・東京都練馬区)である。石神井は「しゃくじい」と発音し、難解な地名である。東京都の池袋などの繁華街を抱える豊島区(としまく)があるように当時、東京都北部一帯は「豊嶋郷」と呼ばれていた。
 豊嶋泰経の妻は長尾家出身であり、先の「長尾景春の乱」では景春に与したのである。もともと豊嶋氏は独立傾向がある国人だったため扇谷上杉家から集中砲火を浴びた。「新座市役所公式ホームページ」の年表には「4月13日(文明九年)、江戸城の太田道灌は、多摩郡江古田原において、豊嶋泰経・泰明兄弟と合戦して勝利し、次いで、石神井・練馬両城を落とす」とある。年号や月からも「諏訪家系類項」と一致する。
 1477年(文明九年)に豊嶋泰経は太田道灌と江古田原で戦ったが敗北。石神井・練馬の城を落とされた。もしかしたら範光はこの戦で討ち死にしたのかもしれない。当の泰経は夜陰に乗じて姿をくらましたと伝えられているが詳細は不明である。
 余談になるが、秋田市河辺戸島に「豊島城跡」という中世の城跡がある。秋田魁新報発刊の「秋田の城」によると次のようにある。「戦国の頃武蔵国より畠山重村という武士が来て一城を築き豊島城主豊島玄蕃頭と称した」とある。さらに重村は奇襲を得意として現在の秋田市南部を平定した。更には当時の秋田県中央部を貫流した雄物川筋の交易を独占して秋田の大名、安東氏や小野寺氏と対等に渡りあったと伝えられる。もしかしたら出羽豊島氏は武蔵豊嶋氏の末裔なのかもしれない。身近なところにも先祖に関するルーツがありそうだ。

 話を関東に戻す。学研発刊の「歴史群像シリーズ・戦国北条五代」によると「道灌は関東の戦野に出撃すること三十余度におよび、その名声は主君の上杉定正をもこえた。」とある。道灌は古河公方と和議を結び、長尾景春の乱を鎮圧した。道灌の勢力に恐れを抱いたのは古河公方ではなく、なんと山内上杉顕定であった。山内上杉と扇谷上杉は一族でありながら関係はそれほどよくなかった。顕定は扇谷上杉の勢力が拡大することを恐れていた。顕定は扇谷上杉定正に道灌が反逆を企てていると偽りの流言を流すことに成功した。定正は1486年(文明十八年)自邸に道灌を招いてこれを殺害した。道灌の最後の言葉は「当家滅亡!」であったと伝えられる。忠義厚い名将の無念が伝わってくる・・・・

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参考文献
・『諏訪家系類項』(諏訪兄弟会)
・『週刊・ビジュアル日本の歴史』(デアゴスティーニ)
・『歴史群像シリーズ・真説戦国北条五代』(学研)
・『秋田の城』(秋田魁新報)
・『新座市役所公式ホームページ』(http://www.city.niiza.saitama.jp/)


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