んだんだ劇場2006年3月号 vol.87
No7
男山八幡

 私だけの考えかもしれないが、日本人は「敗者」に心を引き寄せられるところがあると思う。私もそのうちの一人であると思っている。
 「判官贔屓(ほうがんびいき)」という言葉がある。判官(ほうがん)とは源義経の官名「九郎判官」からきている。極端に言えば、弱者に肩入れするという言葉だが、日本人の特徴をよく表している言葉だと思う。「鎌倉幕府」を開府する偉業を成し遂げた源頼朝と「朝敵」「逆賊」として自害した源義経。しかしながら、現代における歴史小説やドラマを見ると、「悲劇のヒーロ」義経と「ヒーロを消した」頼朝である。また、歴史の教科書などでみる、義経の肖像画からは、とても後世の描く「義経像」とは似つかわしくない。このような「判官贔屓」が「義経北行伝説」を生み、歴史的になんの根拠もない「チンギス・ハン=源義経」という方程式を成立させたのだと思う。
 私は「歴史的根拠」という歴史学者がよく使う表現は正直いってあまり好きではない。私が知りたいのは「古い歴史」ではなく「等身大の歴史」である。今、感じる中では、義経がチンギス・ハンになるのもアリなのである。そのような伝承があるということは、1%でも、その可能性はあるということである。また、古い歴史は時の権力者によって消される。しかし、この世のすべてを手に入れた権力者であっても、万人の心をかき消すことはできないと思う。文書や歴史的資料よりも「伝説」「伝承」の方がよほど信頼できると私は考えている。義経とは違って、私の先祖に関してはまったく伝説、伝承がない。それなので、「僕のルーツ・中世への旅」では、仕方なく「歴史的資料」に基づいて時の歴史の流れを追いながら自分なりの解釈をして、ほぼ独断と偏見で執筆していることをお許しいただきたい。

 さて、1339年(暦応二年)吉野で没した後醍醐天皇の後継には義良親王が即位した。後村上天皇である。12歳の幼帝ではあったが、後醍醐が死の前日に帝位を譲ったのである。幼帝を支えた吉野の重臣は洞院実世(左衛門督)と四条隆資(中納言)であったが、実際の吉野のリーダーは関東にあった北畠親房であった。楠木正成、新田義貞、北畠顕家亡き南朝を支えるために老齢の親房は休む暇もなかったに違いない。
 1346年(正平元年)吉野に戻った親房を中心に南朝の動きがあわただしくなる。楠木正成の遺児、楠木正行(くすのきまさつら)は父親から受け継いだ戦法で、畿内の北朝の拠点を次々と落としていった。足利尊氏は細川顕氏や山名時氏6000騎をもって、楠木正行に立ち向かわせた。一方の正行は2000騎をもって、これを迎え撃った。時にして1347年(貞和三年)11月のことであった。しかし、北朝方は3倍も兵がありながら苦戦を強いられ、山名時氏の弟が戦死するなどの大損害を出し敗北した。
 しかしながら、北朝も黙ってはいない。足利尊氏はおおいに怒り、腹心の高師直をもって60000騎を南朝に差し向けた。南朝方には動揺が広がったであろう。南朝の家宰、北畠親房は正行に出撃を命じた。南朝を含め親房は正行を見捨てたのである。正行は後村上天皇に謁見することを許された。決別を奉じた正行に天皇は言葉をかけたそうだ。感極まった正行はこの戦での死を覚悟したという。
 1348年(貞和四年)北朝60000騎に対して、南朝3000騎。楠木正行は8時間あまり戦い抜き、あと一歩で高師直を討つところまでいったが、力尽いて弟の正時と刺し違えて自害した。享年23歳と伝えられている。この戦は「四条畷(しじょうなわて)の戦い」と呼ばれ壮絶な激戦であった。ちなみに四条畷は現在の大阪府四条畷市である。
 これらの戦に私の先祖が参戦した記録は「諏訪家系類項」には描かれていない。
 この後、時代は混迷を極める。四条畷の戦で功のあった、足利尊氏の腹心、高師直と尊氏の舎弟、直義の対立が激化。直義は尊氏から役職を解任され出家した。1350年(観応元年)直義は京を脱出して、大和に潜伏し、高師直の討伐を掲げた。この事件を「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」という。擾乱(じょうらん)とは秩序の悪化を指す言葉であり、戦いというよりは騒動に近い意味だそうだ。
 世の中は足利尊氏・高師直の北朝。北畠親房の南朝。足利直義の勢力と三分に分かれた。これで「南北朝時代」とは道理にそぐわないが、歴史における時代は「室町時代」と区分される。
 観応の擾乱を北朝(室町幕府)の分裂、もしくは内乱と捉えるかは個人個人によって違うと思うが、足利直義は一つの勢力として、南朝と講和を結んだことは事実である。南朝にとっては奇跡というべき「チャンス」が巡ってきたのである。しかし、南朝がこれをチャンスに活かすことはできなかった。
 1351年(観応二年)足利直義と尊氏の家宰、高師直は摂津において決戦をした。師直軍はた直義軍の猛攻撃に戦意喪失。思わぬ敗北に尊氏は直義に和睦を促す。しかし、師直は逃走の途中に直義軍によって惨殺された。あれだけの栄華を誇った高師直の最後は哀れなものである。前項に日本人は「敗者」に心を引き寄せると記したが、高師直はこれにあてはまるタイプではない。師直は「太平記」の世界においても、現代においても「奸臣(腹黒い主君にたくらみを抱く家臣)」として描かれている。しかし、違った見方をすれば師直も「悲劇のヒーロ」ではないのかと思ったりもするが、そこの批評は避けたい。
 これにより、直義は尊氏に許されて、幕閣の中枢に戻されたが、尊氏の息子、義詮(よしあきら)と対立して、自らは北陸に退いた。天下三分は再び形成された。
 南朝はこの幕府と直義の戦をどのように見ていたのだろうか。北畠親房はこの兄弟対決への加勢を避け、吉野で静観していた。この状況を悟った、足利尊氏は南朝との和議を進めていた。室町幕府は南朝に降り、足利直義の討伐命令を下した。尊氏軍は関東において北陸から出陣した直義軍を破った。1352年(文和元年)直義は尊氏と和睦。両人は鎌倉で謁見した。和睦をした兄弟であったが、もはや両者の溝が埋まることはなかった。謁見の直後、直義は突如、急死する。尊氏の毒殺とも言われているが、真相は闇の中である。

 直義が死去した直後、南朝は突然、足利尊氏との講和を放棄。関東の直義攻めの隙をついて、からっぽの京に進軍を開始した。南朝軍の主力は、7000騎を率いた楠木正儀(くすのきまさのり)であった。また南朝の重臣、北畠顕能(伊勢守)は3000騎を率いて鳥羽を出発した。
 久々に北畠顕能の名前が登場した。私の先祖、範稚(左馬頭)が顕能に仕えていたことは前回でも触れた。しかし詳細なことは「諏訪家系類項(家系考証資料)」の腐敗が激しくよく読み取れなかったが、「戦死」という文字だけは読み取ることができた。没年が不明なことからどのような戦かは分からないが、南北朝の対立に巻き込まれ命を落としたことは事実である。
 京都を預かっていた、北朝の総大将は尊氏の息子の義詮であった。南朝が盟約に反したことを知るとほうほうのていで近江へ落ちた。後村上天皇は吉野を発ち、山城の男山八幡(現在の石清水八幡宮)に入った。北畠親房は入洛。十七年ぶりに京に入った。南朝は北朝の天皇、公卿を捕らえて加名生に移した。南朝の京都体制も万全かと思われた。
 しかし、1352年(正平七年)三月、30000騎をもった足利の軍勢が京に乱入。南朝は再度、京を追われた。京を追われた南朝軍は男山八幡に集結した。新人物往来社刊で安藤英男著の「南北朝の動乱」によると、足利勢は50日にわたって男山を攻め立てた。南朝軍は戦力を失って、五月十一日の夜半に突出を図った。が、北朝の追撃はすこぶる急で、四条隆資(大納言)、一条内嗣(大納言)、三条雅賢(中納言)ら南朝の公卿が討ち取られたとある。
 ここで「諏訪家系類項」の「家系考証資料」にはこのような興味深い記述がある。

「十八 範英 右京亮 舎弟 権大納言隆資に従・・・・正平七年五月男山ニテ討死」
(・・・・・は腐敗や、私の古文知識の浅さから読めない単語である。)

 この記述では、私の先祖と思われる、範英という人物が権大納言隆資に属して正平七年五月に男山八幡にて討ち死にしているということである。権大納言隆資とはむろん、四条隆資(しじょうたかすけ)のことであろう。「南北朝の動乱」によると、隆資は「大納言」となっているが、「諏訪家系類項」の「権大納言」とさほど大差はないと思う。正平七年五月にも戦が続けられていたことは通史の方と比較してみてもまず間違いないと思う。ただ一つ分からないことは「舎弟」である。いったい誰の舎弟なのだろうか。
 同年五月十一日、四条隆資をはじめとする公卿はもはや、北朝を防ぐことはできないと悟り、後村上天皇を吉野に逃す突破口を開いたのであろう。自らが殿となり、捨て駒となることを覚悟した、男山最後の夜。祖先、範英はいったい何を考えていたのだろうか。多少、大げさかもしれないが、範英は四条の配下という立場ではなく南朝を救うために決起したのではないかと私は思う。これは範英の精一杯の意地ではなかったのだろうか。
 私が、この男山の戦を知ったのはつい最近である。正直、歴史を学ぶ者にとっては恥ずかしいことだと思う。自分の先祖が、討ち死にした戦。年号だけでなく、月も分かる。
 この事実を知ったとき、正平七年五月と男山の殺陣を想像するだけで、涙を流してしまった。理由はないが、涙を流さずには、いられないのである。私にとって、どんなに歴史が動いた大事件や戦よりも「正平七年五月・男山」は等身大の歴史上、重大な事柄である。ひしひしと私自身が体で歴史を感じている。
 通史では、後村上天皇は吉野に逃れ、男山の戦いでは公卿数名が討ち死にした小さな事でしかない。それが二つの「歴史」の違いである。
 南北朝の動乱とともに、先祖も混乱の渦の中に巻かれていった。この表現がこの時代には適切かもしれない・・・・・。

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参考文献
・『諏訪家系類項』(諏訪兄弟会編)
・『日本の歴史9・南北朝の動乱』(中央公論社)
・『南北朝の動乱』(安藤英男著・新人物往来社刊)
・『週刊 ビジュアル日本の歴史』(デアゴスティーニ)
・『羽顕誌』(http://www.geocities.jp/kitadewa/suwa.htm)


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