んだんだ劇場2006年5月号 vol.89
No24
初代中央気象台長(中)

十六橋を奪った川村純義
 慶応四年(1868)八月二十一日に、激闘の末、母成(ぼなり)峠の会津軍防衛陣地を突破した新政府征討軍は、二十二日に会津若松へ進軍を開始した。その先頭に立ったのは、川村純義(すみよし)率いる「薩摩四番隊」(百二十人程度)だった。
 川村隊が猪苗代城に到着したのは、午後二時(正午という説もある)ごろだった。江戸時代、幕府は「一国一城」を命じて、各藩領内の多くの城を破却させたが、猪苗代城は例外として残っていた戦国以来の城である。この城の北側、磐梯山の山すそに、会津松平家の祖、保科正之(ほしな・まさゆき)を祀り、そして墓所でもある土津(はにつ)神社があるためだろうか。しかし母成峠から戻った城代高橋権太夫は、自ら城に火を放って会津若松へ退いた。
 猪苗代城が無人なのを確かめた川村純義は、休憩もとらずに猪苗代湖の北岸を進軍した。若松城下防衛のための関門とも言うべき「十六橋」(じゅうろっきょう)に、川村隊が到達したのは、午後四時ごろだったという。
 現在、猪苗代湖の水は、安積疎水を通して東の郡山市周辺に供給されているが、当時は、湖の北西の一端から会津盆地へ流れ下る日橋川しか、流出路がなかった。ここに架かるのが、十六基の橋脚を持つ「十六橋」である。日橋川は非常に水量が豊富で、そのために橋脚は石を積み上げ、桁と橋板は木製だったと思うが(これを確認できる史料がない)、とにかく頑丈な橋だった。
 この橋を通らなければ、征討軍は大きく迂回するしかない。そう考えたのは会津藩も同じで、橋を破壊しようとした。が、会津軍の破壊部隊が現場に到着してまもなく、征討軍川村隊が姿を現した。それは、橋板を一、二枚はがしたところだったという。たぶん、そのころには雨が降っていたはずだが、雨は関係ない新式銃を持つ川村隊は、橋にとりついていた会津軍に発砲した。戦闘部隊ではない会津軍は、驚いて逃げ去ったという。「十六橋」を征討軍に奪われたことが、会津藩にとっては致命傷となった。
 ところで、猪苗代城に達した時、川村は後方の本部に、その後の指示を仰ぐべきだったかもしれない。軍隊の指揮命令系統は、本来、そうなっている。しかし川村は、独断で先行した。猪苗代城に防御陣がないからには、次の防御陣と予想される「十六橋」確保を目指すべきだと判断したのである。戦場では、こういう臨機応変の判断が指揮者に求められる。それができた川村純義は、後に海軍大将、そして海軍卿に昇りつめる。
 川村が海軍に進んだのは、彼もまた、長崎の海軍伝習所で学んだ一人だったからだ。薩摩藩の伝習所生徒には、明治の大坂経済界の基礎をつくった五代友厚もいた。

長崎海軍伝習所から幕府操練所へ
 薩摩藩の川村純義と五代友厚は、安政四年(1857)一月から授業が始まった幕府伝習第二期生と机を並べた。
 佐賀藩の伝習生はそれより早く、一期生と同時に伝習所に入学し、ほとんどが二期まで残って勉強した。「一期」は十六か月の学習期間だったから、自分たちだけで蒸気船を自在に操船するには、それでは足りないという判断があったのだろう。佐賀藩の伝習生は、粒がそろっていたと言われる。
 だが、その一人、後に海軍大学校長、初代軍令部長となる中牟田(なかむた)倉之助が、「とてもかなわない」と驚嘆した生徒がいた。幕府伝習生の小野友五郎という人だ。
 小野は徳川直参ではなく、笠間(茨城県笠間市)藩士だった。いきさつは調べていないが、小野は幕府天文方に召しだされて、オランダの航海術書を翻訳するほどの素養があった。長崎へは、航海測量を学ぶよう命じられてやって来た。すでに四十歳を超えていて、他の伝習生とはかなりの歳の開きがあった。
 さらに小野は、教室での講義のほかに、オランダ人教師の宿舎を訪ねて高等数学の微積分や力学まで教わった。だから、同じ教室にいた中牟田倉之助が難問に悪戦苦闘している時に、小野は、通訳が出題を伝えるとすぐさま回答を書いていたという。
 ただし、小野友五郎は傑出した存在で、佐賀藩に比べると、幕府伝習生は玉石混交だったと言われている。それなのに、伝習所総督の永井尚志(なおむね)は安政四年三月、幕府一期生に観光丸を操船させて、江戸に帰った。日本人だけによる、初めての蒸気船の外洋航海で、オランダ人教師たちは反対したが、無事に太平洋を乗り切った。艦長は、矢田堀景蔵である。同じ艦長候補の勝海舟は、結局、三期生とも起居を共にし、海軍伝習所閉鎖のぎりぎりまで長崎にいることになるから、もしかしたら、幕府伝習生の中で最も成績の悪かったのは、勝海舟かもしれない。
 永井総督が伝習生を連れて江戸へ戻ったのは、江戸に海軍の学校をつくるためだった。海軍伝習所の創設をオランダ人に勧められ、オランダ人が教師となるなら、昔からオランダとの貿易の窓口だった長崎……という単純な論理で長崎に伝習所を開設したのだが、実際問題として江戸から長崎は遠すぎた。何につけても時間と労力がかかった。それで、江戸に学校をつくり、長崎で学んだ伝習生を教師にしようということになったのである。
 そのころ、東京・築地の勝鬨橋(かちどきばし)のたもとに、旗本らに武芸や砲術などの軍事訓練などを行うための「講武所」ができていた。その敷地に安政四年四月、「軍艦教授所」が開設され、七月には「軍艦操練所」と改称した。教授方頭取は、矢田堀景蔵だった。
 矢田堀は自宅で、数学の塾も開いた。矢田堀の兄の子、つまり甥で荒井郁之助という青年がいて、この塾で数学を学び始めた。その関係で、荒井は軍艦操練所にも出入りするようになった。操練所で知り合った甲賀源吾も、矢田堀の私塾に通うようになり、荒井と甲賀は微積分まで研究したという。荒井郁之助がどこで英語を学んだのかわからないが、『人物叢書 荒井郁之助』(吉川弘文館)の著者、原田朗氏は、甲賀源吾の伝記にこのころ甲賀が英語を勉強したと書いていることから、荒井の英語学習も同時期と推測している。
 こうした勉学のおかげで、荒井郁之助は翌安政五年、軍艦操練所の教授に登用された。長崎の伝習所と並行して、江戸でも新知識人が育ち始めたと言える。

咸臨丸と朝陽丸
 安政四年三月に観光丸が江戸へ去って、長崎の海軍伝習所には練習船がなくなった。そのころは幕府第二期生のほかに、佐賀、薩摩、福岡、長州、熊本、福山(広島県福山市)、津などの諸藩からも伝習生がやって来ていた。彼らに、待望の練習船が登場したのは、八月五日だった。幕府がオランダに注文していた「ヤーパン号」が、長崎に到着したのである。これが咸臨丸だ。
 咸臨丸の姿については長い間、謎とされていた。だが、昭和四十四年、オランダのロッテルダムにある海事博物館で九枚の設計図が発見されたほか、日本でも長崎奉行所の史料が見つかって、六二五トンのスクリュー式蒸気船だったことがわかった。しかし三本のマストもあって、外洋を航海する時は帆船として使用されていた。当時の蒸気船は、帆走併用が当たり前だった。
 実は幕府は、オランダへ、もう一隻の蒸気船を注文していた。それは「エド号」と言い、翌安政五年九月三日に長崎に到着して、朝陽(ちょうよう)丸と命名された。この船は、咸臨丸と全く同じ姿の船だった。
 さらに一か月ほど後の十月五日には、佐賀藩が注文した「ナガサキ号」が到着した。佐賀藩ではこの船に「電流丸」という名をつけた。実は、これも咸臨丸と同形である。
 つまり、咸臨丸は「三つ子」の一隻だったのである。
 咸臨丸が到着して、伝習生たちは外洋航海訓練ができるようになった。安政五年三月には九州を一周、五月には鹿児島を訪問し、どちらも薩摩藩主島津斉彬の歓迎を受けた。
 同じ五月には、幕府が新たにイギリスから購入した三四〇トンの帆船「鵬翔丸」で、榎本武揚、中島三郎助、春山弁蔵らと幕府第二期生、一期残留組が江戸へ戻った。
 十月に、咸臨丸、朝陽丸の合同訓練で、平戸、福岡まで航海した。この時、朝陽丸には、後に榎本軍の軍艦「蟠龍」(ばんりゅう)艦長となる松岡磐吉(いわきち)、榎本武揚とともにオランダに留学して、榎本の片腕として箱館戦争に参加した沢太郎左衛門、海軍中将にまでなる赤松則良(のりよし)らが乗り組んでいた。
 十一月になると、勝海舟が乗り組んだ朝陽丸と、佐賀藩の電流丸が長崎港から外海へ出て、蒸気機関の運用、船の操作などの合同訓練が行われた。たぶんこの時は、電流丸は佐賀藩の伝習生が主体になっただろうが、ここまでの操船実習では、諸藩からの生徒もそれぞれの船に乗って新知識の体得に汗を流したことだろう。戊辰戦争では敵味方に分かれることになった彼らも、長崎では「同じ釜の飯を食う」仲間だったのだ。
 しかし安政六年正月、勝海舟は朝陽丸で江戸へ戻り、四月には幕府伝習生全員が長崎を離れ、長崎海軍伝習所は三年半ほどの歴史を閉じた。以後、幕府海軍は江戸の軍艦操練所を母体として整備されて行く。

幕府海軍の増強
 海軍の整備に熱心だった幕府は、次々に艦船を入手した。その主なものを抜き出してみた(●印は、榎本軍で使用された船)。

●《蟠龍》 安政五年七月、イギリスのヴィクトリア女王が幕府に贈呈。もともとは英国王室用の武装ヨットで、スクリュー式の蒸気機関併用。三七〇トン
 《千秋丸》 文久元年(1861)七月、横浜で購入した米国製木造帆船。二六三トン。
 《順動丸》 文久二年十月、横浜で購入した英国製外輪式蒸気船。船体を鉄で覆っていたので、当時は「鉄船」と呼ばれた。四〇五トン。
●《長崎丸》 文久三年十月、長崎で購入した英国製スクリュー式蒸気船。三四一トン。
  《翔鶴丸》 文久三年十二月、横浜で購入した米国製蒸気船。概観は外輪式だが、スクリューも備えていたという変わった設計の船。三五〇トン。
●《神速丸》 元治元年(1864)二月、箱館で購入した米国製スクリュー式蒸気船。二五〇トン。
●《大江丸》 元治元年八月、横浜で購入した米国製スクリュー式蒸気船。一六〇トン。
 《富士山》(ふじやま) 慶応元年(1865)二月、横浜に到着。アメリカに注文して建造したスクリュー式蒸気船。一〇〇〇トン。
●《美嘉保丸》 慶応元年六月、長崎で購入したプロシャ製木造帆船。八〇〇トン。
●《千代田形》 慶応二年五月、江戸の石川島造船所で完成した初の国産小型蒸気砲艦。船体の基本設計は小野友五郎、構造設計は春山弁蔵というように、設計はすべて長崎海軍伝習所出身者が担当した。一三八トン
●《回天》 慶応二年六月、アメリカ商人から購入した外輪式の中古蒸気船。元々はプロシャ軍艦で、その後イギリスで軍艦として使われていた。一二八〇トン
●《長鯨丸》 慶応二年八月、横浜で購入した英国製外輪式蒸気船。九九六トン。
●《鳳凰丸》 安政元年に浦賀で建造し、慶応二年、江戸の石川島で改造した木造帆船。一三〇トン
●《開陽》 慶応二年、幕府が代金四十万両(今なら三百二十億円)で注文し、オランダで新造した帆走併用の蒸気艦。二八〇〇トン(二五九〇トンとの記録もある)。速力十二ノット、砲二十六門を備えた当時最大の軍艦。慶応三年五月、榎本武揚、沢太郎左衛門ら留学生を乗せて横浜に到着した。
 
 このうち、注文して建造したのは、既に紹介した咸臨丸、朝陽丸のほかには富士山、開陽の二隻、国内で建造したのは千代田形、鳳凰丸の二隻で、その他は横浜、長崎、箱館に寄港した外国船を購入した。

将軍の御座船
 安政七年(三月十八日に万延と改元)に太平洋を越えてアメリカへ渡った咸臨丸に、アメリカ海軍の人たちが乗り組んでいたことは、「次郎長と愚庵」で触れた。日本人だけでは荒海を乗り切ることはできなかっただろう、ということも紹介した。しかし、小野友五郎だけは、アメリカ人にも一目置かれた。
 太平洋上では毎日、船がどこにいるのかを測量したが、ある時、小野とアメリカ人の数値が違った。計算しなおしてみると、小野の方が正しかったのである。
 文久元年(1861)、軍艦操練所教授となっていた荒井郁之助は、小野友五郎の指揮下に入り、東京湾沿岸の水路測量に携わった。もちろん、すでに伊能忠敬の沿岸地図はできていたが、それだけでは、船の安全な航行には不十分だったからだ。岩礁の位置や、ある程度の水深まで計測した水路図ができた。
 同年秋、咸臨丸が小笠原諸島探検にでかけたことも、以前に書いたが、この時、荒井郁之助は、輸送船千秋丸で、小笠原へ八丈島の島民を移住させるための食糧と資材運搬を命じられた。しかし千秋丸は暴風雨のために紀伊半島まで流され、江戸に戻ったのは翌年四月という苦労を味わった。千秋丸には、甲賀源吾も乗り組んでいた。
 その文久二年九月、勝海舟が海軍奉行に昇進したあとを受けて、荒井は軍艦操練所頭取となり、十月には、将軍御座船「順動丸」の船将となった。荒井は、順動丸で何度も江戸と大坂間を往復した。
 翌文久三年三月、大阪湾に停泊中の順動丸を、公家の姉小路公知(あねがこうじ・きんとも)が視察に訪れ、湾内を一周した。姉小路は、攘夷派の公家の中でも、最も先鋭的と言われていた人物だ。そういう人に西欧の機械文明を見せてやろうと、勝海舟が案内して来たのである。それで姉小路は、ころりと開国派になってしまった。あまりにも世間を知らない公家には、風がなくても自在に走る順動丸は大変な驚異だったのだろう。
 だが姉小路は二か月後の五月二十日深夜、御所を出て帰宅途中に斬殺された。尊皇攘夷派の連中からは、姉小路は「変節漢」と見られたからだ。犯人として疑われた薩摩の田中新兵衛は、京都町奉行所で一切弁明しないまま、自刃した。真犯人はわかっていない。
 余談だが、昭和四十四年に公開された、五社英雄監督の映画『人斬り』で、作家の三島由紀夫がこの役を演じた。そして翌年、三島は本当に割腹自殺してしまった。
 もう一つ余談だが、姉小路が襲われた時、太刀は従者が持っていた。姉小路は「太刀を」と叫んだが、恐ろしくなった従者は太刀を持ったまま逃げてしまった。この従者は、名を金輪某といった。同姓だが、明治二年に大村益次郎を暗殺した金輪五郎とは別人である。秋田藩を脱藩して、当時は京にいた金輪五郎がその話を聞いて、「おれは、そんな腰抜けではない」と憤慨したと伝えられている。
 さて、将軍の御座船はまもなく、翔鶴丸に変更された。荒井郁之助は、やはり船将として翔鶴丸を操船し、十四代将軍徳川家茂を上洛させるなど走り回った。
 鳥羽・伏見の戦いのあとの慶応四年一月二十三日、幕府は職制を改正し、勝海舟は陸軍総裁、矢田堀景蔵が海軍総裁、榎本武揚が副総裁、そして荒井郁之助は海軍奉行になった。

開陽の遭難
 台風で美嘉保丸、咸臨丸を失ったものの、榎本艦隊は松島湾(宮城県)に到着し、旧幕府軍や、列藩同盟諸藩の抗戦派藩士を収容した。六隻では輸送力が足りないので、以前に幕府が仙台藩に貸与していた大江丸、鳳凰丸の二隻を返還させて、艦隊に加えた。そして宮城県石巻市の折浜に集結、明治元年(慶応四年九月八日に改元)十月十二日、北の海へ向けて出航した。
 十月二十日に、北海道渡島半島の東岸、森町の鷲ノ木海岸に上陸した榎本軍は、すぐさま箱館へ向かって進軍を開始した。二十六日には箱館・五稜郭を無血占領し、十一月五日には土方歳三の攻撃部隊が松前城を陥落させ、同十五日に江差を占領して松前藩を完全に追い出した。
 と、ここまでは予定通りだったのだが……十五日夕方から、江差では猛烈な北西風が吹き始めた。西暦では十二月二十八日にあたる。真冬の季節風が激しい時期で、このため、江戸時代の帆船は航行できなかった季節である。
 江差攻撃に際して、榎本武揚は自ら開陽に乗船して、攻撃支援にでかけた。ところが十五日の朝、江差に到着してみると松前藩兵の姿はなく、榎本ら幹部は江差に上陸した。強風が吹き始めたころ、開陽には少数しかおらず、夜十時ごろ、ますます強くなった風のために開陽は岸に打ち寄せられ、動けなくなった。そして十日ほどのうちに次第に船体は破壊され、海に消えた。
 そればかりか、開陽を救助しようとした神速丸までが機関故障を起こして座礁し、沈没した。
 これに対して新政府は、翌年二月、「甲鉄」という新鋭艦を入手した。もともとは幕府がアメリカに注文して建造した船だ。排水量は一三五八トンで、開陽より小さいが、全体を厚い鉄で覆い、大口径の大砲や、一分間に百八十発を連射するガトリング機関砲を備えた強力艦だった。戊辰戦争の勃発で、局外中立を表明したアメリカが、旧幕府への引き渡しを拒否し、新政府が交渉を重ねた末に入手したのである。
 開陽を失った榎本軍は、その対策に悩むことになった。


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