んだんだ劇場2006年4月号 vol.88
No23
初代中央気象台長(上)

雨の中を敗走した白虎隊
 会津若松市・飯盛山の白虎隊墓所への階段を登って行くと、ほぼ中間の左手に、「白虎隊記念館」がある。会津若松市出身で、戦前は東京で弁護士をしていた早川喜代次氏が、戦後、故郷へ戻り、独力で創設した博物館(財団法人)である。展示されている三千点余の資料のうち、主要なものは『写真でみる会津戦争』(早川喜代次・宮崎長八、新人物往来社)に写真で収録されていて、「会津の戊辰戦争」の跡をたどるには非常に役立った。
 さて、階段から記念館への道のわきに、犬がじゃれつく白虎隊士の像が立っている。飯盛山で自刃した十九人と一緒に出陣したが、生還し、その後は鶴ヶ城の籠城戦を戦い抜いた酒井峰治という人の像である。
 酒井は明治三十八年、北海道へ移住し、昭和七年、八十一歳で没したのだが、世間的には「無名の人」だった。酒井が注目されたのは没後六十年以上も経った、平成五年になってからのことだ。それまで、彼が白虎隊士であることも、周囲には知られていなかった。
 会津藩(松平氏、戊辰戦争時二十八万石)は、慶応四年(1868)三月、戦争の勃発に備えて軍制を大改革した。その一つが年齢別による部隊編成で、正規の兵役年齢である十八歳に満たない十七歳、十六歳の少年たちを組織したのが白虎隊だ。さらに身分によって、上級藩士の子弟による士中隊、中・下級藩士の子弟で編成した寄合組隊、それに足軽隊に分けられた。白虎隊は大人の将校(二十二人)も含めると、三百四十三人いた。
 今、白虎隊は飯盛山とともに、「戊辰戦争の悲劇」の代名詞のようになっているが、白虎隊には、越後戦線や籠城戦で戦死した少年もいて、墓所には三十一人の隊士の墓標が並んでいる。逆に言うと、九割以上の二百九十人は、次の時代を生きたのである。この中には、東大などの総長を務めた山川健次郎、スペイン公使となった赤羽四郎など逸材も多い。
 しかし、酒井峰治は北海道旭川市で精米業を営みながら、ひっそりと暮らしていた。
 酒井が世に知られたのは、仏壇の中から、酒井が明治時代に書き記した『戊辰戦争実歴談』が発見されたからだ。城下を出発して生還するまでの手記である。それが平成五年に公開された。そして平成八年夏、この手記をもとにしたNHKの歴史番組「堂々日本史」で、「白虎隊・生死を分けた二日間」が放送された。私もそれで、酒井峰治を知った。
 ここから少し、余談になる。
 この放送は、現在のレギュラー番組「その時歴史が動いた」の中にあったと、私は思い込んでいた。調べてみると、確かに、同じような内容の放送があった。それは平成十五年十月二十九日の、「白虎隊 自刃への三十六時間〜生存隊士の手記が語る悲劇の真相〜」だった。しかし、私が『戊辰戦争とうほく紀行』(無明舎出版)の取材で飯盛山を訪ねたのは、平成十年である。その時には、すでに酒井峰治の像があった。それで、私が見た番組は、もっと前のものだと気づいた。
 NHKには、名物アナウンサーの鈴木健二さんが司会をしていた「歴史への招待」という長寿番組があった。この番組は、放送後、テーマ別に中身をまとめた本が出て、私も何冊か持っている。が、酒井峰治は、この番組ではなかった。その後、平成六年四月から八年三月まで「ライバル日本史」という番組があり、その後継番組として「堂々日本史」が放送されていたと、やっとわかった。つまり、「その時歴史が動いた」の「酒井峰治」は、二番煎じだったのである。
 ついでに言うと、私は「その時歴史が動いた」を、あまり熱心には見ていない。ご覧になった方は気づいていると思うが、「その時まで、あと二日」、「あと一日」、「あと六時間」という、まるでロケット発射の秒読みのような進行が、好きになれないのだ。
 「歴史」は過去のことだから、現時点では「結果」がわかっている。結果の方に視点を据えて、そこに迫って行くという「ドラマ仕立て」は、手法としてはあるが、私はそれでもなお、「結果がわからない状態に自分を置いて、歴史を見つめ直したい」と思っている。「その時点で、その人が何を考えていたのか」は、あえて結果を無視して推論しなければ、より深い部分には到達できないのではないかと考えるからだ。結果がわかっていれば、何でも言えるのである。それは、ある意味で「小ざかしい」ことではなかろうか。
 その点、「堂々日本史」の再現ドラマは、このあと少年はどうなるんだろう、という興味で見続けることができた。だから、今でも、いくつかの場面を鮮明に覚えているのだろう。「その時歴史が動いた」の方も、見ているはずなのだが、印象が薄い。
 本題に戻る……
 新政府の会津征討軍が、母成(ぼなり)峠(郡山市と猪苗代町の境)に来襲したのは、慶応四年八月二十一日である。今は観光有料道路「母成グリーンライン」が通るこの山道に、会津軍は三段の陣地を構えていたが、七時間に及ぶ激闘の末に敗走した。
 その知らせが会津若松にもたらされたのは、翌二十二日の朝だった。会津軍の主力は遠方に出払っていて、城下には少数の兵力しかなかった。本来は予備隊である白虎士中二番隊の四十二人が出撃したのは、正午ごろだった。酒井峰治も、この中にいた。
 飯盛山のふもとにある「旧滝沢本陣」から、滝沢峠を経て、東方の猪苗代湖方面へ出る道がある。今は、「新奥の細道・東北自然歩道」として整備されている細道である。この道筋を注意深くたどってみると、「戦死十八人墓」、「戦死十一人墓」、「戊辰役殉難会津藩二十二士之墓」など、数多くの墓標を見つけることができる。会津藩士が屍(かばね)をさらし、誰とも判別されぬままに、人数だけが記録された墓である。彼らは、この道が平野部に出て二キロほど先の戸ノ口原(旧河東町=現会津若松市)の戦いに敗れ、城下へ戻ろうとする途中で命を落とした人々なのだろう。
 磐梯山の山容が美しい戸ノ口原は、広大な畑が広がっている平坦地だ。農道が交差する原野の真っ只中のような場所に、「九十八士供養塔」と刻まれた大きな石碑、それに「白虎隊奮戦の地」という看板があって、周囲には小さな墓石が点在している。
 酒井峰治の『戊辰戦争実歴談』によると、白虎隊士中二番隊が陣を敷いたのは、ここからは少し西の方らしい。
 二十二日は、昼ごろから雨が降り始め、夕刻には豪雨となった。少年たちは雨と寒さに耐え、空腹をこらえて夜を過ごした。夜半になって、隊長の日向内記は「食べ物を調達して来る」と言い置いてその場を離れ、そのまま戻らなかったという。
 余談を挟むが……現地で少年たちと再会できなかった日向隊長は、その後、籠城して戦った。さらに余談だが、関東学院大学の創立者、坂田祐(たすく)は、日向内記の孫にあたる。
 さて、戸ノ口原では……夜が明けても、風雨は強くなるばかりで、旧式銃は使用不能になり、さらに圧倒的に数の違う征討軍の攻撃を受けて、少年たちも城を目指して後退した。その途中で、酒井は仲間とはぐれ、山中をさまようことになった。途方にくれた酒井が自刃も考えた時に、偶然、飼い犬の「クマ」に出会ったというエピソードが、白虎隊記念館への道に建てられた銅像の姿だ。
 「声をあげてその名を呼べば、とどまりて余の面を仰ぎみるや、疾駆して来たりて飛びつき、歓喜にたえざるの状あり。余もまた帳然として涙なきにあたわず」
と、酒井は書き記している。この偶然が、酒井を死の縁から引き戻した。
 これに対して、飯盛山に登った少年たちは、城下が煙で覆われているのを遠望し、すでに落城したと思い込んで、自決の道を選んだ。
 「生死の分かれ目」というのが、酒井の手記を素材にした、NHKの歴史番組の眼目だった。私も、「堂々日本史」を見ていて、それを強く感じた。
 もう一つ、強く印象に残ったのは、雨の一夜である。番組では、本当に猛烈な雨をスタジオの中に降らせていた。
 戊辰戦争は、たまたまアメリカの南北戦争(1861〜65)の直後に起きた。南北戦争は、銃器の技術革新が飛躍的に進んだ戦争でもあって、アメリカの武器商人たちは、南北戦争後、不要となった中古銃を大量に日本へ売り込んだ。箱館戦争時の津軽藩(津軽氏、十万石)の記録では、付属品も含めた洋式小銃は一丁十両(今なら六十〜八十万円)もした。高価だったが、火縄銃しか知らなかった日本人は、戊辰戦争に際して「三十種類にも及ぶ」(『戊辰役戦史』大山柏、時事通信社)というさまざまな銃を買い込んだ。
 鳥羽・伏見の戦いで、薩長を中心とした倒幕軍の銃火の前になすすべがなかった会津藩も、ようやく新式銃の必要性を痛感し、新潟港を通して買い付けに走ったが、十分な量は確保できなかった。会津軍が白兵戦では強かったが、撃ち合いに弱かったのは、銃の質と量の差だった。
 そういう経緯を踏まえて、戸ノ口原の戦いを振り返れば、この日が暴風雨になったことは、会津軍には大きな不幸だった。
 と、そんなことを考えながら、NHKの放送を見ていたのだが……あれは台風だったのだ、と気づいたのは、平成十六年三月に上梓した『箱館戦争』(無明舎出版)の原稿を書いている時だった。

美嘉保丸の遭難
 慶応四年一月の「鳥羽・伏見の戦い」に始まる戊辰戦争初期、海軍力は、艦船の量、質、訓練された乗員の数、どれを取っても旧幕府軍の方が圧倒的に優位に立っていた。それは幕府がいちはやく、海軍を創設したからだった。
 幕府が、長崎に「海軍伝習所」を設立したのは、安政二年(1855)のことだ。その前年の嘉永七年(十一月二十七日に安政と改元)、オランダから特使として派遣された軍艦「スンビン号」の艦長、ファビウスが、幕府に海軍の創設を献言したのがきっかけだった。しかも安政二年、排水量四百トンの外輪式蒸気船「スンビン号」は、幕府に献上された。艦名を「観光丸」と変えたこの船は、以後、伝習所の練習船として多くの日本人に、西洋式の操船方法を伝授することになった。
 開明的な人物として知られていた佐賀藩主、鍋島直正(閑叟)は嘉永七年、ひそかに長崎を訪れてスンビン号を視察し、蒸気船の魅力にとりつかれた。オランダに蒸気船を一隻注文するとともに、家臣を幕府の海軍伝習所に入学させて、自前の海軍を作ろうとしたほどだ。さらには近代製鉄技術を研究させて、大砲まで作った。
 自前の海軍を持った藩には、もう一つ、薩摩藩がある。
 西郷隆盛が敬愛した藩主、島津斉彬(なりあきら)が西洋文明の吸収に強い熱意を持っていたことは、この余話でも触れた(「伏見の寺田屋」参照)。その一つに、西洋型帆船の建造がある。しかも、それは、嘉永六年(1853)六月にペリーの黒船が来航するより前に起工されていた。
 黒船に驚いた幕府も、ペリーが帰るとすぐ、嘉永六年九月に起工し、翌年五月に、推定排水量五五〇トン、二本マストの帆船「鳳凰丸」を造った。和船の建造技術を多用しながらも、日本人だけで造った最初の洋式帆船である。
 薩摩藩の「昌平丸」は、それから半年遅れで竣工した。排水量は不明だが、オランダの造船書だけをたよりに、試行錯誤を重ねて完成させた三本マストの船だ。
 薩摩藩もいちはやく、幕府の海軍伝習所に藩士を送り込んで、人材の養成を始めるが、昌平丸ができた当時、「あれは殿様の道楽」というくらいに考えていた藩士も多かった。ところが文久三年(1863)七月、英国艦隊が鹿児島湾に侵入した「薩英戦争」(「少年鼓兵」参照)によって、状況が一変する。強大な軍事力を直接体験した藩士たちから、実力で外国人を追い払えという「安直な攘夷思想」が吹き飛んでしまった。以後、薩摩藩は近代海軍力の導入に真剣に取り組み、明治になってから、東郷平八郎をはじめとして旧海軍に多くの逸材を供給することになる。
 長崎に、幕府の「海軍伝習所第一期生」八十六人が到着したのは、安政二年十月下旬だった。伝習所総督は永井尚志(なおむね)、その補佐ともなる「艦長候補」は三人いた。そのうち永持亨次郎(ながもち・こうじろう)は、新たな職務を命じられて、途中で江戸へ呼び戻されるが、矢田堀景蔵と勝麟太郎(海舟)は、伝習生を取りまとめる学生長も兼務した。
 一期生には、後に箱館戦争(函館という表記になったのは明治になってから)で戦死する中島三郎助や、咸臨(かんりん)丸に乗船中、清水港(現静岡市)で新政府軍に斬殺されることになる春山弁蔵(「次郎長と愚庵」参照)がいた。
 この時、正規の人数には入らない聴講生が二十三人いて、その中に榎本釜次郎(武揚)の名がある。榎本は、そのまま第二期生となり、さらにオランダに留学して、幕府が注文した巨大軍艦「開陽」とともに帰国する(軍艦の名前から「丸」がなくなるのは、明治五年に陸軍省と海軍省が設置されて以後のようなので、戊辰戦争当時は「開陽丸」が正しいと思うが、新政府海軍の主力艦「甲鉄」のように、最初から「丸」をつけない艦名もあるので、ここでは便宜上、輸送船には「丸」をつけ、軍艦にはつけない呼称に統一しておく)。
 慶応四年四月十一日に江戸城が無血開城して、新政府は勝海舟に旧幕府艦船の引き渡しを求めたが、実際に旧幕府海軍を統帥していた榎本は、四隻、しかもすでに旧式になった船しか渡さなかった。
 「開陽」を旗艦とする八隻の「榎本艦隊」が、品川沖から姿を消したのは、八月十九日深夜(二十日未明という史料もある)だった。最終的には当時「蝦夷地」と呼ばれていた北海道へ上陸し、箱館を本拠にして新政府軍と戦うことになるが、この時は、まず、奥羽列藩同盟の盟主、仙台藩(伊達氏、六十二万石)領である松島湾(宮城県)を目指した。
 蒸気船の蟠龍(ばんりゅう)と神速(しんそく)丸は独自に航行したが、帆船は船足が遅いので、開陽が美嘉保(みかほ)丸を、回天が咸臨丸を、千代田形が長鯨丸(長鯨丸は蒸気船という史料があるが、この当時は蒸気機関をはずしていたのかもしれない)を、それぞれ曳航していた。最も速力の遅い千代田形・長鯨丸ペアはひたすら航海を続けたが、咸臨丸が三浦半島観音崎付近で暗礁に接触し、回天の助力で離礁できたものの、時間を大きくロスしたこともあって、六隻は二十日の夜、浦賀に停泊した。
 東京湾から太平洋に出て航行中の二十一日、午後から天候が急変した。夜には暴風雨となり、危険なために回天の引き綱を切った咸臨丸と、小型艦である蟠龍は風に押し戻される形で、翌二十二日、伊豆半島の下田港に逃げ込んだ。その後、二隻は清水港で船体を修理し、蟠龍は出港したが、修理の遅れた咸臨丸が新政府に拿捕されたことは、この「余話」の「次郎長と愚庵」を読んでいただきたい。
 房総半島沖を北上していた美嘉保丸も、開陽とつながっていた綱が切れ、五日間も荒波にもまれた末に、現在の銚子市黒生(くろはえ)の海岸に漂着、船体は大破した。美嘉保丸には六百人ほどが乗っていて、ほとんどは地元民に救助されたが、十三人は溺死した。
 彼らは、新政府から見れば「脱走兵」である。美嘉保丸乗船者のうち、七十人弱は捕らえられた記録がある。また、一部は、独自のルートで箱館に行き着いたが、多くの人々のその後は、よくわからない。
 今、犬吠埼から少し南にある黒生の海岸には、遭難死者の墓碑や慰霊碑が立っている。しかし、名前が刻まれているのは九人だけで、四人はとうとう名前がわからなかった。
 この時の風雨について、当時、開陽の見習士官だった林董(はやし・ただす、後に外相)は回顧談『後は昔の記』(東洋文庫)に、開陽の帆柱の先端が「三本共一時に折れ飛び、美嘉保丸を引きたる大綱直径五、六寸ばかりなるが、二本共に切れて美嘉保丸は看る看る遠ざかれり」と記している。さらに開陽は、練鉄製で直径八寸(約二十四センチ)もあった舵の心棒がねじり切れたという。大変な暴風だった。
 慶応四年八月二十一日は、現在の暦では、十月六日にあたる。台風シーズンの最後ではあるが、大きな台風が来襲しやすい時期でもある。
 『幕末軍艦咸臨丸』(文倉平次郎、中公文庫)には、美嘉保丸の記録として、二十一日の天候を「朝は曇天で風は穏やかだったが、午後二時頃から東北の風吹起こり、夜に入ると強風、雨を交えて」と書いている。
 北半球の台風は左巻きの渦だから、「東北の風」が吹き始めたということは、このころ台風の中心は、房総半島からは南東の海上にあったのだろう。それが次第に近づき、北上したのではないか。もしかしたら、福島県の太平洋岸に上陸したのかもしれない。
 そして二十二日の夜、会津・戸ノ口原に陣を敷いた白虎隊の少年たちを、ずぶ濡れにしたのである。


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