んだんだ劇場2006年2月号 vol.86
No21
ある暗殺者の行方

桑名藩柏崎陣屋
 前回の「余話」で、会津藩主松平容保(かたもり)が、尾張徳川家の分家である美濃高須藩三万石(現在の岐阜県海津市)、松平家から来た養子だったことを書いた。容保は、高須藩十代義建(よしたつ)の六男である。すぐ下の弟、七男定敬(さだあき)も養子に出て藩主となった。迎えたのは、揖斐川をはさんですぐ隣にある伊勢桑名十一万石の親藩、松平(久松)家だ。
 三重県桑名市と言うと、東北地方の人々には「遠い所」と思われるだろうが、寛政の改革を行った老中、松平定信の白河藩が、次の定永の時に桑名へ移封されて桑名藩松平家となったのである。東北と無縁の藩ではない。
 それどころか、会津藩主松平容保が京都守護職を務めていた当時、桑名藩主松平定敬は京都所司代だった。京都所司代はもともとあった幕府の役職だが、それだけでは幕末、尊皇攘夷浪士が跋扈(ばっこ)する京の治安を保てないと判断した幕府が、その上部機構として守護職を新設した経緯がある。その結果、偶然だが、実の兄弟が幕末動乱の京の都で力を合わせることになった。
 慶応四年一月の「鳥羽・伏見の戦い」では、会津、桑名両藩兵は旧幕府軍の一翼として奮戦したが、惨敗した。十五代将軍徳川慶喜は、敗残兵を大坂(大阪という表記になったのは明治以降)に残したまま会津、桑名両藩主を伴い、船で江戸へ戻った。
 その後、松平容保は会津へ帰って謹慎したが、松平定敬の方は、とりあえず深川の菩提所、霊巌寺(東京都江東区白河町)に謹慎した。京から近い桑名藩が、藩主定敬に相談せず新政府に降伏、開城してしまったために、領地へ帰れなくなったのだ。いつまでも江戸にいるわけにもいかないので、定敬は、飛び地領の越後柏崎(新潟県柏崎市)へ行くことにした。飛び地と言っても、桑名藩十一万石のうち、柏崎には五万石(この当時は、幕府からの預かり領もあって十万石弱)の領地があり、陣屋もあった。
 ただし、そこまですんなりと事が運んだわけではない。江戸藩邸では抗戦派と恭順派が激しく対立した。公用人の森弥一左衛門ら五十人の藩士は、上野の彰義隊に参加した。森は彰義隊壊滅後、仙台で榎本艦隊に身を投じ、土方歳三が榎本軍幹部となった後は、「箱館新選組」隊長になる。また、後に日露戦争で活躍し、陸軍大将にまで昇進する立見(たつみ)鑑三郎(尚文)らは、旧幕府軍とともに関東各地で戦った。
 そんな中で、三月八日、松平定敬は藩士百人余を連れ、品川沖でロシア船コリヤ号に乗り組んだ。一行が箱館を経由して新潟に上陸、陸路で柏崎に到着したのは三月末日だった。四月四日には江戸家老吉村権左衛門ら重臣二十人も、柏崎へやって来た。それからおよそ一か月、柏崎でも、また抗戦派と恭順派の論争が展開された。
 その末に、吉村家老の暗殺事件が起きた。

二人の若者
 『桑名市史』によると、桑名本藩の降伏にも曲折があった。藩論が真っ二つに割れて収拾がつかなくなり、ついには、降伏か抗戦かをクジ引きで決めようとした、というのである。それは一月十日のことだ。
 家老の酒井孫八郎がクジを引いたのは「藩祖の神前」だというから、桑名城本丸跡に今もある「鎮国守国(ちんこくしゅこく)神社」だろう。結果は「江戸へ下り、藩主と行動を共にする」と出た。しかし翌日、下級藩士たちが寺町の本統寺に集合し、徹夜の論議の末に猛烈な反論をまとめた。一同が、藩の重職たちに談判し、最終的に「恭順、開城」と決まったのである。
 だが、「猛烈な反論」の中身について、私は割り切れなさを感じている。
 彼らの主張の中に、「藩主は養子であり、しかも会津藩主の弟だから、最後まで従うのは不利だ」という理屈が述べられていることだ。そして、先代藩主の子、万之助(後の定教=さだのり)を藩主にすればよい、というのである。「藩」という自分らの生活の拠りどころを残すための損得勘定からは、殿様は誰でもよいと言っているようなものだ。
 ここで、家来たちの軋轢に耐え切れずに自殺した、越後村上藩の内藤信民を思い出していただきたい(「藩主たちの戊辰戦争」参照)。信民も養子だった。村上藩士たちは、現にそこにいる藩主を無視して争ったのである。その板ばさみとなった信民の場合は、村上を逃げ出すこともできずに、自ら命を絶つ道を選んだ。
 内藤信民は十八歳、松平定敬も二十三歳の若い藩主だった。
 藩主松平定敬が桑名に戻れなくなったのは、「藩」として降伏してしまっただけでなく、勤皇派の家臣たちに見捨てられたためでもあると言える。
 桑名では、藩論が降伏に決まったとは言え、あくまで戦うという藩士たちもいた。彼らは脱藩して江戸に下り、最終的には柏崎を目指した。だが、柏崎でも抗戦派と恭順派の対立が起きた。強く恭順を主張したのは、江戸家老吉村権左衛門らである。もともと柏崎陣屋にいた藩士たちには、恭順派が多かった。そこに指導者吉村家老を迎えたから、恭順論が大勢を占めることになった。
 藩主定敬は、「薩長が作った新政府」に降伏する気などはなかったが、柏崎の古刹、勝願寺に蟄居し、形の上では謹慎していた。あとから来た吉村家老らも、勝願寺など数か所に分宿した。
 ところが、閏四月三日の夜、吉村家老が殺されたのである。陣屋の裏門を出て、勝願寺へ向かおうとした吉村家老は、小路を抜けたところでわき腹を斬りつけられ、刀を抜いて応戦したが、さらに刃を受けて倒れた。
 現在、柏崎市役所も、JR柏崎駅も、海に面した平地にある。西側を流れる鵜川を越えると丘陵地帯になり、陣屋は、現在の鵜川橋を渡って、坂道を少し上った左手にあった。当時は東西百八十メートル、南北九十メートルの規模だったというが、今は、細い道が入り組んだ住宅街の一画に、跡を示す石碑があるだけだ。勝願寺は、鵜川橋からの坂道をさらに上って行った所にある。
 暗殺者は、山脇隼太郎(二十歳)と高木剛二郎(二十二歳)だった。二人は、すぐに会津へ逃げた。

桑名藩士の転戦
 山脇と高木は、藩主と共に船に乗った家臣だ。あるいは、定敬に近侍していた家来かもしれない。証拠は見つかっていないが、藩主定敬が、二人の若者に吉村家老殺害を命じたと推論する人が多い。私も、そう考えている。
 慶応四年閏四月初めの時点で、会津には直接の戦火は及んでいない。そんな時に降伏して身柄を新政府に引き渡されたのでは、京都所司代であり、鳥羽・伏見で抗戦した桑名藩主の命は誰にも保証されなかっただろう。実際、幕府陸軍奉行、勘定奉行などを務め、抗戦派ではあったが、当時は役職を罷免されて、上州の知行地に隠棲していた小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけ・ただまさ)が、新政府軍に捕らえられて斬首されたのは、吉村家老暗殺の二日後、閏四月五日のことだ。
 結果をみれば、「奥羽越列藩同盟は、敗れるべくして敗れた」と、現代人の我々は言えるのだが、まだこの頃は、どちらに転ぶかわからない状況だったというのが、当時の人々の実感ではなかっただろうか。だから、新政府軍の方も、強硬な姿勢を見せていた。
 「降伏など、できるか」と定敬が思い、「藩のことは考えても、藩主のことは考えない」吉村家老に定敬が殺意を抱いたとしても、不思議はないのである。
 大鳥圭介ら旧幕府軍と関東地方を転戦していた立見鑑三郎ら八十人の桑名藩士に、柏崎の状況が伝えられたのは、吉村家老暗殺の翌日、閏四月四日のことだ。『柏崎市史』によると、立見らは「会津藩碇(いかり)村に至った」ところだったという。「碇村」とは、現在の「五十里(いかり)湖」で、日光から会津へ向かう途中(栃木県藤原町、三月二十日に日光市と合併)だから、柏崎から一日で行ける距離ではない。
 知らせたのは、桑名藩軍事奉行の山脇十左衛門である。暗殺犯山脇隼太郎の父親だ。「たまたま」「軍事奉行山脇十左衛門が会津に発した柏崎情勢に接し」と『柏崎市史』には記されているから、偶然、その使者の口から聞いたのかもしれないが、立見ら抗戦派は、柏崎が切迫した状態であることを知った。息子が家老暗殺を企てていることを、山脇奉行が知っていたかどうかは不明だが、親子とも、状況の打開を策していたことは間違いない。
 恭順派が主導権を握っていた柏崎陣屋では、すぐに吉村家老暗殺犯の探索が始まった。藩主定敬も、家老暗殺を不問に付すわけにもいかなかっただろう。その状況を覆したのは立見らの来着である。まず、立見ら少数が柏崎に急行し、残る全員が柏崎に到着したのは閏四月十一日だ。当然、陣屋では大論争となったが、すでに戦火をくぐり抜けて来た立見らの「実績」に、恭順派は押し切られ、以後、桑名藩柏崎陣屋の人々は、一致して同盟軍の一翼として戦い続けることになる。
 まず、閏四月二十七日、陣屋から西へ四キロほどの鯨波(くじらなみ)海岸で、越後高田(新潟県上越市)を発した征討軍を迎え撃った。この時、桑名藩兵は二百五十人、会津藩兵や旧幕府軍を加えても総数五百五十人だった。対する征討軍は二千五百人もの大軍だった。しかし、桑名藩兵らは奮戦し、征討軍を撃退した。
 その後、彼らは長岡藩の戦いに加わり、さらに会津へと転戦した。この間、藩主定敬は、実兄松平容保のいる会津鶴ヶ城に身を寄せていた。
 征討軍が会津盆地に侵入したのは、八月二十一日である。二日後には、征討軍が会津若松城下に迫った。この日、会津藩主松平容保は、弟の松平定敬に「会津を去るように」と勧めた。弟を籠城戦に巻き込みたくなかったと推測される。それで、松平定敬は米沢へ向かった。米沢藩に援軍を要請するつもりだったという。
 ところが、すでに米沢藩は、征討軍に降伏することに決していて、桑名藩主一行の米沢入りを拒否した。行き場のなくなった一行は、まず白石(宮城県)へ行き、そこから福島、仙台とさまよった末に、松島湾に停泊していた榎本武揚の旧幕府海軍に合流した。彼らは蝦夷地(北海道)へ向かった。
 一方、会津兵とともに城外で戦っていた桑名藩士たちは、藩主が米沢へ去ったことを知り、後を追った。ようやく福島まで来たが、すでに藩主は仙台へ去った後だった。それで彼らも仙台へ向かうことになり、北方十三キロの奥州街道桑折宿(伊達郡桑折町)まで来たところで……
 「(立見)鑑三郎たちが驚いたのは、この時柏崎で吉村権左衛門を暗殺した二人の桑名藩士――高木剛次郎と山脇隼太郎がふらりとあらわれ、合流を申し入れたことであった」(中村彰彦『闘将伝 小説立見鑑三郎』=角川文庫)。
 二人は柏崎を脱出後、旧幕府軍「衝鋒隊」と共に、各地で戦っていたのだという。

寒河江に残る桑名藩士の墓
 中流で大きく蛇行する最上川と、それに合流する寒河江川に囲まれた山形県寒河江市の中心街、同市本町の陽春院に、桑名藩戦死者の墓がある。明治元年九月二十日の朝、追撃して来た征討軍との間で激しい戦闘があり、桑名藩の十八人が戦死した。墓は明治八年になって、旧藩主松平定敬が建立し、彼らの名を刻んだ。この中には、立見鑑三郎の実弟、町田鎌五郎の名もある。
 桑折宿で二人の暗殺者と合流した桑名軍は、たまたま福島で行き会った庄内軍の勧めもあって、最後まで戦いをやめない庄内へ行くことに決め、白石から蔵王山麓笹谷峠(今は山形自動車道が通って入る)を越えて、山形城下へ抜けた。最上川を渡り、寒河江で宿営して、翌日、朝食の準備をしているところを、征討軍に襲われたのである。
 この日は、朝から深い霧だったという。前方には斥候を出していたが、桑名軍も、道案内の庄内軍も後方には無警戒だった。征討軍が、これほど急速に追尾して来るとは思わなかったのだ。
 市街地の銃撃戦で追い立てられた桑名、庄内両軍は、現在の寒河江市役所の裏手にある長岡山へ大砲を引き揚げて応戦した。市街地を見下ろすこの山の上には、後に明治政府の「長岡民政局」が置かれ、今もその跡を示す石柱が立っている。しかし、町田鎌五郎が死んだのもこの山で、形勢は挽回できず、彼らは山を北西に下りて、寒河江川に架かる臥龍橋を渡って反撃した。今は「新臥龍橋」のほかに、いくつかの橋があるが、当時、寒河江川を渡る橋はこれしかなく、かろうじて征討軍を足止めできた。
 しかし庄内藩も、九月二十三日に降伏し、桑名軍は翌年二月まで謹慎処分を受けることになる。寒河江の戦闘は、越後柏崎から転戦して来た桑名軍の最後の戦いとなった。
 ところで、昭和三十六年になって、道路の拡幅工事のために、陽春院墓地が狭められることになり、桑名藩士の墓が掘り起こされた。寒河江市では、その機会に、埋葬者の調査を行った。寒河江市教育委員会が発行した『寒河江市史編纂叢書21 寒河江における戊辰の戦跡』に、その詳しい記録が残されている。
 多人数の人骨が、一個の木棺に納められていて、寒河江市では、当時の解剖学の権威である新潟大学医学部の小片保教授に、科学的分析を依頼した。その結果、大腿骨の数から、この木棺には二十人以上が葬られていること、ただし頭骨は十人より少ないことなどが判明した。頭骨が少ないのは、負傷者を介錯し、首を持ち去ったためと推測される。発見された頭骨の中には、傷の形状と当時の記録から、個人が特定されたものもあった。
 「叢書」には、頭蓋骨や大腿骨の写真も掲載されていて、私は非常に驚いた。各地の戦跡を訪ねたが、これほど詳細な記録をまとめた例は、ほかには知らない。
 さて、吉村家老を暗殺した二人は、その後どうなったのか。

思いがけない二人のその後
 箱館戦争時の、いわゆる「箱館新選組」の中に、高木剛次郎と山脇隼太郎の名を見出すことができる。二人は、さらに戦い続けたのである。
 桑名藩の人々は、明治二年二月まで、鶴岡城下から日本海寄りの、現在の山形県鶴岡市大山で謹慎していた。酒造業のさかんな町で、そうした大きな家屋や寺院に分宿した。そして三月一日、彼らは東京へ向かい、さらに桑名へ戻って謹慎した。
 高木と山脇の二人が姿を消したのは、明治二年一月中だと言われている。中村彰彦の小説『闘将伝』では、桑名に戻れば吉村家老暗殺事件が蒸し返されて二人の身に危険が及ぶ、と判断した立見鑑三郎が、二人を逃がしたと書かれている。二人は頭を剃り、僧侶に変装したという。僧侶に変装したかどうか、私には根拠となる史料がわからないが、立見が二人を逃がしたのは事実だ。そして明治二年四月八日、石巻(宮城県)を出港したイギリス船に乗って蝦夷地へ渡った。
 このイギリス船は、仙台藩士二関(にのせき)源治率いる「見国隊」(みくにたい)がチャーターした船だ。
 新政府は明治元年十二月七日、仙台藩六十二万石を、半分以下の二十八万石に削減する処分を決めた。この処分に反発した抗戦派藩士が結成したのが、「見国隊」である。イギリス船に乗ったのは三百五十人ほどで、箱館の榎本軍には、唯一の大規模援軍となった。
 高木と山脇が、どうして仙台藩内の動きを知り、どういう道筋をたどって見国隊に合流したのか、こまかいことに疑問は残るが、とにかく二人は、戊辰戦争の終焉となる箱館戦争にまで参加したのである。
 箱館新選組隊長は、上野の彰義隊に参加して後、榎本軍とともに蝦夷地へ渡った桑名藩の森弥一左衛門である。高木と山脇の二人が、見国隊と離れて新選組に加入したのは、森がいたからだろう。森は戦後、桑名藩の戦争責任者として切腹することになる。
 東京都江東区白河町の霊巌寺に、老中松平定信の墓所があるが、白河藩松平家墓所と土塀を隔てて、合祀された桑名藩歴代藩主の墓がある。その隣に、敗戦の責任を取った森弥一左衛門(森陳明)の慰霊碑が立っている。
 五稜郭を開城し、榎本武揚らが降伏して箱館戦争が終結したのは、明治二年五月十八日だが、桑名藩主松平定敬はその前の四月十三日に、箱館を離れていた。桑名藩祖の神前でくじ引きした首席家老、酒井孫八郎が密かに箱館に来て、殿様が最後まで箱館にいたのでは、藩の存続が危ういと説得し、アメリカ船に乗せたのである。
 高木と山脇の二人は、敗戦後、東京の増上寺で謹慎していたが、まもなく開放された。が、またもや姿を消した。
 どこに行ったのかというと、今度はアメリカへ渡ったのである。渡航費は、藩主定敬が与えたと言われている。吉村家老暗殺犯に対して、旧桑名藩の追及が予想されたからだろう。定敬が、そこまで二人の面倒を見ていることからも、吉村家老暗殺は定敬の指示があったからだと思えてならない。
 二人は明治八年、後に初代文部大臣となる森有礼とともに、帰国した。当時外交官だった森有礼は、帰国後、日本に商業教育を広めるために「商法講習所」を開設した。貞作と名を改めた高木剛次郎は、その設立者に名を連ね、講習所では助教授として商業簿記を講義した。講習所は、後に一橋大学となる。つまり、「暗殺者」の過去を持つ高木は、一橋大学を生み出す新時代の知識人として、その後を生きることになったのである。
 さらに高木は、第十五国立銀行や、横浜正金銀行の発展に尽くすなど、経済人としての足跡を残している。
 もう一人の「暗殺者」、山脇隼太郎は横浜で事業を起こし、伊勢崎町商店会の基礎をつくった。
 山脇は明治三十三年に没したが、高木は八十六歳の長寿を得て、昭和六年まで生きた。
 『寒河江市史編纂叢書21』には、大正六年に、高木が寒河江の桑名藩士の墓を訪ねたことが記されている。
 非常に白髪の美しい老人だったという。

[参考文献]
柏崎市史=柏崎市教育委員会
桑名市史=桑名市
闘将伝 小説立見鑑三郎=中村彰彦、角川文庫
寒河江市史編纂叢書31 西(官)軍関係資料=寒河江市教育委員会
寒河江市史編纂叢書21 寒河江における戊辰の戦跡=寒河江市教育委員会
戊辰戦争とうほく紀行=加藤貞仁、無明舎出版
箱館戦争=加藤貞仁、無明舎出版
新選組=歴史読本セレクト、新人物往来社


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