んだんだ劇場2006年1月号 vol.85
No20
藩主たちの戊辰戦争(下)

薩摩から来た藩主
 薩摩(七十二万八千石)藩主、島津重豪(しげひで)が、なぜ、北辺の小藩、八戸藩(二万石、南部氏)へ五男信順(のぶゆき)を養子にやったのかは、よくわからない。
 江戸時代、大名家同士の養子縁組は日常茶飯事だった。「嗣子なき家は断絶」が幕府の方針だったから、家を継承するのに適当な男子がいない場合は、他家から養子を迎えるのが当然のことだった。
 破産の危機に瀕した米沢藩(十五万石)を救った上杉鷹山が、日向高鍋藩(宮崎県、二万七千石)秋月氏から迎えた養子だったことは、よく知られている。
 戊辰戦争に遭遇した奥羽の藩主の中にも、会津藩松平容保(かたもり)が美濃高須藩松平氏(尾張徳川家の分家で、三万石)、弘前藩津軽承昭(つぐあきら)が熊本藩細川氏(五十四万石)、秋田藩佐竹義堯(よしたか)が相馬中村藩相馬氏(六万石)からの養子というように、その例は多い。
 熊本から津軽へというと、ずいぶん遠隔地の縁組のように現代人には思えるかもしれないが、何のことはない、これらはすべて、各藩の江戸屋敷が舞台だったのである。だから鹿児島から八戸と言っても、不思議な話ではないのだが……。
 さて、歴代の薩摩藩主の中でも、島津重豪は特筆される存在だ。非常に開明的で、西洋の文化に異常とも思えるほどの関心を示し、参勤交代の途上、長崎に立ち寄ってオランダ人と交際したことさえある。天文観測所である「明時館」、藩校造士館、薬草園、医学院などを創設し、保守的だった薩摩の藩風を一変させた。
 しかし、派手好みの浪費癖も手伝って、五百万両という途方もない借金をこしらえた殿様でもある。今なら五千億円ぐらいの見当だろう。当時の薩摩藩の年収は十四万両程度だったから、この借金は天文学的数字と言っていい。ところが薩摩藩はこの借金を「二百五十年の年賦払い」という、ほとんど「踏み倒し」に近い方法で処理し、それどころか奄美諸島の黒糖生産と、中国との密貿易によって、倒幕資金まで溜め込んでしまうのである。
 借金がふくらんだ原因の一つは、重豪の交際費である。重豪は娘の一人を十一代将軍家斉の正室としたのをはじめ、二男は豊前中津藩(十万石)奥平昌高、九男は福岡藩(四十七万三千石)黒田長摶(ながひろ)であり、娘たちも各地の大名に嫁がせた。大変な閨閥をつくったわけで、重豪が江戸にいる時、三田(東京都港区)の薩摩屋敷の門前は、縁を結びたい大名や、その家臣たちでごった返したという。
 そんな中で、島津信順が、八戸藩八代藩主南部信真(のぶまさ)の娘、鶴姫の婿養子になったのは天保九年(1838)、二十五歳の時だった。四年後の天保十三年、信真が隠居し、信順が八戸藩主となったのだが、島津重豪と南部信真の間にどんな交際があったのか、なぜ養子縁組をしたのか、全く記録がない。
 ともあれ、薩摩藩島津家の若殿さまは、婿入りして三十年後、戊辰戦争に遭遇し、奥羽列藩同盟の一員として実家島津家の軍を迎えることになる。

動けなくなった八戸藩
 盛岡藩(江戸初期は十万石、幕末は二十万石)も八戸藩も、同じ南部氏だ。戦国時代からの家名を継承しているのは盛岡藩だが、八戸藩がその分家かというと、そうではない。
 盛岡藩二代藩主南部重直は、大変わがままな人で、何を考えたのか、後継者を決めないまま寛文四年(1664)九月に死んだ。「お家断絶」にされてもしかたなかったが、幸い幕府は、歴史ある南部家を見捨てず、弟重信に盛岡藩を継がせた。ただし、「無嗣」の罰として、十万石のうち二万石を取り上げ、それを、その下の弟で、母方の姓を名乗り、わずか二百石の藩士だった中里数馬に与えた。城地が八戸と決まり、数馬が南部直房と名を改めたのは翌年のことだ。幕府は、全く新しい大名を創設したのである。
 ところが四年後、八戸藩の成立を喜ばない盛岡藩士が送りこんだ刺客のために、直房は暗殺されてしまう。「直房がいなければ、盛岡藩は十万石のままだったはずだ」という変な逆恨みもつ一部の連中のために、直房は四十歳で非業の死をとげた。
 直房は病死とされ、八歳の嫡男直政が家督を継いだ。幼い時から非常に利発だった直政は五代将軍綱吉に気に入られ、二十六歳で側近に登用され、柳沢吉保と並んで側用人にまで出世した。しかし直政はこの要職を三か月で辞し、その後は成立間もない八戸藩の基盤づくりに取り組んだが、病気のため三十八歳で没した。
 直政に男子がなかったため、盛岡藩三代藩主重信(八戸藩初代直房の兄)の子、通信(みちのぶ)を八戸藩主に迎えるが、以後、八戸と盛岡の両南部氏の間で、新たな姻戚関係は結ばれなかった。
 そういう経緯があって、八戸藩士には、盛岡藩を「本家」と見る雰囲気は希薄だった。それが戊辰戦争に際して、薩摩から来た藩主信順の立場を救うことになったと、私は感じている。
 慶応四年、信順は五十五歳だった。しかし、『八戸市史』(八戸市教育委員会)には、「藩主は中風で病臥中であり、若殿様はいまだ若年」と記されている。信順は、病の床に伏していたのである。が、症状はそれほど重くなかったと推測できる。
 一月二十一日、鳥羽・伏見の戦いの結果が八戸へもたらされた。その翌日、今度は朝廷から、「八戸藩兵を江戸へ出陣させよ」という命令が届いた。八戸藩ではただちに出兵の準備を始めたが、すぐには出発しなかった。
 二月末になって、秋田藩から「お互いに協力して、勅命に従いたい」という使者がやって来た。それに対し、八戸藩は「三月八日に、兵を出発させる」と答えた。秋田藩の使者は次に弘前藩へ行って、同じ申し入れをしたという。この辺りのことは、『八戸市史』の記述に拠っている。『秋田県史』にも、同じことが書いてあるのかもしれないが、私は確認していない。けれども、七月に秋田藩が列藩同盟を離脱し、庄内藩と戦闘状態に入ったことを思うと、秋田藩では早い段階から「朝廷に従う」つもりになっていたことがうかがえる。
 「国力相応の兵」という記述しかなくて、人数はわからないが、ともあれ、八戸藩兵は三月八日に江戸へ向けて出陣した。ところが関東地方では、すでに旧幕府軍と新政府軍との間で戦争が始まっていて、簡単に江戸へ近づくことができず、川舟の中で夜を過すなどの苦労を重ねた末に、三月二十八日、麻布の藩邸に到着した。
 にもかかわらず、四月十一日に江戸城が無血開城されると、今度は「奥羽鎮撫総督府の命に従え」と言われた。何のために江戸まで出てきたかわからないまま、八戸軍は、ますます戦火の激しくなった関東地方をくぐりぬけて、閏四月七日に故郷へ戻った。
 同じ日、八戸藩は奥羽鎮撫総督府から、庄内討伐のため新庄(山形県新庄市、戸沢氏、六万八千石)まで兵を進めるよう命令を受けている。
 その四日後、仙台藩(伊達氏、六十二万五千石)が諸藩に呼びかけ、白石城(宮城県白石市)で最初の列藩会議が開かれた。議題は、会津藩救済策である。この時は、十四藩の代表しか集まらなかったが、米沢藩(十八万石)は、藩主上杉斉憲(なりのり)自ら、千七百人の兵を従えて参加した。
 粗暴な振る舞いが目立った鎮撫総督府下参謀、長州藩士世良修三が閏四月二十日未明、福島で暗殺され、その九日後には、会議の場所を仙台に移し、薩摩藩、長州藩の参謀を除外して「奥羽鎮撫総督と直接結びつき、皇国のために尽力する」という内容の盟約書ができた。この盟約書には、八戸藩家老吉岡左膳が署名している。
 しかし、吉岡家老は、新庄出兵の命令が出たことを連絡するために盛岡藩を訪ねたところ、そのまま列藩会議への参加を勧められたという。署名は本意ではなかった。そして吉岡家老は、列藩会議の雰囲気が、次第に鎮撫総督府と離れつつあることを飛脚で八戸へ知らせた。その連絡によって、八戸藩は、兵を藩境にとどめて新庄までは行かせず、事態の推移を見守ることにしたのである。
 軍事同盟としての奥羽列藩同盟が成立するのは、五月三日である。すでに、奥州の南端白河では、薩長を中心とする会津征討軍と、列藩同盟軍の激戦が始まっていた。
 列藩同盟軍の間では「薩賊」、つまり「薩摩は賊徒である」という言葉が日常語になった。その「薩摩」から来た南部信順は、窮地に立った。そんな中、秋田藩領内を流浪していた沢為量(ためかず)奥羽鎮撫副総督の従者、薩摩藩士川路七次郎が八戸にやって来た。

不戦に徹した南部信順
 川路の用件は、「新庄出兵をやめよ」という指令書を手渡すことだった。が、『八戸市史』は、「副総督には万一の場合に八戸へ転陣もありうると考えていたのかもしれない」という憶測を述べている。
 これは、考えられることだ。
 川路の八戸訪問は五月中旬のことで、奥羽鎮撫総督府の一行は、どこにも身の置き所がなくなっていた時期である。
 しかし八戸藩は、沢副総督への答礼の使者を出さなかった。隣国の盛岡藩へも、川路の表向きの用件以外のことは伝えなかった。この辺りの行動は、非常に慎重だ。
 七月二日、八戸藩筆頭家老の川勝内記が秋田へ行った。六月に、九条道隆奥羽鎮撫総督に随従していた佐賀藩兵二百人が盛岡から八戸に移り、新政府軍の軍艦に乗り込むはずだったのが、暴風雨で軍艦が座礁し、全員が八戸から動けなくなった。川勝家老は、そのことを秋田にいた九条総督へ報告に行ったのである。
 たまたま、その二日後、秋田藩が列藩同盟を離脱した。川勝家老は、すぐに八戸へ手紙を出した。そして、秋田を離れる前に、「川勝は、八戸藩主と秋田藩主との両敬をかわすことを約したらしい」と、『八戸市史』は述べている。
 「両敬をかわす」とは、今は死語に近い。武士が対等の礼をもって交際することを言う。大藩である秋田と、小藩の八戸が「対等に交際する」というのは、この場合、同盟を結ぶこと以外には考えられない。
 実際は、川勝家老が八戸に帰着して間もなく、書状が交換されたようだ。
 さて、八戸藩主、南部信順についてだが……中風で寝たきりの人ではなかったと思われる。それは、「秋田藩が同盟離脱」という川勝家老からの手紙が届いた七月十三日、八戸藩を監視するために滞在していた萩原勇馬という盛岡藩士を初めて引見し、贈り物まで与えて盛岡に帰らせているからである。具体的な言葉は不明だが、「今まで、ご苦労様だったね」というようなことで言いくるめたのだろう。八戸藩の態度に不審を持っていたとしても、藩主からじきじきに「帰っていいよ」と言われたのでは、萩原は反論できまい。
 ここに至るまでにも、多くの藩で見られた「勤皇対佐幕」という分裂抗争が八戸藩では起きていない。それは、派閥を作りそうな「論客」は、頻繁に外部への使者に仕立てて、徒党を組むのを未然に防いでいたからだと言われている。こういう芸当は、筆頭家老などでは難しいだろう。藩主信順の意思が働いていたと、私は思っている。
 それに、たまたま八戸に滞陣することになった佐賀藩兵は、当時、最も新式の銃器を持った強力な軍隊だった。いざとなれば、彼らの軍事力を利用することぐらい、信順の頭の中にはあったに違いない。
 なにしろ、島津重豪の息子である。この時期の島津氏に暗愚な人物は見当たらない。西郷隆盛が敬慕した藩主、島津斉彬は重豪のひ孫になる。鹿児島と八戸は遠い場所だが、大名は江戸でいくらでも交際できたのだから、薩摩藩から来た信順が、実家からさまざまな最新情報を得るくらいは当然のことと思っていい。
 これに対して、盛岡藩はぐずぐずしていて、戊辰戦争の先行きが見えて来た八月九日になって、現在の秋田県北部、鹿角市から秋田藩領へ攻め込んだ。奥羽列藩同盟の中で最も遅く、十月になってから盛岡藩は降伏した。
 この戦いも、八戸藩は静観した。
 結局、八戸藩は一人の死傷者も出さなかった。最後まで「列藩同盟」の看板は下ろさなかったが、戦後の懲罰もなかった。
 その根底には、「盛岡藩には引きずられない」という意識が八戸藩士にあったからだろうと思うが、なにより、南部信順という英明な藩主の指導力があったからだと、私は考えている。信順は、家臣に信頼されていたのだ。
 ただし、中風という病は、この人に長寿を許さなかった。南部信順が没したのは明治五年二月二十日である。享年五十九歳。前年七月に廃藩置県があって、九月に青森県が誕生した。八戸藩の終焉を見届けた上で、信順は数奇な生涯を閉じた。

[参考文献]
村松町史=村松町
村松郷土史=奥付不明
村上郷土史=奥付不明
戊辰役戦史=大山柏(時事通信社)
明治維新人名辞典=日本歴史学会編(吉川弘文館)
戊辰戦争とうほく紀行=加藤貞仁(無明舎出版)
幕末維新三百藩諸隊始末=別冊歴史読本(新人物往来社)
江戸大名家血族事典=別冊歴史読本特別増刊(新人物往来社)
風説期の人びと 秋田の戊辰戦争=吉田昭治(叢園社)
亀田藩戊辰史(岩城町史 資料編T)=旧岩城町教育委員会
雄和の戊辰戦争(雄和の文化財 第6集)=旧雄和町教育委員会
海の総合商社 北前船=加藤貞仁(無明舎出版)
八戸市史=八戸市教育委員会
新編弘前市史 通史編3=弘前市企画部企画課


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