んだんだ劇場2005年8月号 vol.80
遠田耕平

No50  セタ先生の話―もうひとつのポルポト時代

 セタ先生は僕と女房が週に一回クメール語を習っているカンボジア人の先生である。僕と同じ歳ということになっているが実はひとつ上らしい。クメール語の先生として申し分のない知識と教え方を兼ね備えた先生であるが、それだけでなくその落ち着いた物腰と、優しい眼差しは、どうも只者に見えない。ある日ポルポト時代の話に及んで、あの頃、先生はどうやって生き延びたのか、もしよかったら少しでもお聞きしたいと切り出してみた。するとセタ先生は「僕は幸運だったんですよ。」とさらりと答えた。幸運?ポルポト時代の幸運?150万人以上が虐殺されたその中での幸運、ウー-ン、僕はいっそう話が聞きたくなった。

ポルポトの占領前のプノンペン
 話はベトナム戦争時代にさかのぼる。1960年代当時、カンボジアは王政でフランスから独立を達成したシアヌーク王の治世にあった。ベトナム戦争が泥沼化する中、小柄で、弁舌のたつシアヌークは反アメリカ、親中国、親ベトナムの政策をとる。北ベトナム軍がアメリカ軍の爆撃を避けて「ホーチミンルート」という補給路をベトナム国境に近いラオスとカンボジア国内のジャングルに建設すると、アメリカはその補給路を断つためにラオス、カンボジアの親米化をすすめる。ついにアメリカは1970年3月18日、シアヌークがロシアを訪問中に右派ロンノル将軍を傀儡にしてカンボジアでのクーデターを成功させる。シアヌークは祖国を追われ、1993年の第一回の民主選挙までの20余年間、中国で亡命生活をする事になる。
 その頃、プノンペンで育ったセタ先生は高校から大学へ進学する頃で、クーデター後、アメリカの物資が豊富に入り、言論は以前よりも自由で、比較的楽しかったという。ただ物価は100倍に跳ね上がり、プノンペンにも爆撃音が響き、戦火は日に日に近づく。
 セタ先生のお父さんは役人で別の県で単身赴任、お母さんは南ベトナム生まれのクメール人で、お母さんの親族はベトナムのチャビン県にいた。そもそもメコンデルタ地帯は100年以上前まではカンボジアの領土だった。それを、フランスの統治下時代にベトナムに割譲させられ、今でもメコンデルタには多くのクメール人が土着している。
 1975年に入って、戦火が強まる中で、たまたまベトナムから来ていた僧侶と親しくなったセタ先生は、母親と二人の弟を連れて祖母のいるベトナムへ行く事にする。あまり深い考えがなかったとセタ先生は言うが、これが彼と母親そして弟達を救う。お父さんとはそのときに別れたままで、ポルポト時代に殺されたらしいが、今も消息がないという。
 ポルポト軍はその数ヵ月後、1975年4月17日にプノンペンを陥落させ、それから自国民150万人以上を殺戮する暗黒の恐怖共産制が1979年のベトナム侵攻まで続く。

ベトナムでの逃亡生活はお坊さん?
 ベトナム、チャビン県のおばあちゃんの村ではベトナム戦争最後の時期。昼は南ベトナム政府軍の支配、夜はベトコンゲリラの支配という不思議な様相で、村人は翻弄されている。カンボジアから来たと政府軍に知られるとカンボジアに連れ戻されるので、セタ先生はお寺に入ってお坊さんになる事にした。
 ちょうどその頃、ベトコンに押され始めた政府軍はついに僧侶への徴兵令を出した。これに反発する僧侶たちが数千人の大デモを行う。その際、デモに紛れ込んでいたベトコンの発砲から大混乱になる様子は記録映画で僕も見たことがある。その中にセタ先生がいたらしい。
 そしてついに1975年4月29日、北ベトナム軍とベトコンの侵攻でサイゴンが陥落し、ベトナム戦争が終結する。サイゴンの陥落が予想以上に早かった事の背景には、ロシアと急接近する北ベトナムと、中国に後押しされているポルポトとの南ベトナムの権益に関するしのぎあいがあったらしい。

 さすがに聡明なセタ先生である。お寺で仏教の原典であるパリ−語の仏典を日夜勉強し習得、ベトナム語もめきめき上達する。陥落後、南政府軍に協力していた人たちは何千人も再教育キャンプに送られるのであるが、セタ先生はお坊さんなので大丈夫。結局それから1983年にプノンペンに戻るまでの8年間をベトナムで僧侶として過ごす。
 その頃ベトナムの村には、ポルポトの圧制から逃げてきたカンボジア人の中にプノンペン大学の教授たちもいたという。実はそういう人達がセタ先生の先生になってくれたらしい。うまくできたものである。村の学校の先生もしながら、セタ先生の評判は次第に人の知れるところなり、高僧の高弟として500人の弟子を持つまでになったというからすごい。
 1978年になるとポルポト内部の内紛が表面化する。現在のカンボジア首相のフンセンも当時ポルポトの兵士であったが、内紛で離反。ベトナムに逃げてきて、そこで反ポルポトゲリラを組織し、先生の村でもゲリラを募ったというが、セタ先生は知らん顔でお坊さんである。
 1979年終わりに、ベトナム軍はカンボジアに侵攻、4年余りの圧制が終わり、100万人以上のカンボジア難民がタイ国境に溢れる。(当時医学生だった僕はそのとき初めてその難民キャンプでカンボジアの人たちに会うことになる。)ベトナムは以後国連のUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)が引き継ぐ1991年までの10年余りカンボジアを占領する。でも、セタ先生は徴兵される事もなく知らん顔でお坊さんである。
 ところがそのセタ先生の周りにも変化が起こり始めた。セタ先生の師匠の有名な高僧にベトナム政府がクーデターの嫌疑をかけて仏教徒の大規模な弾圧に乗り出したのである。もちろん高弟であるセタ先生もブラックリストに載った。たくさんの僧侶達が投獄され、処刑される中で、身の危険を感じたセタ先生はベトナム支配下のプノンペンに一人でそっと戻るのである。

再び故郷のプノンペンへ
 プノンペンに戻るとそこはベトナム兵で一杯である。見つかるのではとビクビクしていた先生であるが、ある日近所の人たちがセタ先生は教養があり、字がうまいということを知って、住民票を書いてくれと頼んだ。
 当時のプノンペンにはポルポトがほとんど教育のある人たちを殺したために字を書ける人が少なかった。セタ先生はきれいに住民票を書いてあげて、こっそり自分の名前も入れた。さすがセタ先生である。
 親戚の紹介で教育省の図書員の仕事につく。この仕事は最高だった。時間はたくさんあり、山のように好きな古い本を読むことができた。嫌だったのは、ベトナム人たちに改ざんした教科書をクメール語に翻訳させられる時と、毎月ある自己批判のミーティングだったらしい。
 ベトナム語も流暢に話せて教養のあるセタ先生は近所に住んだベトナムの軍事顧問とも親しくなった。当時ベトナム軍は「K5オペレーション」と呼ばれる徴兵をクメール人の成年男子に課し、タイ国境のジャングルの伐採に大量に送り込み、たくさんのカンボジアの若者達が地雷や、マラリアで死んだという。ところがここでも軍事顧問と仲のよかったセタ先生に徴兵はなく、先生は難を逃れた。

 その後、ベトナムは世界の世論の批判を受けてついに1991年のパリ和平協定でカンボジアからの撤退を受け入れる。そして1992年から93年の1年半、明石氏を代表とする国連のUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)が駐留する。1993年にシアヌーク王が中国から帰ってくると、初めての民主選挙が実施され、シアヌークの息子であるラナリット王子率いるフンシンペック党とフンセン率いるカンボジア人民党の連立政権となり、5年後の1998年からは、2003年と2期にわたってフンセンの政権が現在まで続いている。しかし政党間の対立、不安定な政治情勢は今も大きな問題である。
 セタ先生は教育省から派遣されて、教師としての仕事を続けるていたが、英語も流暢な先生は日本政府や、フィンランド政府からクメール語の教師として、正式に招かれ、海外青年協力隊の講師としても東京で2年ほど働いていた。現在の先生は、クメール語を教えて欲しいというカンボジア在住の外国人の個人教授で一週間のスケジュールは一杯である。
 誠実で教養あふれる先生は人気であるが、先生が偉いお坊さんだったと知る人は少ない。上背のある先生が鮮やかな橙色の袈裟を着て穏やかにお説教をする姿を想像するとやはり様になっている。これからどうなるのかセタ先生にはあまりこだわりがないように見える。いつかまた仏門に戻ろうと思っているのかもしれない。いや、仏門でないと生き残れなかった時代は二度と戻ってこないようにと祈っているのかもしれない。そして、穏やかなセタ先生の目には激動を生き抜いた厳しさが今も人知れず光るのである。
 話を聞き終わって、もし戦争がなければ、今ごろセタ先生はカンボジアを支える有数の教養人になっていただろうなと確かに感じる。と、同時に、セタ先生のような人たちが100万人以上も無為に殺されたポルポトの狂気を恨まないではいられない。そして、セタ先生がこうして生き残った事には何か意味があるのじゃないだろうかと、ふと感じるのである。
 神様は彼に次に何を用意しているのだろう。カンボジアの再生の道はまだ始まったばかりだとすると、まだまだこれからこの先生が登場する舞台が用意されているのかもしれない。帰り際に、僕がカンボジアの挨拶に従って、両手を合わせ、「ソムリア」と一礼すると、やっぱり先生がお坊さんに見えた。


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