んだんだ劇場2005年12月号 vol.84
No19
藩主たちの戊辰戦争(上)

自殺した内藤信民
 新潟県の北部、中蒲原郡村松町は、堀氏、三万石の城下町だった。その城下から七キロほど南の山中に、慈光寺という、城郭のような石垣を築いた大きな寺院がある。ここに実際、三百人の村松藩士が立てこもった事件があった。
 戊辰の年、慶応四年(1868)七月二十七日のことだ。
 彼らは「正義党」と称していた。尊皇攘夷思想で結びつき、藩政改革を提唱していた人々である。しかし当時の村松藩は、筆頭家老の堀右衛門三郎(えもさぶろう)を頂点とする保守門閥派が支配していた。五月に奥羽列藩同盟が成立し、長岡藩(牧野氏、七万四千石)を中心に北越諸藩が加わって「奥羽越列藩同盟」に発展すると、村松藩も同盟軍として戦わざるを得なくなった。村松藩正義党は、動きを封じられた。
 ところが七月二十五日、薩摩の黒田清隆率いる千人余の征討軍が、現在の新潟市の海岸に上陸したことから、状況が一変した。この上陸作戦は、当時の阿賀野川河口までを領地としていた新発田(しばた)藩(溝口氏、十万石)の内応によって成功したもので、新発田藩は即座に奥羽越列藩同盟を離脱し、征討軍に加わった。
 それを知った村松藩正義党が、実力で藩首脳部に反旗を翻したのが慈光寺の挙兵である。しかも彼らは、文久元年(1861)に没した九代藩主堀直央(なおひさ)の末子、直弘(8歳)を擁していた。
 幕末、ほとんどの藩では、多かれ少なかれ尊皇攘夷派(改革派)と、守旧派の対立が見られた。村松藩の場合、十一代藩主直賀(なおよし)の時代になっていたが、直賀の襲封には複雑な経緯があり、思想的な対立に藩主の相続問題がからみついて、深刻な権力闘争が展開されていたのである。詳しい経緯は省くが、直賀は系図の上では藩主家の傍系で、十代直休(なおやす)が二十五歳で急死し、その子が幼かったために担ぎ出されて、十八歳で藩主の座に就いた人だ。この新藩主擁立で権力を掌握した堀右衛門三郎に対して、直賀は、何も言えない立場だった。
 戊辰の前年、慶応三年五月には、「長州と内通した」罪で、正義党の中心人物七人が処刑された(村松町市街地の南郊にある住吉神社境内に、「勤皇殉国 七士之碑」が立っている)。死罪を命じたのは、堀右衛門三郎なのだが、処刑には会津藩士が立ち会った。これがまた、村松藩の立場の複雑さを物語っている。
 村松藩は、会津藩(松平氏、戊辰戦争時二十八万石)と境界を接していた。藩主松平容保(かたもり)が京都守護職を務めた会津藩は、長州と敵対関係にあった。正義党が「長州と内通した」というのは風聞に過ぎなかったのだが、小藩の村松藩としては、隣国の大藩、会津に配慮し、彼らに極刑を命じなければならなかったのだろう。
最近の研究では、堀右衛門三郎も、実は機を見て征討軍に帰順する意思があったという。ただしそれは、戊辰戦争が始まってからのことで、前年の「七士処刑」の時点では、やはり門閥派は「極刑は正しい」と判断したのだと、私は思っている。
 それから一年二か月後、慈光寺に立てこもった正義党に対して、門閥派は何もできなかった。八月一日には、堀右衛門三郎らは藩主直賀を連れ、米沢へ逃げた。
 戦後、堀右衛門三郎は斬首され、直賀は隠居を命じられた。
 ただし、直賀は六十歳まで生きた。没したのは明治三十六年のことだ。時代に翻弄されながらも、人生をまっとうした堀直賀は、十八歳で悲劇の死を迎えた越後村上藩主、内藤信民に比べれば、まだ幸せだったと言える。
 新潟県の最北端、村上市に居城のあった村上藩(五万石)も、村松藩と同じように、藩論が分裂したまま戊辰戦争を迎えた。
 一月に鳥羽・伏見の戦いがあって、三月に内藤信民は領地村上へ帰った。しかし藩内は勤皇派と佐幕派に分裂していた。信民は両派の融和を図ったが、実現できなかった。その理由は、信民が若かったことに加え、彼が、遠縁にあたる信濃岩村田藩(一万五千石)の内藤家から来た養子だったことだ。信民が村上藩主となったのは、元治元年(1864)のことで、わずか十四歳だった。四年たっても「子供の殿様」という印象をぬぐえない藩士たちは、信民の言うことをきかなかったのである。
 当時、前藩主で隠居の内藤信思(のぶこと)は健在で、江戸藩邸にいた。信思は、領国の実情を伝え聞き、自ら乗り出さなければ収拾がつかないと判断した。ところが五月に入ると、越後では長岡周辺、奥州街道筋でも白河周辺で戦闘が激化し、信思は帰国の道を閉ざされた。しかたなく、現在の長野県佐久市にあった岩村田藩(信民の実家)に足を止め、遠くから見守るしかなかった。
 村上藩も長岡へ援軍を送った。この援軍は、佐幕派主体だったのだろう。そのために、城下では両派の勢力が拮抗し、争いが激しくなったのかもしれない。
 そうした中で慶応四年七月十一日、内藤信民は自殺した。戦火が迫って来るに従い、藩内の分裂闘争の激しさに耐え切れなくなったからだと言われている。
 戊辰戦争の渦中に死んだ藩主は、もう一人、結核で病没した松前藩主、松前徳広(のりひろ)がいるだけだ。
 実は、私の手許の資料では、内藤信民は切腹したのか、首を吊ったのかさえ、よくわからない。藩主の自殺に対して、藩士がどんな反応を示したのかも、はっきりしない。『村上郷土史』には、庄内藩主酒井家から養子を迎えようとした動きが記されている。これは、たぶん、佐幕派が提唱したことだろう。しかしそれが実現する前の八月十一日、征討軍が村上城下に迫ると、佐幕派は城に火を放って庄内藩領へ逃走し、征討軍を迎え入れた勤皇派藩士が追撃している。
 年若い、しかも養子の藩主の死を悼む記録を、私は見つけられないでいる。信民の死そのものは、どちらの派閥からも無視されたのではないだろうか。そう思うと、この少年藩主が哀れでしかたがない。

人質となった岩城隆邦
 慶応三年十一月に十五代将軍徳川慶喜が大政を奉還すると、朝廷は全国の大名に上京を促した。そのころ、京にはほとんどの藩の屋敷があったので、在京の家臣を通じて藩主に朝廷へ伺候するよう命じたのである。
 年が明けて、鳥羽・伏見の戦いが朝廷方の勝利に帰し、西国諸藩主は、次々に京へ上った。これに対して、会津藩救済のために結束し、結果として新政府軍と戦った奥羽列藩同盟の諸藩も、心情として「尊皇」あることに変わりはなかったが、藩主が上京できるような状況ではなかった。
 しかし、その中でただ一人、京で天皇に拝謁し、勤皇を誓った藩主がいる。現在の秋田県由利本荘市にあった亀田藩(二万石、旧岩城町亀田)の岩城隆邦(たかくに)である。
 実際、七月に秋田藩(当時の呼び名は久保田藩、佐竹氏、二十万五千石)が列藩同盟を離脱すると、亀田藩もすぐ同調した。そして庄内藩攻撃に兵を送り、三崎峠の戦いでは九人が戦死した。そうした犠牲を払って勤皇を貫こうとしたにもかかわらず、亀田藩はその後、列藩同盟に復帰し、庄内藩とともに秋田へ進撃することになるのである。それは、藩内の対立だけが原因のことではなかった。
 戊辰の年、亀田藩十一代藩主、岩城隆邦は二十四歳だった。江戸にいた隆邦は三月、百人ほどの家臣とともに、京へ向かった。東海道は、新政府(大総督府)軍が江戸を目指して進軍中だったが、そのわきを通り抜けて四月一日に京に入り、四日には天皇(明治天皇)に拝謁して「勤皇の誓約」を果たした。そして重臣二人を新政府との連絡役として京に残し、隆邦は江戸から水戸街道を経由して、五月二十五日、亀田へ帰着した。
 すでに奥羽列藩同盟は成立し、亀田藩も名を連ねていたが、隆邦は六月十五日、藩士、領民に対して「天皇に一層の忠誠を尽くすべきである」という「諭告」を示した。岩城隆邦の「勤皇」は、本気だったのである。奥羽列藩同盟については、会津、庄内両藩への寛大な措置を求め、戦争を回避するという大義名分に基づいた行動と考えていた。
 このころ、朝廷の奥羽鎮撫総督府の一行は、奥羽を流浪していた。九条道隆総督と醍醐忠敬(だいご・ただゆき)参謀は、五月十八日に仙台を発って盛岡へ向かったが、盛岡藩(南部氏、二十万石)にも歓迎されず、六月二十三日には、最後の拠り所として秋田へ向かった。それ以前に別行動をとっていた沢為量(さわ・ためかず)副総督は、五月二十七日以来、能代(秋田県能代市)に滞在していた。奥羽列藩同盟の成立によって四面楚歌の状態に陥っていた一行が、秋田で再会したのは七月一日である。そして七月四日の朝、秋田藩主佐竹義堯(よしたか)は、勤皇派藩士の建白書を受け容れ、列藩同盟を離脱して庄内藩攻撃の軍を起こした。
 岩城隆邦にとっては、願ってもないことだった……はずなのだが、ここから少しずつ、事態が屈折し始める。
 まず、七月七日、秋田藩兵を率いて亀田藩領の松ヶ崎(現由利本荘市)まで進軍して来た鎮撫総督府の監軍山本登雲助(とものすけ)と上田雄一(二人とも長州藩士)が、亀田藩に対して「戦書」を突きつけたのである。「亀田藩には不審がある。申し開きができなければ、討ち入る」という内容だった。「不審」は採るに足らぬことだった。亀田藩重臣が弁明すると、今度は、「疑いを晴らすために、庄内攻撃の先鋒を願い出よ」という言い方に変わった。
 『亀田藩戊辰史』(旧岩城町史 資料編T)は、この戦書について「先鋒を強要するための口実に過ぎなかった。それは、既に用意された下書きを示して先鋒願いを書かせ、その提出を待って直ちに申し渡し書が手渡されたことで、既にこのことが仕組まれていたことが明らかである」と記している。
 九日には、藩主岩城隆邦が秋田へ出向いて、九条総督から「庄内討伐の応援」を命じられた。つまり、最も困難な先鋒は秋田藩や、鎮撫総督府の付属兵が務めるので、亀田藩はそれに協力すればよいということだ。が、前線の山本登雲助らは、それを無視して、あくまで亀田藩兵を最前線に立たせようとした。
 亀田藩では十日、神谷男也(おなり)を隊長として、百三十五人の部隊を出発させた。
 しかし庄内軍は強く、三崎峠を突破できなかったばかりか、七月二十八日には、鳥海山北側に位置する矢島藩(生駒氏、八千石)が陥落、庄内征討軍は後退せざるを得なくなった。そういう状況の中で八月一日、軍議の席上、「先鋒への応援」を要請した神谷隊長の頭を、山本登雲助が鉄扇で殴るという事件が起きた。
 山本は、本来が小心な人物だったのだろう。「虎の威を借りる」能しか持ち合わせていなかった、としか言いようがない。庄内軍の強さに驚愕し、逃げ腰になっていたから、それを隠すため神谷隊長に当り散らしたに違いない。そう思うのは、八月五日、二十歳の本荘藩主、六郷政鑑(まさあきら)が迎撃を主張したのをしりぞけ、秋田への総退却を命じているからである。本荘藩も二万石の小藩ではあるが、意気軒昂だった。このころには、弘前藩(津軽氏、十万石)からの援兵も到着していた。にもかかわらず、翌六日には鶴舞城とも呼ばれた本荘城を自ら焼いて、藩士とともに六郷政鑑は秋田へ落ち延びた。こうなったのも、山本登雲助に戦う気概がなかったからだ。あげくには、亀田藩には何の指示も出さないまま、自分が最初に秋田へ逃げた。
 亀田藩兵は、前線に置き去りにされた。
 余談だが、明治の藩閥政府関係者に偏りがあると私は思っている『明治維新人名事典』(日本歴史学会編、吉川弘文館)に、山本登雲助は収録されていない。「その程度の人物」が、庄内攻撃の総指揮官だったのである。
 それに、秋田藩も、亀田藩に対して冷淡だった。秋田藩・佐竹氏と、亀田藩・岩城氏は戦国時代から姻戚関係があり、「同族」と言ってもよい間柄だったが、江戸時代の二百六十年を経過するうちに、さまざまなトラブルがあり、お互いに不信感を抱いていたようだ。
 勤皇の志が厚かった岩城隆邦にとっては、最終局面で不幸が重なった。
 庄内軍の北上を阻止できないと判断した八月三日、亀田藩は重臣会議を開いた。重臣の大半は、奥羽鎮撫総督府も、秋田藩も見限っていた。山本登雲助らを「官賊」(官軍を名乗る賊徒)と呼ぶ雰囲気に包まれていた。
 藩主隆邦は、勤皇を貫くために秋田への撤退を希望したが、重臣らは「それでは、亀田城下が庄内軍に焼かれ、領民が迷惑する」と主張した。結果、庄内藩と和睦することになった。だが、庄内藩が示した和睦の条件は、藩主が庄内に移り、藩士はともに秋田へ討ち入る、というものだった。岩城隆邦が飲める条件ではない。亀田藩重臣たちは、その条件を隠して、藩主隆邦に、「矢島で、庄内藩の隊長と面談してほしい」と要請した。
 『亀田藩戊辰史』には、「何か魂胆を感じた藩主隆邦は立腹したが、家臣が非常に困っている様子に、ついに矢島行きを承諾した」と記されている。そして「陸路より安全だから」という家臣の勧めに従って、子吉川河口の石脇港から船に乗り、金浦(現にかほ市)に上陸し、そこで待っていた庄内藩兵とともに象潟(現にかほ市)、酒田(山形県酒田市)と宿を重ね、八月十二日、庄内藩の城下町、鶴岡に入った。
 隆邦は石脇で船に乗る時、「自分は人質である」と覚悟したという。そして、「遠く離れても、勤皇の心は変わらない」という意味の和歌を詠み、勤皇派の重臣に託している。
 岩城隆邦は、多感な青年藩主だった。新政府軍が行進して来る東海道を逆にたどって京へ上った行動力、奥羽列藩同盟成立後に示した「諭告」、重臣会議での発言、そのどれを見ても、信念に裏打ちされた、新しい時代への希望にあふれている。
 しかし、我意を押し通そうとする暴君ではなかった。家臣と領民への配慮を忘れない人格者だった。だから、「人質」という運命の変転に身をゆだねることができたのだろう。
 庄内藩は、藩校致道館(ちどうかん)を亀田藩主一行の居室とし、賓客の礼をもって遇した。

亀田城の炎上
 日本海沿いに北上した庄内軍は、三番大隊と四番大隊である。このうち三番大隊は海岸線に沿って進軍し、四番大隊は亀田から内陸部に進み、現在の秋田空港方面に出て、秋田を目指した。亀田藩も兵を二分して行動をともにした。しかし、どちらも、城下町秋田を目前にして進撃をはばまれた。四番大隊は九月十八日に亀田へ退却し、三番大隊もその夜から撤退を始めた。すでに、列藩同盟の主唱者だった米沢、仙台両藩は、征討軍に降伏し、会津落城も時間の問題だった。
 庄内軍が引き揚げれば、今度は亀田藩が征討軍の矢面に立つ。亀田城下では十九日から藩士と家族、千七百人の逃避行が始まった。戦場で負傷し、自宅に戻ってから死んだ藩士石塚忠兵衛の妻は、棺桶がないので夫の遺体を味噌桶に入れ、上から別の味噌桶をかぶせて、通りかかった男性に頼んで庭に埋め、着の身着のままで逃げ出したという。ほとんどの人々が、同様の悲惨な状況に遭遇した。
 だが、庄内軍は、亀田藩の人々を見捨てなかった。『亀田藩戊辰史』によると、前線部隊に「亀田藩の立ち退きを見届けてから」引き揚げるようにとの「藩命」が届いていたという。最後尾についた三番大隊は、病人、老人、幼児などを象潟から二艘の船に乗せて、酒田まで送り届けている。庄内藩は、亀田藩との信義を守り通したのだ。
 代わって九月二十日、亀田城下に秋田藩の渋江内膳隊が進駐した。翌二十一日、亀田に入った秋田藩の荒川久太郎隊(遊撃隊)は、無人の亀田城(天鷺城)を焼き払った。大勢が決したこの段階では、無用の行為だった。荒川隊長に城への放火を命じたのは、山本登雲助である。ここまで来ると、亀田藩に対して、山本がなんらかの個人的恨みを持っていたとしか考えられないが、それを推測する史料はない。
 高尾村(現由利本荘市、旧大内町)の肝煎、大友貞之助が残した「大友家記録」が、『雄和の戊辰戦争』(旧雄和町教育委員会)に収録されている。その「九月二十日」の項を読むと、渋江内膳隊は亀田藩士の家に押し入り、戸、障子、畳、その他あらゆる家財から味噌、酒に至るまで、目に入ったものはすべて奪ったという。そして、翌日の項には、それらの品物を船に積んで秋田へ運び去った、と書かれている。
 こういうことも「勝てば官軍」なのだろうが、「ミカドの軍隊」という意識はかけらもなかったことが、庶民の記録でわかるのである。
 鶴岡にいた岩城隆邦は、庄内藩が降伏したのと同じ九月二十七日、征討軍に降伏嘆願書を差し出した。その中で隆邦は、「天皇に拝謁して誓った勤皇の志に変わりはない」ことを述べている。
 受け取ったのは、秋田の奥羽鎮撫総督府ではなく、越後征討軍参謀の黒田清隆だった。そして、その日のうちに、口頭ではあったが「亀田藩は、秋田と庄内の間にあって、やむを得ないことであった」という、予想外の寛大な処置が伝えられた。
 翌年一月に申し渡された正式の処分も、藩主隆邦の隠居と領地のうち二千石没収というゆるやかなものだった。岩城隆邦はその後、東京に住み、明治四十四年二月、六十八歳で没した。
 亀田城のあった場所は、現在の亀田小学校である。ところが、今、亀田を訪ねると、別の場所に城が二つある。一つは「亀田城」と言い、かつての城を忠実に復元した建物だ。天守閣はなく、陣屋と呼ぶべき構造だったことがよくわかる。もう一か所は、天守閣だけを復元したような「天鷺城」である。観光施設だが、その一画に「史料館」があり、藩主の甲冑や、古絵図などの歴史資料が展示されている。
 展示室の入り口の上に、岩城隆邦の晩年の肖像写真が掲示されていた。
 品格のある顔立ちだ。
 戊辰戦争については、その苦労を自ら語ることなく後半生を過した隆邦だが、やや伏し目の穏やかな表情からは、精一杯生きた人だけが持つ威厳のようなものが、私には感じられた。

[参考文献]
村松町史=村松町
村松郷土史=奥付不明
村上郷土史=奥付不明
戊辰役戦史=大山柏(時事通信社)
明治維新人名辞典=日本歴史学会編(吉川弘文館)
戊辰戦争とうほく紀行=加藤貞仁(無明舎出版)
幕末維新三百藩諸隊始末=別冊歴史読本(新人物往来社)
江戸大名家血族事典=別冊歴史読本特別増刊(新人物往来社)
風説期の人びと 秋田の戊辰戦争=吉田昭治(叢園社)
亀田藩戊辰史(岩城町史 資料編T)=旧岩城町教育委員会
雄和の戊辰戦争(雄和の文化財 第6集)=旧雄和町教育委員会
海の総合商社 北前船=加藤貞仁(無明舎出版)
八戸市史=八戸市教育委員会
新編弘前市史 通史編3=弘前市企画部企画課


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