んだんだ劇場2004年12月号 vol.72
No7
次郎長と愚庵(上)

長崎海軍伝習所と咸臨丸
 慶応三年(1867)十二月二十五日に、江戸・三田(東京都港区)の薩摩藩邸が焼き討ちされた時、江戸市中を騒がせるため薩摩屋敷に結集していた尊攘派浪士の大半は、海の方へ逃げた。後に「ニセ官軍」として斬首されることになる相楽総三(さがら・そうぞう)と、その時そばにいた二十数人が、薩摩藩の軍艦「翔鳳丸」に乗船して逃走したことは、前回の「余話」で述べた。だが、この逃走は簡単ではなかった。長谷川伸は『相楽総三とその同志』(上・下、中公文庫)で、「江戸湾の海戦」という一章を設けているほどだ。
 実は、海へ逃げようとした浪士は、もっと大勢いた。彼らは三艘の漁船に分乗し、品川沖に碇泊していた翔鳳丸へ向かった。しかし、漕ぎ寄せることができたのは、相楽総三が乗った一艘だけだったのである。
 『相楽総三とその同志』によると、この時翔鳳丸は、品川台場の沖百メートルほどのところにいた。
 「台場」というのは幕末、外国船の来襲に備えて、幕府が海の中に築いた砲台のことだ。品川の御殿山を削った土で築いたのが「品川台場」である。山は京浜急行北品川駅(京急品川駅の次の駅)の西側にあって、今は「御殿山ヒルズ」という高層ビルが立っている。この御殿山は江戸時代、桜の名所として知られていた。『江戸名所図絵』には、沖に白帆が浮かぶ挿絵が載っている。そのころは、山のすぐ下まで海だった。明治になって鉄道を敷設するために、現在のJR田町駅から品川駅の先までを埋め立てたのである。現在、新橋から新交通システム「ゆりかもめ」に乗ると、高速道路と共用のレインボーブリッジのすぐ下に「第六台場」と「第三台場史跡公園」が見えて、その先に「お台場海浜公園駅」がある。駅があるのは新しい埋立地で、埋立地はそのはるか先まで広がっている。いくつかあった台場を総称して「品川台場」と言うので、『相楽総三とその同志』の記述だけでは、正確な場所は特定できないが、翔鳳丸の碇泊場所が、今は陸地になっているのは確かだ。
 さて、翔鳳丸のさらに沖合い四百メートル付近には、幕府の軍艦「回天」が碇泊していた。薩摩屋敷方面で砲声が聞こえたため、翔鳳丸は出航準備を始めたが、回天も蒸気機関を動かし始めたらしく、煙突から黒煙を吹き上げている、という切羽詰まった状況で、なんとか間に合ったのが、相楽の乗った漁船だった。この船には、三か月後に下諏訪で相楽とともに斬首されることになる秋田藩士、大木四郎も乗っていた。総数は二十八人とも、二十九人とも言われるが、史料によって人数にも人名にも、多少の差異があるようだ。
 ともあれ、相楽らを収容した翔鳳丸は、大急ぎで錨を上げた。それを見て、残りの二艘の漁船は陸地へ引き返し、浪士たちは思い思いに逃走した。その中で、秋田藩士金輪五郎(明治二年九月の大村益次郎襲撃犯のひとり)が、京まで十日間という信じ難いスピードでたどりついたことも、前回の「余話」に書いたとおりである。
 一方の翔鳳丸も、夕刻、横須賀沖まで逃げたところで、回天の砲撃によって浸水する被害を受けた。追い詰められた翔鳳丸は回天へ体当たりしようとし、その際に四門の大砲を発射した。そのうち二発が回天に命中したおかげで、なんとか危機を脱することができた。この辺りのスリリングな展開は、『相楽総三とその同志』を読んでいただきたい。上陸した浪士たちが、金輪五郎のように無事に京へ着いた者ばかりでなく、各地で捕らえられたり、殺されたりしたことも記録されている。
 ところでこの時、品川沖にはもう一隻、幕府の軍艦が碇泊していた。
 七年前の万延元年(1860)、太平洋を横断してアメリカへ渡った、咸臨丸(かんりんまる)である。
 咸臨丸は、品川台場のすぐそばにいた。が、蒸気機関を取りはずしていたために、まったく動けなかった。錨を上げた翔鳳丸へ向けて、大砲を一発撃ったが、攻撃もそれだけだった。その向こうに回天がいたために、砲弾が飛びすぎて回天に当たる危険があったからだという。
 『相楽総三とその同志』には、「故障修理のため汽罐をとりはずした」と書かれているが、咸臨丸はその後、単なる帆船として運行されている。故障が修理できなかったのか、または別な理由があったのかわからないが、結局、汽船としては復活しなかった。もっとも、咸臨丸の蒸気機関は、港の出入りの際ぐらいしか動かさなかったらしく、アメリカへ行った時も太平洋上は帆走だけだったから、蒸気機関がなくてもさほど不自由はなかったのだろう。
 咸臨丸は、安政二年(1855)に幕府が開設した長崎海軍伝習所の練習船として、オランダに建造を依頼した船である。この伝習所では、オランダ海軍軍人が教師を務めていたが、安政四年八月、当初の教師たちと交代する第二次教師の団長、カッテンディーケ中尉が咸臨丸艦長として乗り組んで長崎に到着した。
 その後の話を先にすると、この第二次教師団が、日本の若者たちに船の動かし方から、大砲の撃ち方、そのほか近代海軍のさまざまな知識を与えたのは二年足らずの期間で、安政六年四月に、海軍伝習所は閉鎖される。オランダに戻ったカッテンディーケ中尉は、中佐に昇進したところで海軍を去り、政治家に転進して海軍大臣(さらに外相兼務)まで栄達した。榎本武揚ら幕府留学生を受け入れ、幕府が発注した軍艦「開陽」建造を援助したのもカッテンディ―ケ海相である。そして晩年、『長崎海軍伝習所の日々』(水田信利訳、平凡社・東洋文庫)を書き残した。滞在期間は短かったが、いろいろな遺産を日本に与えてくれた人だ。
 ところで、榎本武揚は、海軍伝習所の第二期生だった。第一期生には、勝海舟がいた。

咸臨丸の太平洋横断
 幕府は安政五年に、アメリカと修好通商条約を結んだ。その批准書交換のために、特使として新見豊前守正興(まさおき)を送ることになった。アメリカでは、新見特使を送り届けるために、軍艦ポーハタン号を用意した。ところが幕府内で、万が一のことを考えてもう一隻、補助艦を派遣すべきだ、という意見が出て来た。それで、軍艦奉行の木村攝津守喜毅(よしたけ)にその役を命じた。どの船にするか、いろいろ候補はあったが、最終的に決定したのが咸臨丸だった。木村攝津守は司令官として乗船し、もしも正使の新見豊前守、副使の村垣淡路守が病気になった場合には、木村が代役を務めることにした。そして、勝海舟が咸臨丸艦長に就任した。
 と書けば、理路整然としているが、実際は、かなりの紆余曲折があったようだ。
 「もう一隻」という話が出たのは、安政六年の夏である。当時、勝は長崎にいた。しかし「正使の船とは別に一隻」という話を伝え聞いた海舟は、すぐに江戸へ戻り、「それなら、日本人だけで船を動かし、太平洋を渡るべきだ」と、幕府の有力者に訴えて回ったらしい。「そうしなければ、幕府が海軍伝習所を創設した意味がない」というのが、勝の主張だったようだ。
 その意見が通ったのは、アメリカ海軍のジョン・マーサー・ブルック大尉ら十一人が乗りこむと決まったことが、大きな要因ではないかと、私は思っている。わずか四年の勉強で、しかも、咸臨丸で九州一周の訓練航海をしたぐらいの伝修生たちだけで、太平洋を乗り切れるのか、と幕府は心配していた。その心配はアメリカ側にもあったからだ。
 たまたまその時、日本にブルック大尉がいた。
 この人は、アメリカ海軍の測量艦フェニモア・クーパー号の艦長で、太平洋を知り尽くした船乗りだった。ところが前年、日本近海の測量中、台風に遭遇して神奈川沖で船が座礁、沈没してしまい、以来、横浜に滞在していた。日本人が操船して太平洋を渡るという話を聞いて、その案内役を買って出たのである。アメリカ側も、強力にブルック大尉を推薦した。
 自身満々だった勝は、アメリカ人が乗り組むことには、大いに不満を抱いた。ブルック大尉が志願したとは知らず、帰国するために便乗しようとしている、と誤解したことも一因らしい。航海中の測量を引き受けようと言うブルック大尉に対して、「測量は日本人もできるから、不要だ。やりたければ勝手にやればいい」と、勝は反発したという。
 咸臨丸には、通訳としてジョン・万次郎も乗りこんだ。万次郎の同行には、当初、幕府が難色を示していた。漂流中をアメリカの捕鯨船に救助され、長年アメリカで過ごした万次郎は、アメリカのためにスパイ行動をするのではないかという、ばかばかしい疑いを持つ人がいたためだ。彼の乗船に奔走したのは、咸臨丸司令官の木村攝津守だった。福沢諭吉も、木村の従者としてアメリカへ渡った。
 『福翁自伝』(福沢諭吉、岩波文庫)には、どうしてもアメリカを見てみたい福沢が、木村攝津守に頼みこんで、従者にしてもらった経緯が記されている。福沢は中津藩(大分県、奥平氏)の大坂屋敷で生まれた藩士である。直接、木村の屋敷を訪ねて「連れて行ってくれ」と頼むと、すぐに許された。木村が行くとなれば、その家来も当然、殿様について行かなければならないのだが、「外国航海などと言えば」「恐ろしい命がけのことで」家来たちは行く気がなくて、そこへ自分から行きたいなどと言う者が現れたので、「実は彼方(あっち)でも妙な奴(やつ)だ、幸いというくらいなことであったろうと思う」と、福沢は述べている。
 こうして安政七年一月十九日(三月三日に桜田門外の変があって、三月十八日に万延と改元)、咸臨丸は浦賀を出航して太平洋へ乗り出したのだが、この航海は日本人の想像を超える苦労の連続だった。
 咸臨丸は、真東に進むのではなく、北へ向かった。地球は丸いから、アリューシャン列島近くを通るのが最短ルートなのである。ところが、季節は真冬で、北の海が最も荒れ狂う時期である。航海中、あまりに船が揺れたために、木村攝津守が司令官室の戸棚に入れておいた大量の金貨が飛び出して、部屋の床に散乱したこともあった。幕府に金がなかったために、木村が家財や美術品を売り払って用意した、使節団の渡航費用だった。三千両(今なら三億円近く)を自前で用意し、そのほか幕府から五百両を借りたために、木村家は明治になって破産状態になったという。木村攝津守は誠実な人物で、咸臨丸渡米に成功した後は、水夫の給与を定めるなどの制度を整備し、幕府海軍の創設に尽力した。そればかりでなく、海国日本にふさわしい近代海軍の構想を練り上げた。それは、後の明治海軍に結実した。近代国家「日本」の建設が、薩摩、長州など倒幕諸藩の人間だけで成し得たことではないことが、木村の業績だけでもわかって来るだろう。
 しかし勝海舟は、身分が上だからといって木村が咸臨丸司令官になり、自分がその下の艦長になったことには、不満があったらしい。勝は長崎海軍伝習所時代、人をまとめるのはうまかったが、数学などは成績が悪く、実際の操船もそれほどできなかったと言われている。その上、咸臨丸が太平洋に出てから、大変な船酔いをすることまでわかった。艦長室に入ったまま、勝がほとんど船上に出て来なかったことは、複数の人が書き残している。あげくには、さまざまな不満も手伝って、太平洋の真ん中で、自分は一人で帰るからボートを下ろせとわめいて周囲をてこずらせるしまつだった。勝海舟については、『氷川清話』(角川文庫)や『海舟座談』(岩波文庫)と言った、自らを語った記録がある。しかし晩年の勝は、自慢話ばかりするじいさんになってしまったから、咸臨丸でのぶざまな姿など、彼自身は記録していない。
 艦長がこんな状態だから、荒海でまともに船を操ることなどできず、帆柱に登って帆をたたんだり、広げたりする作業は、みんなアメリカ人がやった。日本人は、甲板での当直仕官をだれが務めるかさえ決めていなかったと、ブルックは書き残している。十一人のアメリカ人がいなかったら、咸臨丸は太平洋を横断できなかっただろう。
 咸臨丸に乗り組んだ日本人は、九十六人いた。そのうち水夫は五十人。水夫のうち三十五人は、瀬戸内海に浮かぶ塩飽(しわく)諸島(香川県)の船乗りだった。彼らもまた、長崎海軍伝習所で教育を受け、咸臨丸に乗船した人々だった。

サンフランシスコの日本人の墓
 香川県丸亀市(一部は坂出市)の塩飽諸島は、海賊の島である。塩飽水軍は、織田信長の本願寺攻めに加勢した。豊臣秀吉も、六百五十人を「御用船方」に任命し、彼らに島を領知させる朱印状を与えた。彼らは「人名」(にんみょう)と呼ばれ、一般島民の上に立つ独特の身分制度ができた。その制度は徳川家康に引き継がれた。つまり塩飽諸島は江戸時代を通じて、天領でも大名領でもない、珍しい自治領だったのである。
 中心地の本島へ、私が丸亀港からフェリーで渡ったのは、2001年五月だった。無明舎出版の編集長、鐙啓記さんと二人で大阪から北海道の納沙布岬まで行った、北前船の痕跡を探す旅の途中だった。
 戦国の世が完全に終わりを告げ、平和になった江戸時代、塩飽の船乗りたちは回船(商船のこと)を動かし始めた。彼らは信仰する「金毘羅」の旗を船に立て、海を押し渡った。青森県の下北半島、川内町にも塩飽衆の墓があるほどで、彼らの活躍は驚くほど広範囲にわたる。そして、海の男を輩出し続けた。そういう伝統があるからこそ、長崎海軍伝習所が開設された時、この海賊の子孫たちが新時代の水夫候補として送りこまれたのである。
 と、そこまでは「誇らしい歴史」なのだが、実際には、咸臨丸の航海、少なくともアメリカまでの往路では、彼らはあまり役に立たなかったようだ。まず、一枚の大きな帆を広げて走る和船と、何本も帆柱があって、たくさんの帆を使う洋式帆船ではだいぶ勝手が違った。帆柱の先端にまで登り下りして帆を操作するようなことは、彼らには難しい技術だった。それに、日本海が荒れ狂う冬は北前船が航海できなかったことでもわかるように、荒海を航海した経験が、彼らにはなかったのである。だから、アリューシャン列島へ近づき、大波で咸臨丸が翻弄されるころになると、日本の水夫たちは甲板へ出るのさえ嫌がったという。アメリカ人水夫がマストに登ったのは、そうするしかなかったのである。
 さて、塩飽の本島港から歩いて五分ほどのところに、「人名」の中から選ばれた四人の「年寄」が自治行政を行った「塩飽勤番所」がある。今は資料館になっていて、徳川家康の朱印状などの歴史資料が展示されている。
 その中に、咸臨丸に乗り組んだ松尾延長(信)次郎、向井仁助の二人の写真があった。サンフランシスコで撮った記念写真だ。写真技術はすでに日本に伝わっていたが、一般庶民が気軽に撮ってもらえるようなものではなかった。二人の水夫は、大事な写真を肌身離さず故郷へ持ち帰ったのだろう。
 余談だが、岩波文庫の『福翁自伝』を開くと、若き日の福沢諭吉の写真が載っている。ちょんまげの福沢が椅子に腰かけ、その隣に、美しいアメリカの少女が立っている写真だ。少女は十五歳で、これを撮った写真屋の娘である。福沢は一人でこっそりと写真屋を訪れ、少女に「一緒に撮ろう」と誘った。その写真を咸臨丸の同乗者に見せたのは、帰路、ハワイを出てからのことだ。「船中の若い士官たちは大いに驚いたけれども、口惜(くや)しくも出来なかろう、と言うのは、サンフランシスコでこのことを言い出すと、直(すぐ)に真似をする者があるから、黙って隠して置いて、いよいよハワイを離れてもうアメリカにもどこにも縁のないという時に見せてやって」と、自慢げに福沢は語っている。
 この話で、咸臨丸はハワイ経由で帰国したこともわかる。最短距離の北の海ではなく、ハワイに寄港したのは、この航路なら波も穏やかで、日本人だけでも操船できると考えたからだろう(実際は、五人のアメリカ人水夫が、補助員として復路も同行した)。
 塩飽の水夫の中には、後に榎本武揚とともに箱館戦争を戦い、明治の日本海軍でも働いた石川政太郎もいた。石川が書き残した「咸臨丸航海日記」も、塩飽勤番所に展示されている。開かれたページには、二基の墓が描かれていた。熱病のために客死し、サンフランシスコのローレルヒル墓地に葬られた塩飽衆、源之助(25歳)と富蔵(27歳)の墓である。咸臨丸が帰国の途についた時、ほかにも八人の水夫が熱病にかかっていて、サンフランシスコの病院に残された。その一人、長崎出身の水夫、峯吉(年齢不祥)も死んだ。峯吉の葬儀は、東洋貿易商チャーレス・ウォルコット・ブルークスが執り行い、やはりローレルヒルに葬った。ほかの病人は幸い全快し、ブルークスが便船に乗せて箱館へ送り届けた。
 日本人が太平洋を越えてやって来たことは、当時のアメリカでは大ニュースになり、客死した船乗りのことも、サンフランシスコの新聞で報道された。しかし、それは次第にアメリカ人にも、日本人にも忘れられて行った。彼らの墓が思い出されたのは、明治三十年になってからだ。文倉平次郎という人が、偶然に墓を発見したのである。

[参考文献]
『相楽総三とその同志』(長谷川伸=中公文庫)
『長崎海軍伝習所の日々』(カッテンディーケ著、水田信利訳=平凡社・東洋文庫)
『長崎海軍伝習所−十九世紀東西文化の接点』(藤井哲博=中公新書)
『福翁自伝』(福沢諭吉=岩波文庫)
『北前船 寄港地と交易の物語』(文・加藤貞仁、写真・鐙啓記=無明舎出版)
『箱館戦争』(加藤貞仁=無明舎出版)
『軍艦奉行木村攝津守−近代海軍誕生の陰の立役者』(土居良三=中公新書)
『氷川清話』(勝海舟=角川文庫)
『海舟座談』(巌本善治編=岩波文庫)
『日本の海軍・上』(池田清=学研M文庫)
『幕府軍艦咸臨丸 上・下』(文倉平次郎=中公文庫)
『幕臣列伝』(綱淵謙錠=中公文庫)
『幕末の三舟−海舟・鉄舟・泥舟の生きかた』(松本健一=講談社選書メチエ)


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