んだんだ劇場2004年11月号 vol.71
No6
赤報隊に参加した秋田人

処刑された八人の志士
 諏訪湖の北岸、長野県下諏訪町の市街地の一角に、「魁塚」(さきがけづか)、または「相楽(さがら)塚」と呼ばれている場所がある。戊辰の年の慶応四年(1868)三月三日、「偽(にせ)官軍」という罪状で、八人が斬首された場所だ。
 彼らは「鳥羽・伏見の戦い」直後、「官軍の先鋒」として出発し、信州、上州を経て江戸攻撃を目指す一隊だった。その名前を「赤報隊」(せきほうたい)という。「赤報」というのは、「赤心報国」、つまり「誠心誠意をもって国につくす」という意味だ。だが、その途上、「官軍の名を語る無頼の徒」という烙印(らくいん)を押され、首を斬られたのである。隊長は相楽総三(そうぞう)という人だった。
 しかしこれは、まったくの冤罪(えんざい)だった。処刑の直後から彼らには同情が集まり、明治三年六月に、八人の名を刻んだ墓碑が建てられた。たまたま、相楽の元同志だった落合直亮が、当時の「伊那県」大参事にとなっていたおかげで、墓碑建立が実現した。落合直亮は、明治時代の国文学者、落合直文の養父である。
 私がここを訪ねたのは1989年、夏休みの家族旅行の途中だった。諏訪大社(下諏訪町にあるのは「下社」の方だ)は、京都の松尾神社と並ぶ「酒の神様」で、全国の酒造会社が奉納した一斗樽の山は壮観だったが、それを見た後で、なぜ石碑などを見に行ったのか、家族には理解しがたいことだっただろう。
 秋田にいたころから、私はぜひ一度、ここを訪ねたいと思っていた。それは、処刑された八人の中に、二人の秋田藩士がいたからだ。そして、もしかしたらここで同じ運命をたどったかもしれない同志の一人に、後に大村益次郎を暗殺することになる金輪五郎がいたからでもある(大村益次郎襲撃事件は、この「余話」の二回目に書いた)。訪問は、秋田から東京に移って四年目に実現した。
 それから十五年が過ぎた。今は、ちょっと記憶がおぼろげになっているが、「魁塚」は、街の表通りから少し入った住宅街に、ポカッと空いたような場所だったと思う。それにそのころは、「魁塚」という名称は知らなくて、「相楽総三の墓」を探して行ったのである。実際そこには、「史跡 相楽総三の墓」という標柱が立っていた。
 今回、改めて調べると、墓碑には、上段に相楽の名があり、下段に七人の名が列記されている。その中の大木四郎と、竹貫三郎が秋田の人だ。竹貫については、この「余話」の一回目で、秋田市八橋の官修墓地(全良寺)に墓があることに触れた。
 大木も竹貫も、さらに金輪も、相楽とともに、戊辰戦争の発端に重要な役割を果たした人だった。

薩摩藩の陰謀
 薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通は、かなり早くから、武力によって江戸幕府(徳川政権)を倒そうと考えていたようだ。しかし、そのきっかけがつかめないでいた。
 そこで、江戸の薩摩藩邸(現在の東京都港区三田にあった)を根拠地にして、江戸周辺で騒ぎを起こし、幕府があわてているところで関東の志士たちが江戸で挙兵する、という策謀を練った。結果的には、慶応三年十二月二十五日、庄内藩(山形県鶴岡市、藩主は酒井氏)を主体とする軍勢が薩摩屋敷を攻撃、炎上させ、戊辰戦争の導火線となった。大坂でこの事件を知った旧幕府軍は、「薩摩藩を天皇のそばから排除する」ことを旗印に京へ向かい、その途中で慶応四年一月三日、「鳥羽・伏見の戦い」が起きた。薩摩藩邸焼き討ちの八日後のことである。
 そういう「江戸かく乱」の役目を、西郷から依頼されたのが、相楽総三だった。
 相楽は江戸に生まれ、江戸で育った。本名は、小島四郎将満(まさみつ)という。相楽総三というのは、薩摩屋敷に入ってからの変名である。父親の兵馬は下総北相馬郡(現在の茨城県守谷市のようだが、詳しくは調べていない)の人で、金融で財を成し、郷士の身分を手に入れて江戸へ出た。その後の方が大いに成功したらしく、赤坂に屋敷を構え、天保十一年(1840)に四男の四郎が生まれたころは、大変な金持ちになっていた。
 小島四郎は、二十歳のころには国学と兵学の塾を開いて、門弟が百人もいたという。系譜は不明だが、平田篤胤(あつたね)系統の国学を講じていたと推測される。そのころの尊皇攘夷思想家には、平田国学系の人が多かった。そういう影響からか、四郎は文久元年(1861)、突然塾を閉鎖して旅に出た。『明治維新草莽運動史』(勁草書房)で、著者の高木俊輔氏は、その前年の「桜田門外の変」を契機に政治活動に入ったのではないか、と述べている。そして、「清河八郎も、それまでの学問研究・講義の生活を打ち切り、政治的実践に踏み出している」と指摘している。確かに、「浪人が幕府の大老を殺した」衝撃は、当時の人々にとってすさまじいものだっただろう。これ以後、京に上る尊攘派志士が急増したのも事実だ。
 だが、小島四郎が多くの志士と違っていたのは、旅に出るとき、父親から五千両もの金をもらっていることだ。今なら四億円にも相当する(幕末はインフレが進んでいたので、ちょっと少なく換算しなければいけないかもしれない)。それにしても千両箱で五箱は大きな荷物だから、あるいは、分割して引き出したのかもしれないが、翌年に帰宅した時には使い果たしていた。
 四郎は「久保田(秋田)へ行っていた」と、父親には言った。しかし実際は、同志を募るために諸国を歩き回っていた。高木氏は「信州から上州・野州、それから秋田にかけて」と『明治維新草莽運動史』に書いている。「秋田にかけて」とはあいまいな言い方だ。それに、なぜ遠隔地の秋田が突然登場するのか、高木氏は四郎自身の言葉以外に、論拠を示していない。想像すれば、平田篤胤は秋田の出身で、江戸で大成したが秋田へ戻って没し、その門人が秋田には多かったから、四郎は学問的系譜をたどって秋田へ行ったのかもしれない。が、秋田の方にも、それを裏づける史料はない。
 はっきりしているのは、このころ関東地方では、いくつかの「倒幕挙兵計画」があり、ほとんど未遂に終わったが、それらの計画に小島四郎が資金援助をしていたことだ。五千両の大部分は、それで消えた。そんなつながりがあって、相楽総三と名を変えた四郎が、江戸の薩摩藩邸に入った時、たくさんの人々が呼びかけに応じて集まったのである。
 小島四郎は、元治元年(1864)の筑波挙兵(天狗党の乱)にも参加したが、すぐに江戸へ帰った。この争乱が、水戸藩内の派閥抗争であることに気づいたからだと言われている。この時の同志も、後に薩摩藩邸に駆けつけている。
 しばらく家に腰を落ち着けていた四郎は、結婚し、長男も生まれたが、慶応二年、京へ上った。そこで頭角を現した四郎は、薩摩藩の伊牟田(いむた)尚平と知り合い、西郷隆盛の知遇を受けることになる。伊牟田は江戸で清河八郎の塾生だった経歴があり、尊攘派志士に知己が多かった。英国公使館の通訳、ヒュースケンを暗殺した男であり、薩摩藩の諜報員としてさまざまな場面に顔を見せる男だ。
 相楽総三についての「根本史料」とさえ言われる、作家長谷川伸の『相楽総三とその同志』(上・下、中公文庫)によると、四郎が江戸へ発つ前夜、西郷隆盛と大久保利通が京の料亭で、はなむけの宴を開いたという。列席者はもう二人いて、それは四郎と一緒に江戸の藩邸に入る薩摩藩の伊牟田尚平と益満(ますみつ)休之助だった。益満は江戸藩邸で生まれ育ち、江戸弁が話せたので、やはり諜報活動に活躍した藩士だ。この二人とともに江戸へ下って以後、四郎は「相楽総三」を名乗る。二十八歳だった。
 
薩摩藩邸の浪士たち
 相楽たちが江戸・三田の薩摩藩上屋敷に到着したのは、慶応三年十月初めだった。すぐに相楽は各地の同志へ連絡するとともに、江戸市中へ「浪人探し」に出た。長谷川伸によると、相楽は浪人にけんかを吹っかけ、これはと思う腕の者がいると、着ていた羽織を脱いで与え、浪士隊へ勧誘したと言う。こうして十一月末までに、浪士隊は五百人に膨れ上がった(中には役立たずの男もいて、結局三百人程度に落ち着いたようだ)。相楽総三は総裁、落合直亮が副総裁となった。
 秋田の竹貫三郎、大木四郎、金輪五郎も、呼びかけに応じてやって来た仲間だ。大木については不明なことが多いが、竹貫と金輪は文久三年(1863)に脱藩して京へ上った。秋田市の郷土史家、吉田昭治さんは、二人の脱藩は相楽の勧めがあったからではないかと推測している。その真偽はともかく、相楽と彼らが京で交際していたのは間違いないだろう。
 当時十九歳の大木は、浪士隊いちばんの剣客だったという。『相楽総三とその同志』に、面白いエピソードが紹介されている。浪士隊の幹部に、越後出身の長谷川鉄之進という人がいた。漢学を学んだ人で、国学系が主流の浪士隊の中では、意見が異なることが多かった。その上、酒癖が悪かったという。ある日、また仲間と衝突した長谷川に、大木四郎が飛びかかって殴ったというのである。長谷川は、大木に殴られたのが原因で、薩摩屋敷を去った。
 秋田藩からはほかに、荒井仁蔵、岩屋鬼三郎、上杉深雄、河内一郎の四人が参加している。合わせて七人は、薩摩屋敷浪士隊の中では、かなりまとまった数だ。このうち上杉は、少年のころに江戸へ出て剣術の修行をしていたが、ほかは尊攘思想に共鳴して金輪と同じころに脱藩したようだ。
 相楽が浪人を集めている最中の十月十四日、将軍徳川慶喜が大政奉還を申し出た。自分から将軍職を返上するというのである。慶喜は、天皇を中心とした合議による政体を意図していた。それでは薩摩藩の「倒幕計画」が宙に浮いてしまう。西郷らは武力によって幕府を倒し、徳川慶喜を表舞台から降ろしてしまわなければ、そのころアジアを植民地化していた欧米列強に対抗できる国はつくれないと考えていた。倒幕戦のきっかけをつかもうとする相楽らの役割は、より重要になったと言える。
 そこで相楽らは、野州(下野=栃木県)、甲州(山梨県)、相州(相模=神奈川県)の三か所で同時に騒動を起こして幕府の注意をそちらへ向けさせ、手薄になった江戸で挙兵する作戦を立てた。実際に浪士たちが動き出したのは、十一月中旬から十二月中旬のことだった。しかしすべて幕府に鎮圧され、百人もの戦死者、死刑者を出す、惨憺(さんたん)たる結果に終わった。
 余談だが、このうち、出流(いづる)山(栃木市)を占拠して、江戸と奥羽の通行を分断しようとした野州隊に、現地で参加した大谷千乗という若い僧侶がいた。彼は国定忠治の子供である。忠治が刑死したのをはばかって母親が寺に入れたのだが、浪士隊を見て血が騒いだらしい。最後には捕らえられて、処刑された。
 もうひとつ余談だが、『相楽総三とその同志』に、野州隊のひとりとして、会津の渡辺勇次郎という名前が載っている。渡辺は栃木陣屋で戦死した。しかし、京都守護職として尊攘派浪士の取り締まりにあたった会津藩から、本当にこの騒動に参加した人がいたとすれば、非常に珍しいことだ。
 会津藩からはもうひとり、原宗四郎という名前があって、甲州隊の中にいた。だが実は、「会津浪人」はウソだった。彼は本名を甘利建次郎と言って、八王子千人同心であり、スパイとして薩摩屋敷に潜入していたのである。甘利の連絡で、甲州隊の動きは幕府に筒抜けとなり、彼らは目的地へ着く前に壊滅した。
 秋田の岩屋鬼三郎は相州隊に加わり、小田原藩大久保氏の分家の陣屋を焼き払った。しかし同時蜂起するはずの甲州隊が鎮圧されたため、さっさと江戸へ戻った。
 三か所の同時蜂起作戦に失敗した相楽は、今度は江戸市中の豪商を襲って金品を奪うという挙に出た。ただし、狙うのは外国商品を扱う商人や、幕府御用達の商人に限った。幕府では、強盗事件の犯人が薩摩屋敷を根城にしていることを探知していたが、藩邸に逃げ込まれては、手出しができなかった。実際には、一連の騒ぎを利用して出没した「本職の強盗」も多かったという。しかし江戸市民には、すべて相楽たちの所業と思われ、悪名を残すことになった。
 高木俊輔氏はこの強盗事件を、薩摩藩ではあまりに多数の浪士を養いきれなかったので、相楽が自分たちの軍資金を集めるためにやった、という説を述べている。私は単純に、将軍のお膝元を騒がせて、幕府の方から薩摩屋敷に手を出させる狙いだと思っていたのだが、五百人に食わせる飯をどうしたのかと考えて見ると、確かに金はいくらでも必要だったに違いない。高木氏の指摘にはうなずける。
 相楽は、江戸市中警備に任じられていた庄内藩屯所に、鉄砲を撃ち込むことまでやった。そして十二月二十三日の朝五時ごろ、江戸城の二の丸が炎上した。これは、薩摩の伊牟田尚平が放火したのだと言われている。ここまでやられては、幕府も見過ごすことができなくなった。勝海舟は薩摩藩の陰謀を見抜いていたようで、薩摩屋敷へ手を出すことに反対したが、小栗上野介ら強硬派が議論を押し切って、庄内藩などに薩摩藩邸攻撃を命じた。攻撃は二十五日の朝に決行された。屋敷を囲んだ攻撃軍は千人を超えていた。
 この時の浪士の死者は十七人に過ぎなかったが、藩邸にいた薩摩藩関係者は五十人近くの死者を出している。
 大半の浪士は逃げた。相楽は同志に「京都の東寺で落ち合おう」と告げ、自身は品川沖に碇泊していた薩摩藩の汽船「翔鳳丸」に乗船した。二十人以上が相楽と行動をともにした。秋田の大木四郎もそのひとりだ。
 吉田昭治さんの『明治維新 秋田人物誌』(みしま書房)によると、荒井仁蔵はその前夜、深川の辺りで捕まって行方不明になり、河内一郎はこの戦闘で負傷して捕まり、翌年三月に釈放された。上杉深雄は、「秋田での戊辰戦争で活躍」と書いてあるから、うまく逃げることができたのだろう。
 
赤報隊の運命
 薩摩屋敷の浪士隊について、かなりの字数を費やしたのは、相楽総三らが命がけだったことを、まず知ってもらいたかったからだ。事実、江戸での活動の中でたくさんの同志が死んで行った。
 京にいた西郷隆盛は、三田の藩邸が焼き討ちされたことを聞いて、「戦端が開けた」と大喜びしたという。それが慶応四年一月二日のことで、翌日、「鳥羽・伏見の戦い」が起きた。多くの犠牲の上に、西郷らの陰謀が成功したと言える。
 西宮(兵庫県)に上陸した相楽たちが、薩摩藩が本陣としていた京都の東寺にたどりついたのは、五日の午前中だった。そしてその夜、江戸で船に乗れなかった浪士のトップランナーで、金輪五郎が約束の東寺にゴールインした。二十日ほどかかるのが普通の江戸―京都間を、十日で走破したのである。健脚もさることながら、沿道諸藩の警戒網をどうやってかいくぐって来たのか、驚くばかりである。
 再会の感激もつかの間、相楽たちは翌六日の夜には、近江・坂本(滋賀県大津市)へ向けて出発した。綾小路俊実と滋野井公寿という二人の公家が、京都を脱出して、東征軍の先鋒隊を結成することになっていた。それに加わってくれと、相楽は西郷に頼まれたのである。その先鋒隊に付けられた名前が、赤報隊である。
 これには、新選組から脱退した連中(近藤勇らに殺された伊藤甲子太郎の一派)や、近江水口藩の人々も参加していた。「元新選組」には、秋田県由利郡出身の阿部十郎もいた。阿部は前年末、大坂から京へ向かう途中の近藤勇を狙撃したグループに名を連ねている。近藤勇は肩を撃たれた。重症で、そのために「鳥羽・伏見」の指揮は土方歳三に任せることになった。その一発は阿部が撃ったという説があるが、はっきりしない。
 赤報隊は、泥縄式の寄せ集めだったから、最初から、あまりまとまりのよい組織ではなく、「官軍」の中での位置付けも明確ではなかった。その中で、「江戸での実績」がある相楽総三は、「赤報隊は中山道を進み、東海道を進む東征軍と呼応して江戸を制圧する」ことを主張した。いろいろな行き違いがあって、赤報隊は間もなく解散させられるが、相楽たちは主張どおりに突き進んだ。その先々で、「新政府は年貢を半減する」と農民に伝え、信州の諸藩には新政府への協力を約束させた。
 解散命令を受けて戻った元新撰組のように、相楽隊も京へ戻れという指令が来た。しかし、相楽は無視した。軍律違反に問われることを心配した伊牟田尚平が説得に来たが、それにも従わなかった。一刻でも早く中山道を押さえることが、先鋒として正しい行動だと、相楽は信念を持っていた。だが、相楽隊が前進するほどに、京都の態度は冷ややかになって行った。
 直接の問題は、「年貢半減」だった。相楽たちは許可を得て布告していたのだが、年貢を半分にすると、新政府の財政がまかなえなくなることに、だれかが気づいたのだ。それは、どうも、岩倉具視(ともみ)あたりらしい。いまさら「半分にはできない」とは言えないので、相楽たちを「偽官軍」にしてしまったのだと言われている。
 私はもうひとつ、「鳥羽・伏見」以後、どんどん朝廷側に有利に動く情勢を見て、新政府の中枢にいる連中に、「藩単位」でこれからのことを推し進めるべきだ、という気分が強まったのではないかと思っている。どの藩にも属さない相楽ら浪士は「用済み」であり、自分たちが主導権を握る新国家建設のためには、むしろ有害だと考え始めたのではないだろうか。それに、諸藩の鎮撫は、朝廷から派遣された公人がやるべきことであって、浪人や、「元百姓」などがすべきことではない、という論理も成り立つ。
 事実、信州上田出身の丸山梅夫は、隊の連絡の途中で上田藩兵に逮捕された時、「房山村の百姓徳五郎神妙にしろ」(長谷川伸『相楽総三とその同志』)と言われた。丸山の家は豪農で、ほかの場所では丸山梅夫という変名で呼ばれ、武士として遇されていたとしても、上田藩にとっては領内の農民でしかなかったのである。庶民を蔑視するこうした武士たちの身分意識は、現代の日本人には理不尽に写るが、この時代には当たり前のことだった。新しい時代を夢見て命がけで働いて来た相楽総三が、いとも簡単に新政府から排除されてしまうのも、「相楽は本来の武士ではない」という差別意識があったからだと、私には思われてしかたない。
 三月二日、相楽総三は、東山道鎮撫総督府から、下諏訪の本陣に出頭するよう命じられた。相楽は、大木四郎だけを連れて行った。しかしそこに岩倉具定(ともさだ)総督(具視の子)の姿はなく、二人は即座に捕らえられた。大木は刀を抜いたが、相楽はそれを押しとどめ、縄を受けたという。この日、他の六十人の隊士も捕縛され、雨の中を一夜、木に縛り付けられて明かした。
 竹貫三郎も含めて八人の幹部が、翌日、斬首された。取り調べはまったく行われなかった。斬首の直前に、あいまいな罪状が申し渡されただけである。
 この時、金輪五郎は京都との間の連絡役を務めていたらしく、難を免れた。金輪はこのあと、奥羽鎮撫総督府の沢為量(ためかず)副総督に従って秋田へ戻り、戊辰戦争で手柄を立てる。だが志士として奔走し、沢副総督の従士という「出世」も果たした金輪が、なぜ最終的に、大村益次郎襲撃に荷担したのだろうか。直接的な理由はともかく、根底には、赤報隊事件によって生まれた新政府に対する強い不信感が、金輪の心に横たわっていたに違いない。

長谷川伸の著書
 相楽総三の孫、木村亀太郎と、赤報隊関係者の奔走によって、相楽総三に「正五位」が贈られたのは、昭和三年である。その翌々年の昭和五年四月三日、八人の名を刻んだ墓碑に並んで、贈位の記念碑が建てられた。相楽総三が没して六十二年後だった。
 そこに至る苦労は、『相楽総三とその同志』冒頭の、「木村亀太郎泣血記」以上のものは見いだせない。おそらく今後も、だれも書き得ないだろう。
 『相楽総三とその同志』はすべてにわたって、驚嘆すべき綿密な考証によって成立した著作だ。長谷川伸がこれを上梓したのは、昭和十八年だった。
 私が手にしている文庫本は、昭和五十六年に発行された。それをいつ購入したのか、はっきりしないが、新刊書で「上巻」だけを買ったことはよく覚えている。ところが、「下巻」が品切れだった。ようやく入手したのは三年ほどたってからだ。出張で行った福島県郡山市の、駅前の古本屋で見つけたのである。しかも、書棚には「下巻」しかなかった。文庫本が脈絡なく並ぶ書棚で、そこに目が吸い寄せられたとしか言いようがないあの時のうれしさは、今も忘れられない。
 今回、あらためて「上・下」二冊を通して読んだ。そして私は、「史伝」とはこういうふうに書くものなのだ、という思いを強くしている。
 先日、北方謙三の『草莽枯れ行く』(集英社文庫)を買った。新聞の広告で、相楽総三を描いた小説だと知っていたから、書店で見つけてすぐ買った。だが、裏表紙のあらすじを読んだだけで、いまだに中を開いていない。相楽が「上州浪人」であったり、清水の次郎長や新選組の土方歳三と友達になったりと、あまりにも史実を無視していて、読む気になれないのである。
 赤報隊については、三船敏郎主演の映画もある。岡本喜八監督で、1969年に公開された「赤毛」という映画だ。相楽総三は田村高広が演じている。ずいぶん前に、雑誌でこの映画が取り上げられていて、その時は見てみたいと思ったのだが、これも今回、インターネットであらすじを読んで、急速に興味を失った。主演の三船は、隊士の一人、「赤毛の権三」という役で、自分で飛び出した村へ官軍として凱旋する、と言ったストーリーだ。
 歴史の中で取り上げられるべき人間は、どう生きて、どう死んで行ったか、丹念に事実を積み重ねることが、最も雄弁にその人間を語ることになると、私は考えている。想像力が必要なのは、史実で埋められない、ほんのちょっとした空間でしかない。北方謙三の小説や、三船敏郎主演の映画には、別の面白さがあるのかもしれないが、長谷川伸の仕事に比べるべくもない。
 最後にひとつだけ付記しておくと、相楽とともに殺された大木四郎も竹貫三郎も、まだ名誉は回復されていない。

[参考文献]
『相楽総三とその同志』(長谷川伸=中公文庫)
『明治維新草莽運動史』(高木俊輔=勁草書房)
『明治維新 秋田人物誌』(吉田昭治=みしま書房)
『金輪五郎 草莽・その生と死』(吉田昭治=秋田文化出版社)
『幕末維新 三百藩諸隊始末』(別冊歴史読本=新人物往来社)
『戊辰大戦争』(歴史読本1998年12月号=新人物往来社)
『新選組』(歴史読本セレクト 幕末維新シリーズ@=新人物往来社)


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