んだんだ劇場2004年8月号 vol.68
No3
土田衡平は天誅組に参加したか?

壷坂寺から高取城址へ
 「妻は夫をいたわりつ、夫は妻にしたいつつ……」という名文句で始まる「壷坂霊験記」(つぼさかれいげんき)の舞台、奈良県高取(たかとり)町の壷坂寺を訪ねたのは、十五年ほど昔のことになる。夏休みの家族旅行で奈良に行き、家族は先に帰して、壷坂寺へは私一人で行った。
 近鉄壷坂山駅からバスに乗り、標高580m余の高取山中腹にある壷坂寺へ向かった。バス道路のわきは、かなり深い谷で、川が流れていた。人形浄瑠璃では、盲人の沢一(さわいち)が世をはかなんでこの谷に身を投げるが、日ごろの信心と、献身的に夫につくす女房のお里を憐れんだ壷坂の観音様が、沢一を生き返らせるという物語だが、浪曲では、願を掛けた夫婦が毎日山へ登り、谷川の水で目を洗ったおかげで、満願成就の日に沢一の目が見えるようになった、というように改作されていたと思う。実は私は、浄瑠璃も歌舞伎も見たことはなくて、冒頭の名文句は浪曲で覚えたものだ。それも、次の「夏とは言えど片田舎」までしか知らないし、ストーリーにも記憶違いがあるかもしれない。
 しかし、私が壷坂寺へ行ったのは、「霊験記」をありがたく思ったからではなく、寺からさらに奥の、高取山に登るためだった。山頂には、高取藩二万五千石(植村家)の城跡があるはずだった。
 高取藩は大和盆地の南端に位置し、伊賀、伊勢への交通の要衝だった。二代将軍秀忠の小姓から身を起こし、大坂の陣での戦功によって大名に取り立てられた家政(いえまさ)に始まる植村家は、以後二百年間、転封もなく、さしたる波乱もなく、この「かなめの地」に鎮座し続けた。その静謐(せいひつ)を破ったのは、文久三年(1863)八月の「天誅組の挙兵」だった。大納言中山忠能(ただやす)の子、忠光を総大将とした尊皇攘夷浪士の一団が、幕府の五條代官所(奈良県五条市)を襲い、さらに、五條からは北東に位置する高取城を目指したのである。
 壷坂寺から城跡まで、肥満気味の私には、かなりきつい山道だった。四十分ほどかかっただろうか。山頂には、どうやってこんな巨大な石をここまで運んだのだろう、と思わせる石垣が残されていて、その上に腰を下ろすと、吹き抜ける風が心地よかった。しかし帰りの山道は下りとは言え、高取町役場まで四キロ以上ある。奈良県桜井市の博物館にレプリカが展示されている古代の遺物「猿石」の本物が、その山道のどこかにあると聞いていたが、くたびれて探す気になれなかった。たまたま城跡を見に来ていた老夫婦と出会い、その車に乗せていただいて下山した。
 江戸時代の高取藩士も山登りは大変だったらしく、殿様の屋敷も、藩の役所もすべてふもとの平地にあった。天誅組を迎え撃ったのは、現在の町役場から少し南の辺りだ。八月二十六日の朝、西の五條につながる一本道の街道を、天誅組は縦隊で進軍して来たという。千人以上いたようだ。これに対して高取藩の方は、三百人よりちょっと多いくらいの人数だった。だが町役場の場所は当時「鳥ケ峯」と言って、藩の軍事調練に使われていた台地だった。その南に街道があり、さらにその南側も台地だった。つまり、街道は南北の台地に挟まれた、一段低い場所を通過していたのである。こんな所では、たとえ天誅組が何千人いても、最先頭の一団しか戦えない。少数の高取藩にとって、最良の迎撃地だった。
 しかも高取藩には、大砲があった。
 この戦いについては、司馬遼太郎が『おお、大砲』(新潮文庫「人斬り以蔵」所載)という小説を書いている。それによると、高取藩は「ブリキトース」と呼ばれる大砲を六門も持っていた。だがそれは、大坂の陣で淀君を震え上がらせたという歴史的な遺物で、高取藩に下賜され、以後二百五十年、ただ磨いていただけで、実射訓練もしていなかったという代物(しろもの)だった。
 吉見良三著『天誅組紀行』(人文書院)には、そのうち四門を台地に引っ張り出したと記されている。ありったけの小銃も持ち出した高取藩は、一斉射撃した。大砲も、たぶん、うまく発射できたのだろう。正確な数字の記録はないが、天誅組には多数の戦死者が出て、五十人以上が捕虜となった。高取藩の方では、偵察中に捕まり、斬首された西島源左衛門がただ一人の犠牲者だった。
 いずれにせよ、天嶮「高取城」を奪取して立てこもろうとした天誅組は、あっけなく撃退された。幕末史、と言うより江戸時代史の中で、植村氏の高取藩が表舞台に登場した、唯一の「一日」だった。

土田衡平という人
 私が高取山に登ったのは、天誅組そのものに興味を抱いたからではない。
 秋田県の土田衡平(つちだ・こうへい)という人が、天誅組に参加したという話があったからだ。土田衡平は「矢島藩士」だった。
 鳥海山の北側に矢島町(由利郡)という、小さな城下町がある。讃岐(香川県)で十七万石余を領していた生駒(いこま)高俊が、江戸初期に、家臣の不和を理由に改易され、改めて一万石を与えられたのが矢島だった。しかも次の高清の代に、弟に二千石を分知したので、生駒家は八千石の交代寄合旗本となった。だから幕末時、生駒家は大名ではないし、「藩」とも呼べないのだが、戊辰戦争で天朝方に組した功で、明治には一万石に復帰したから、ここでは便宜上「矢島藩」として話を進める。
 土田衡平は、脱藩して尊王攘夷運動に身を投じ、元治元年(1864)の水戸天狗党の乱に参加した。ただし本隊ではなく、栃木陣屋の焼き討ちなどで悪名を残した、田中愿蔵(げんぞう)隊の参謀となった。水戸天狗党は、藩内の権力争いという面も多分にあり、尊皇と同時に「敬幕」の立場をとった。水戸藩は御三家のひとつだから、当然のことだ。しかしその中で、田中愿蔵隊だけは「倒幕」を」旗印にした。おそらく、倒幕を標榜した最初の軍事行動だろう。本隊とは別個の行動を取り、最後は、現在の福島県との境界、八溝山系で壊滅する。土田衡平は福島県の相馬まで逃げて捕らえられ、斬首された。
 土田衡平も参加したという天誅組の挙兵は、その前年のことである。
 矢島町出身で、兵庫県で教員生活を送った姉崎岩蔵さんが書いた『生駒藩史』(昭和五十一年、矢島町公民館発行)によると、明治二十年に、土田衡平を主人公にした小説『錦之御旗』が発表されていて、それは衡平が天誅組で活躍する物語だと言う。著者は、元水戸藩士で「東京府士族 高瀬恭助」という人だ。
 芥川賞作家の中山義秀が昭和三十七年、田中愿蔵を主人公にして書いた小説『関東狂少年』(新潮社「中山義秀全集」第四巻所載)では、「隊長の愿蔵はまだ二十一歳、白面の青年だが彼の参謀にしっかりした者がついていた。土田衡平といって、齢は二十九歳」と、衡平を紹介している。この小説では、衡平は天誅組に加わったが、「敗れて伊勢へのがれ、鳥羽の港から関東へ脱走して来た」ことになっていて、天誅組での経験が、田中愿蔵隊の活躍に生かされる筋立てになっている。
 土田衡平については、司馬遼太郎も書いている。戊辰戦争で征討軍と激闘を演じた越後長岡藩の家老、河井継之助(つぎのすけ)を描いた『峠』の一節だ。
 河井が、江戸の儒者、古賀茶渓の「久敬舎」の塾生だったころ、後輩に鈴木佐吉という少年がいた。河井を個人的な師匠として勉学していたが、備中(岡山県)松山藩の儒者、山田方谷のもとへ遊学するために河井が久敬舎を去ろうとした時、佐吉少年が次の師匠を誰にすればよいかを尋ねると、河井は「土田衡平がよかろう」と答えた。衡平も茶渓の門人だったが、継之助と衡平は話もしたことがない間柄だった。佐吉少年が衡平にその話をすると、衡平も驚いたが、河井継之助の「人物」については前々から認めていた、というストーリーである。つまり、河井継之助も土田衡平も、人間を見る目を持っていた人物として描かれているのである。
 佐吉少年は、足利藩(栃木県足利市)の藩医の子、鈴木三郎がモデルだ。彼は「無穏」と号した晩年、塾生時代の思い出を書き残しており、おそらく司馬遼太郎もそれをもとにして、『峠』で土田衡平に触れたのだろう。
 しかし私は、土田衡平が天誅組に参加したという話には、疑問を持っていた。
 天誅組について書かれたもののどこにも、土田衡平の名が出て来ないのである。例えば現在、天誅組の「根本史料」とされる『いはゆる天誅組の大和義挙の研究』がある。大阪毎日新聞の記者だった久保田辰彦が昭和六年に出した本で、徳富蘇峰が「この著述は、此の事件にとって大なる権威である」と、序文で述べているほどだ。しかしこの本にも、土田衡平の名はない。
 もちろん、偽名を使った可能性は高いので、史料に名前がないからといって否定はできないが、もうひとつの疑問があった。奈良の吉野の山奥で四分五裂した天誅組の敗残兵が、伊勢の海岸まで逃げられたのか、という疑問である。時代は違うが、本能寺の変の時、泉州堺にいた徳川家康は、紀伊半島を横断して伊勢へ出るのに、大変な苦労をした。伊賀者の助けがなかったら不可能だった、と言われている。土田衡平は、どうやって奥深い山々を踏破したのだろうか。現地を見れば、何か感触がつかめるかもしれない……。

天誅組の人々
 江戸の「久敬舎」にいた土田衡平は、その後出奔し、京へ上った。そして尊皇攘夷の志士と交友し、藤本鉄石の塾に入った。備前岡山藩を脱藩した鉄石は、長沼流の軍学を表看板にしていたが、同時に天照大神(アマテラスオオミカミ)を信仰する激烈な攘夷論者でもあった。彼の周囲には過激派が集まり、天誅組の挙兵では鉄石が総裁となる。だから、その門下だった土田衡平が、天誅組に加わるのは自然なことにも思われる。
 さて、「天誅組とは何か」について、簡単に書いておこう。
 黒船来航を機に論じられ始めた攘夷の声が高まるにつれ、京都の公家たちの発言力も増大した。朝廷(内実は攘夷派の公家たち)は、幕府に攘夷の実行を迫り、ついに十四代将軍徳川家茂(いえもち)を上洛させることに成功する。それが文久三年三月のことだ。そして八月十三日、孝明天皇が攘夷祈願のため大和へ行幸することが決まった。その「先触れ」として挙兵したのが、天誅組である。
 総大将となった中山忠光は、この時、十九歳だった。忠光の姉、慶子(よしこ)が宮中に入って生んだ子供が、後の明治天皇だから、忠光は明治天皇の叔父にあたる。そういう高貴な身分にありながら、激越な性格だったようだ。土佐勤皇党の領袖、武市瑞山の寓居が京都木屋町三条にあったことは、前回の「余話」で触れたが、忠光はひそかに武市を訪ね、そのたびにあまりに乱暴なことを言うので、当時は京都でたびかさなる暗殺の黒幕だった武市も、忠光をもてあましたと伝えられている。
 武市の隣の家には、一時期、土佐脱藩の吉村寅太郎が住んでいた。天誅組の旗揚げを画策し、中山忠光を担ぎ上げたのは、吉村だった。
 土佐からは、那須信吾も天誅組に加わった。土佐藩の参政、吉田東洋を斬り殺した男だ。吉田東洋は、藩主山内容堂のお気に入りで、藩内の尊皇攘夷論者を抑えつけていたために、武市の指示で、那須とほか二人が暗殺したのである。
 少し脱線するが、昭和四十四年に公開された、五社英雄監督の「人斬り」という映画がある。作家の三島由紀夫が出演して切腹シーンを演じ、翌年、実際に三島が切腹してしまったことでも話題となった映画だ。
 吉田東洋は、辰巳柳太郎が演じた。土砂振りの雨の中での東洋暗殺は、大変な迫力のある画面だった。が、那須信吾役が誰だったか、思い出せない。司馬遼太郎の『人斬り以蔵』を原作としたこの映画は、勝プロダクションの制作で、岡田以蔵は勝新太郎、武市瑞山は中代達矢だった。以蔵が自白し、東洋暗殺の黒幕、武市は高知で切腹させられる。
 
天誅組の最期
 五条市へ行くには、もちろん奈良市からの道筋もあるが、和歌山県橋本市からも近い。大坂から南下した天誅組は、堺から五條へ向かい、橋本市の北方に位置する山あいの道を通った。これは、楠木正成の千早城の跡を通るルートである。鎌倉幕府を倒した建武の忠臣に、自分たちをなぞらえていたのである。そして文久三年八月十七日、七万石余の天領を預かる五條代官所を襲い、代官の鈴木源内らを殺した。幕府の支配から領民を解放する、というのが彼らの大義名分だった。
 ここまでは「予定通り」だった。ところが翌日、彼らの運命は暗転する。
 薩摩藩、それに京都守護職の会津藩が圧力をかけ、天皇の大和行幸を中止させ、尊攘派公家を朝廷から追い出したのである。この事件は「八月十八日の政変」と呼ばれている。三条実美ら七人の公家は、長州藩を頼って京を脱出した。
 すでに旗揚げしていた天誅組は、この時点で「朝敵」となった。険阻な山城である高取城にこもり、形勢の好転を待つという作戦も、高取藩の迎撃であえなく瓦解した。
 その後の天誅組は、分裂、脱走などがあり、次第に人数を減らしながらも、およそ一か月にわたって各地で戦い続けた。と言うより、奈良県南部の山岳地帯をさまよった、と表現した方がいいかもしれない。最後は、現在の東吉野村で、それぞれが脱出路を求めることになった。
 当時は交通の要衝で、商家が軒を連ねていた鷲家口(わしかぐち)に陣を敷いた、追討軍の彦根藩(井伊家)先遣隊に、那須信吾ら六人が斬りこんだのは、九月二十四日の夜だった。六人は次々に戦死したが、この混乱に乗じて中山忠光ら二十人ほどが、鷲家口を突破し、山の中へ逃げ込んだ。そして忠光と側近の六人は、三輪山を通過して西へ向かい、三日目に大坂の長州藩屋敷へたどり着く。さらに、船で長州へ逃げた。
 だがその後、公武合体派が実権を握った長州藩の手で、中山忠光は暗殺されてしまう。
 また少し脱線するが、中山忠光が殺された時、侍女が、彼の子を身ごもっていた。慶応元年(1865)に生まれたのは、女の子だった。この子は成人して嵯峨侯爵家に嫁した。その孫娘が、満州国皇帝溥儀(ふぎ)の弟、溥傑(ふけつ)と結婚した愛新覚羅浩(あいしんかくら・ひろ)である。「浩」は日中戦争、文化大革命、日中国交回復という波乱の時代をくぐり抜け、昭和六十二年に北京で亡くなった。八十七歳の長寿だった。
 一方、藤本鉄石は、腹心の福浦元吉と二人で、東へ逃げた。伊勢へ通じる街道(現在の国道一六六号)を目指したのである。しかし、追討軍の和歌山藩(御三家)兵からのがれられぬことを知った二人は、那須信吾が死んだ翌日の二十五日午後三時ごろ、鷲家集落(鷲家口からは北東)の和歌山藩本陣へ斬り込んで死んだ。
 吉村寅太郎はその二日後、鷲家近くの小屋に隠れていたのを発見され、射殺された。

戦跡が並ぶ山道
 私が鷲家口を訪ねたのは、高取山へ登った翌日である。まず五条市へ行き、代官所の跡を見て、市の図書館で史料をコピーした。それから電車とバスを乗り継いで東吉野村役場まで行った。役場の場所は「小川」という地名に変わったが、ここが当時の鷲家口だ。
 その時、役場でもらった観光パンフレットを今開いてみると、「天誅義士記念碑」とか、那須信吾らの墓所の写真が載っているが、どうも鮮明な記憶がない。自分で撮った写真も、その時のメモも見つからず、具体的なことが何も書けないのはつらいが、周辺をかなり歩き回ったことだけは確かだ。そして道端に、観光パンフには載っていない、かなりの数の小さな石碑があったことを覚えている。吉見良三さんの『天誅組紀行』によると、それらは長い時間をかけて、村の人々が少しずつ建てたのだそうだ。そしてその中には、天誅組だけではなく、追討軍の戦死者の碑もあるという。
 これほどていねいに戦跡を保存している場所を、私は、ほかに知らない。
 さて、土田衡平のことだが……やはり伊勢へ逃げるのは、かなり困難だったと思う。藤本鉄石も、伊勢を目指して果たせなかった。それに伊勢の津藩(藤堂家)はこの時、厳重な警戒体制を敷いていた。吉村寅太郎を射殺したのは、津藩兵である。
 仮に伊勢の海岸まで行きついたとしても、江戸まで行けるような大船に乗ろうとする不審者を、津藩が見逃すはずはない。それに第一、当時、伊勢と江戸を結ぶ客船航路はなかった。大坂と江戸を結ぶ定期航路の菱垣廻船や樽回船は、伊勢の港にも立ち寄ったが、これは貨物船である。見知らぬ人が突然やって来て、便乗できるような船ではなかった。
 これは私の憶測だが、鳥海山麓の矢島で生まれ育った土田衡平には、西国の人には聞き取り難い国訛りがあったのではないだろうか。山中の道案内を頼むにしても、船への便乗を頼むにしても、一言で他国人とわかる訛りは、障害となったはずである。
 東吉野村役場から、私は川沿いの道を歩いた。その足元に、数え切れないほどのサワガニが上って来ていたことは、今でも忘れられない。それはそこが、山深い里で、水もきれいなのだと私に教えてくれた。こんな所から道案内もなしに、津藩の警戒網をかいくぐって、広大な山なみを走破するのは無理だと、私は強く感じた。
 土田衡平は藤本鉄石の門下ではあったが、何らかの理由で天誅組には参加しなかったのではないだろうか。
 少なくとも、最期の地までは来ていないと、私は確信している。

〈付記〉 奈良県五条市は、江戸時代は「五條」と表記した。また大阪も、江戸時代は「大坂」である。本文では、時代によって表記を使い分けた。


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