んだんだ劇場2004年7月号 vol.67
No2
大村益次郎を斬った秋田人

京都を訪ねる
 幕末動乱の、震源地は京都だった。
 なぜそうなったのか?
 簡単に言うと、それまでほとんど無視していた天皇の権威を、江戸の幕府が利用しようとしたからだ。嘉永6年(1853)にペリーの黒船がやって来て、開国を迫られた幕府が、それを天皇に奏聞(報告)し、後には、開国の許可(勅許)を求めたのである。その当時、「公方様(将軍家)より偉い人がいる」などとは、日本人の一万人に一人も考えていなかったはずだ。しかし幕府は、鎖国政策を破棄するかどうかという幕府自身の問題に対して、朝廷に回答を求めた。当時の幕閣が責任逃れをしたとも言える。
 その一方で、翌年に再来する黒船にどう対処したらいいか、諸大名ばかりか、一般庶民にまで広く意見を求めた。
 どの史料を読んだのか、今、にわかには探せなくて困っているのだが、「江戸前の海を潜って行って、黒船の底に鉄の棒を突き刺して沈める」というような珍答があったと記憶している。たしか、吉原の楼主のアイデアで、「うまくいったら、ご褒美を」と、ちゃっかりしたものだった。史料を読んでいて、笑ってしまった覚えがある。
 ともあれ、おびただしい数の意見書が集まった。西暦1603年に幕府ができて以来、「黙って従え」式でこの国を統治してきた「お上」が、政策を自分で決められなくなったのである。裏返せば、「少しは言いたいことが言えるのだ」という印象を、人々に与えたことは間違いない。
 その結果、「少し言う」ではなく、「大いに論じたい」連中が、天皇のおわす京都に集まることになった。尊皇攘夷論者であり、次第に彼らは「志士」と呼ばれるようになる。以後、京都ではおびただしい血が流れた。
 幕末・維新の歴史を知るには、京都は見ておかなければならない土地だ。そう思って訪ねたのは、17年前だった。
 ここから少し脱線するが、京都に住んでいた将棋の木村義徳八段が、『株は大局観』(東洋経済新報社)という株式投資の本を書いたので、そのころ経済部の記者だった私が、インタビューに出かけた時だった。木村八段の父は、「角替わり腰掛け銀戦法」で一世を風靡し、昭和10年、最初の実力名人位に就いた木村義雄十四世名人である。元毎日新聞観戦記者、村松喬さんの『将棋戦国史』(独楽書房)の言葉を借りれば、昭和22年の名人戦を塚田正夫八段が制した時、「大日本帝国は敗けても、木村名人が負けるなどあり得ないことだと、誰もが信じていた」ほどの棋士だった。その三男の義徳氏も、早稲田の学生時代にアマ名人になってプロ入りし、A級八段に上り詰めた。
 私が訪ねたころは、A級からは陥落していて、NHK杯の将棋の解説で、よくテレビに登場していた。その後、しばらくして引退してしまったが、とても品のある人だった。
 午後に京都に着いて、暗くなるまで木村八段の話を聞き、翌朝、早くから京都の中心部を歩いた。その街の大きさを知るには、歩くのが一番いい。新選組の池田屋事件の跡とか、天皇の住まいだった京都御所とか、かなり歩き回ってその距離感を頭に入れたが、2月の底冷えのする日で、汗はかかなかった。

三条かいわい・木屋町通
 鴨川に架かる三条大橋を東から西へ、つまり市の中心部へ向かって渡ると、すぐ先に、高瀬川に架かる三条小橋がある。小橋を渡れば、池田屋の跡だ。が、私がどうしても確認したかったのは、小橋を渡らず、高瀬川に沿って木屋町通を北へ上った場所だった。
 明治2年9月4日、兵部大輔(後の陸軍大臣)大村益次郎が襲撃された現場である。
 住所は「三条木屋町二番路地」と書いている資料が多い。ここに長州藩お抱えの宿があって、夕刻、その2階で来客と湯豆腐を囲んでいるところを、刺客に襲われたのである。
 大村を主人公にした司馬遼太郎の小説『花神』では、かなりリアルに描かれているが、しばしば「ウナギの寝床のような」と評される、京の町屋の構造にうとい私は、小説だけでは実感がわかなかった。
 通りをしばらく歩くと、高瀬川の対岸に、大村益次郎遭難碑があった。しかしそこで、私は非常に驚いた。その隣に、佐久間象山の遭難碑が並んでいたのである。近くだとは思っていたが、この二つの事件の現場が、全く同じ場所だとは想定していなかったからだ。もっとも、象山が斬殺されたのは路上である。
 元治元年(1864)6月5日に、新選組が尊皇攘夷派浪士と激闘を演じた池田屋事件があって、その翌月の7月11日、象山が斬られた。斬ったのは、肥後熊本藩の河上彦斎(げんさい)である。彦斎は明治になって高田源兵衛と名を変え、二人の公家が画策した明治4年の政府転覆計画事件(一般に「第二維新事件」と呼ばれている)に連座し、処刑された。このことは、前回の「余話」でも触れた。
 そこに立って私は、少し興奮していた。
 ここに至る少し手前の町屋の入り口に、「武市(たけち)瑞山先生寓居之跡」という石柱があったのである。そして、その隣は、吉村寅太郎の潜伏先だった。坂本龍馬が暗殺された河原町の近江屋跡も、歩いて10分もかからない。
 「幕末史は、なんて狭い空間に凝縮されてるんだ」と、驚いていたのである。こういう「感触」は、実際に自分の足で歩かなければ得られないものだ。
 武市と吉村に一言だけ触れておく。武市は通称を半平太と言い、土佐勤皇党の領袖である。京都で起きたいくつかの暗殺事件の黒幕とされている。ついでに言うと、昔の映画で「春雨じゃ、濡れて行こう」という名セリフがヒットした架空の人物、「月形半平太」の名前の方は武市で、苗字の方は福岡藩の勤皇家、月形洗蔵から取ったものだ。もう一方の吉村寅太郎も土佐の人だ。文久3年(1863)8月、大和の五条代官所(奈良県五条市)を襲った天誅組事件の中心人物である。天誅組も、その足跡を訪ねたことがあるので、二人のことは、そこでもう少し語りたい。

吉田昭治さんの名著
 そもそも、ここがなぜ、「どうしても確認したかった場所」かと言うと、大村益次郎襲撃犯の一人に、秋田の金輪五郎がいたからだ。前回の「余話」の最後で少し触れたが、秋田市八橋の全良寺に墓がある人物だ。
 彼の本名は志渡長治といい、現在の北秋田郡阿仁町が出身地だ。郷里を出て秋田藩(佐竹氏・20万5800石)の家老、渋江内膳の家来となったが、文久3年に脱藩して京へ上り、尊王攘夷運動に身を投じた。慶応3年(1867)12月の、江戸・三田の薩摩藩邸焼き討ち事件の時には、同藩邸の中にいた。ここを根城に、押し込み強盗までやって江戸市中を騒がせた浪士団の一人だったのである。
 この浪士団の悪行は、将軍のお膝元の治安を乱して幕府を挑発し、倒幕戦の口実を作るための陰謀だった。彼らを放っておけなくなった幕府は、江戸市中警備役の庄内藩(酒井氏・17万石)を主力として、薩摩藩邸を攻撃したのだが、このために庄内藩は、翌年の戊辰戦争では討伐の目標とされてしまう。
 金輪五郎は巧みに逃走し、翌年の戊辰戦争では、奥羽鎮撫総督府の従士として故郷、秋田へ戻った。そして秋田藩が奥羽越列藩同盟を脱退した後は、各地で共に戦った。
 ところで金輪五郎の名は、日本歴史学会編『明治維新人名辞典』(昭和56年、吉川弘文館)には載っていない。4295人を収録したこの辞典は、維新史研究には必携の書であるが、私には「やや明治政府側に偏った」という印象がある。奥羽越列藩同盟の関係者が、意外に少ないと感じている。全国的視野で見れば、重要度が低いと判断されたのだろうが、そういう意味では、金輪五郎は「無名の人」である。そんな人物を今、私が容易に紹介できるのは、秋田市の郷土史家、吉田昭治さんの労作『金輪五郎 草莽・その生と死』(上・下2冊、秋田文化出版)があるからだ。
 私は昭和52年4月から8年半、読売新聞秋田支局(中間の4年間は大曲通信部)で記者生活を送った。秋田のことを知るために読んだ本の一つが、上巻は昭和47年、下巻は翌年に発行されたこの本である。うずもれていた郷土の人物を、歴史の中によみがえらせようとする吉田さんの情熱が、今読み返してもひしひしと伝わって来る。同時に私は、明治維新が一握りの英雄たちによって成されたわけではないし、倒幕の中心勢力となった薩長、そして西国雄藩だけの力によるものではないことも知った。
 時代が動くとすれば、そこには必然性がある。
 「必然性」というのは、「今のままではだめだ」と、多くの人々が考え始めることだ。全国的にそういう気運が醸成され、そしてある時、それは雪崩となる。雪崩を引き起こしたのが、公然と幕府に叛旗をひるがえした長州藩であることは間違いない。慶応2年、攻め寄せる幕府軍を敗退させた「第二次征長戦」が「ある時」である。この戦いを指導したのが、戦略家大村益次郎だった。しかしそこに至るまでに、数え切れない人々が奔走し、血を流し、「時代の気運」をつくって行ったのだと思う。
 坂本龍馬と新選組しか知らないのでは、あの時代は理解できないだろう。
 そういう視点を私に与えてくれたのが、吉田さんの本であり、そこに描かれた金輪五郎という人物だった。

寸前に延期された金輪らの処刑
 大村益次郎を襲ったのは、8人の男だった。リーダーは、長州の神代直人。狂信的な攘夷論者であり、高杉晋作が気に入らないからとつけ狙い、それに閉口した高杉が長州から逃げ出したという、典型的なテロリストだ。
 また、少々脱線するが、昭和52年のNHKの大河ドラマ『花神』では、石橋蓮司がこの役を演じた。今は缶コーヒーのCMで三枚目のオッサンも演じている石橋だが、この時の神代直人役はすごかった。全身に虚無感をただよわせ、セリフのどの一言にも凄みがあり、本当に「怖い男」だったと、今でも鮮明に覚えている。ちなみに大村益次郎役は、中村梅之助だった。
 ついでに言うと、「神代」はどう読むのだろう。私は「こうじろ」と思いこんでいたのだが、この稿を書くために司馬遼太郎の『花神』を読み返したら、「かみしろ」とルビが振ってあった。さらに、森川哲郎著『明治暗殺史』(三一書房)では「くましろ」である。『明治維新人名辞典』には載っていない。人名にはしばしば、その地域独特の読み方があるので、私には判断できない。
 さて、大村益次郎がいた宿は、木屋町通の方に玄関がある。「ウナギの寝床」のような細長い建物は、裏の鴨川までつながっていた。大村と二人の来客が湯豆腐を食べていたのは、鴨川を見下ろす2階の四畳半だった。神代直人は、その真下の河原に潜んでいた。襲われた大村がこちらへ逃げ出した時に、それを仕留める役割だった。正確な人数配分はわからないが、まず二人が偽名を使って大村に面会を求め、宿に大村がいることを確かめた上で、外に待機していた連中とともに突入する計画だった。金輪五郎は、この突入組にいた。
 この惨劇の中で、大村側では来客と従者の4人が死に、襲撃者も1人が死んだ。しかし大村益次郎は何か所かを斬られ、特に右足の傷は深かったが、階下の風呂場へ逃げて助かった。来客の1人、長州藩の洋学者、安達幸之助が「自分が大村だ」と言って河原に飛び降り、それを斬殺した神代らが「やった、やった」と叫んだので、襲撃者は逃げ去り、大村は命拾いしたのである。「身代わり」となった安達は、風貌が大村に似ていたという。
 神代直人は故郷の長州へ逃げたが、後に追い詰められて自刃した。
 金輪五郎は、越前敦賀の宿で捕まった。越後寺泊出身の五十嵐伊織ら3人が同行していて、4人は海路で秋田へ逃亡するつもりだったようだ。この時、金輪は「佐竹竹次郎」と名乗り、4人とも秋田藩士だと言い逃れようとしたという。
 残る2人も逮捕され、6人はその年の12月29日、京都で斬首、さらし首になった。
 だが、実は、彼らは9日前に処刑されるはずだった。ところが、彼らが刑場へ引き出されてから、突然、死刑延期となった。当時の司法機関である弾正(だんじょう)台の京都支台を預かっていた、弾正大輔海江田信義(かえだ・のぶよし)が死刑執行の停止を命じたのである。
 海江田は、明治以前の名を有村俊斎という。桜田門外の変に、水戸浪士にまじってただ1人薩摩から実行者として加わり、大老井伊直弼の首を取った有村次左衛門の兄である。桜田事変では、次兄の雄助も計画に加わり、雄助は鹿児島に戻った後に切腹している。長兄の俊斎も、倒幕運動に奔走した志士だった。詳細は省くが、海江田は、大村益次郎と犬猿の仲だった。司馬遼太郎の『花神』では、襲撃事件の黒幕として描かれている。
 死刑を止めたことを、そうした背景から論じる人もいる。
 海江田の曾孫である東郷尚武さんが書いた『海江田信義の幕末維新』(文春新書)では、海江田が、死刑の執行手続きの不備をとがめたからだと説明されている。当時の司法組織が不完全だったことも、騒動の原因の一つだったようだ。
 しかし、9日間延期されたとはいえ、死刑が撤回されることはなかった。

大村益次郎の死
 大村益次郎襲撃の黒幕は秋田の初岡敬治だったという、とても信じられないうわさが当時、一部でささやかれた。刺客の1人が秋田の金輪五郎であり、事件後、金輪ら4人が秋田へ逃げようとしたことが、うわさの発端らしいが、初岡が黒幕であってもおかしくない状況証拠はあった。
 初岡が、肥後の高田源兵衛と同じく、「第二維新事件」に連座して処刑されたことは、前回の「余話」に書いた。では、初岡と大村益次郎の接点はどこかと言うと、慶応4年7月、秋田藩が奥羽越列藩同盟を脱退し、会津・庄内征討軍に旗色を変じた時のことだ。列藩同盟軍、特に庄内軍は強く、秋田軍は連戦連敗だった。この窮地を救おうと、海路で京へ上り、秋田への援軍を乞う使者となったのが初岡敬治だった。しかし、これに応対した大村は即座に断った。そのころ、越後長岡で征討軍は苦戦に陥っていたし、関東から会津への戦線でも頑強な抵抗を受けていた。援軍の余裕がなかったのも事実だが、大村は秋田を見殺しにするつもりだったようだ。大村の合理的精神から言えば、会津討伐こそが本命であり、たとえ秋田が落城しても、それは後からゆっくり取り戻せばいいということになる。
 大村は、そういう考え方をする人だった。
 江戸・上野の山の彰義隊討伐でも、最も激戦が予想された黒門口(今は西郷さんの銅像がある登り口)攻撃に薩摩藩兵が割り当てられた際、驚いた西郷隆盛が「薩摩人は死ねということか」と尋ねると、大村が平然と「そうです」と答えたのは、有名な話だ。
 「大村益次郎は人情に欠ける」と多くの人が感じ、大村を嫌った。最も憎しみを抱いた1人が、援軍を断られた初岡だった。初岡の粘り強い交渉の末に、秋田への援軍は実現するが、「大村を殺したい」とまで初岡が思っただろうと、想像はつく。しかし、大村襲撃の首謀者である長州の神代直人を、初岡が操縦できたはずはないし、金輪は、越後の五十嵐伊織に誘われて、後から加わったメンバーである。「初岡黒幕説」は、あり得ない。
 さて、襲撃当日には助かった大村だったが、結局、およそ2か月後の11月5日に死んだ。最も深手だった右足の傷口が化膿し、敗血症を起こしたのである。実は、足を切断すれば助かったはずなのだが、当時は、政府高官の手術には勅許を必要とした。その手続きのために、手遅れになったのだった。
 司馬遼太郎は『花神』で、この深手を負わせた「犯人が、叫びをあげて東窓から磧(かわら)へとびおりてしまった」と書き、そのすぐ後に、「この下手人は金輪らしかった」と続けている。ほかに、ここまではっきり書いたものを私は知らないが、司馬遼太郎にはそれなりの論拠があったのだろう。
 結果から見れば、「大村益次郎の暗殺者」は秋田人、ということになる。
 何年前かは忘れたが、秋田県阿仁町の金輪五郎の生家跡近くへ、吉田昭治さんに案内していただいたことがある。五郎に直系の子孫はいないが、この山里で今も、一族の末裔は暮らしている。「でも、だれも金輪五郎のことは話したがらないんですよ。なにしろ、大罪人ですからね」と、吉田さんが話していた。地元には、関連史料も残されなかった。
 私も、「それは仕方ないだろうな」と思った。


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