んだんだ劇場2003年12月号 vol.60
No5  さあ、引越しだ!

さあ、引越しだ!
 寒い、寒い。本格的な冬がやってきた。
 完全に紅葉し終わらないまま、寒さで枯れてしまった葉っぱが、風にびゅうびゅうふき飛ばされている。
 北京の冬はとても乾燥しているので、金属系のものに触るのが怖くて仕方がない。特にやっかいなのがオフィスのコピー機で、コピーをとるたび、心臓にまでバチバチと通電してしまう。
 さて我が家は12月8日の帰国に向けて、荷造りの真っ最中である。一番張り切っているのが夫である。彼は荷造りが趣味なのだ。これはタイ行き、これは日本行き、これはロンドン行き、と分けてどんどん詰めている。私も自分の荷物を行き先別に分けるようにといい渡されたものの、なかなかやらずにいたらとうとう怒られてしまった。
 ロンドンへ船便で送る荷物が一番多いのだが、その中身といえば、炊飯器、なべ、大根おろし、食器洗い用のスポンジなどなど、とても所帯じみている。それに加えて、買い物好きの夫はステンレス製の器とか、お風呂用のへちまだわしとか、なんだかいろいろ買ってきた。これもロンドンに送るらしい。
 私は引越しばかりしているが、荷造りは大の苦手である。学生時代のある引越しの当日など、部屋が全くそのままになっていた。手伝いに来てくれた後輩たちがそれを見て唖然としていたのを覚えている。でもその代わり、荷物をといてそれぞれの場所に収めるのは結構好きだ。荷造り好きの夫とは、まさに絶妙のバランスである。
 どちらにしても、私も夫もなんだかうきうきしている。二人とも引越しが好きなタチなのだ。夫は比較的順応性が高く、どこでもそれなりに適応して楽しんでいる。男性にしては珍しい方かもしれない。まさに放浪向きの夫。私の目に狂いはなかった(?)。
 12月にはまず日本に戻り、そしてタイに行って、そこからロンドンへ向かう。こんなときでないと会えない友達にできるだけ会っておきたいので、日本でもタイでも移動の日々になりそうだ。

夫と買い物
 最初のうち夫は、私が稼いだお金を使うことをとても気にしていた。
「これは、君のお金だから。」
「違うよ、これは二人のお金でしょ。オニ(夫のニックネーム)が家にいてくれなかったら、私は働けないんだから、これは二人で稼いだのと同じだよ。」
夫を家に閉じ込めていることを責められているようで私も胸が痛かった。でも、今ではさすがに夫も慣れたのか(割り切ったのか、あきらめたのか?)、自分の好きなものを勝手に買ってくるようになったので、少しほっとした。
 我が家では夫が財布の紐を握っている。彼はけちで倹約家なので、私よりずっと向いているのだ。何しろ彼の好きな言葉は'タダ'と'安い'である。
 彼が何か買うときは、必ず複数の店で値段を確認し、値切りに値切って買う。だからものすごーく時間がかかるので、私は夫の買い物に付き合うのが苦手である。一緒に買い物に行き、いらいらしながら待っているときなど、なんか我が家ってほんとに立場逆転してるなー、とおかしくなってしまう。
 でも'タダ'と'安い'にこだわるあまり、'安物買いの銭失い'状態となることも度々で、さすがの彼も最近は少し学んだようである。
 こんなに買い物好きな男性はうちの夫くらいかと思っていたら、そうではなかった。
 今年の秋、私の小学校時代からの親友と彼女の旦那さんが北京に遊びに来てくれた。なんと彼女の旦那さん、夫に負けず劣らずの買い物好きで、北京滞在中は私の夫と二人で買い物に燃えていた。買い物をしている時の二人の目は、何かに取り付かれているようでちょっとこわかった。
 そんな二人を待ちながら、私と友人はコーヒーショップでお茶を飲んでいたのだが、なんだかおかしくなって二人で大笑いした。

中国の子供のおまた
 初めて中国に来て、まだ間もないころ、職場の皆で夕食を食べに行った。向かいのテーブルにはまだ一才にもならない赤ちゃんをつれた若い夫婦とその友人たちが座っていた。
 運ばれた料理を食べながら、何気なくそのテーブルを見た私の目は赤ちゃんの股間に釘付けになってしまった。お、おまたが丸見えではないか! 
 かわいらしい服を着せられているのだが、なぜかズボンの股の部分だけが大きく破れて、赤ちゃんのかわいいおまたが丸見えになっているのだ。
 破れてるの、気が付かないのかなあ、気にしないだけなのかなあ、と真剣に考えたが、どうしてもわからない。悩む私を尻目にそのままおまた丸見え赤ちゃんグループは帰ってしまった。
 その次の日、観光で天安門広場へ行った。また、そこで見てしまったのである。今度は2才くらいの子供である。その子はかわいいおしりをぷりぷりと見せながら歩いている。また?? 偶然にしてもそんなにズボンが破けた子供がたくさんいるわけはないと、私は近くまで行って観察してみることにした。
 よくよく見てみると、その子のズボンの破れ目はきれいに縁取りがしてある。どうも自然に破れたものではないようだ。とすると、わざと??
 そこでまわりにいる小さい子供のおしりを片っ端から観察。と、なんとほとんどの子供のズボンの股の部分が破れている、というか割れているではないか。
 そうなのだ。これは股割れズボンなのだ。おしっこやウンチをするときに大人が抱き上げてやると、ズボンのおまた部分がぱっくりと割れ、ズボンをぬらさずにおしっこもウンチも完了というわけなのだ。
 だからほとんどの子供はオムツもしていないし、パンツもはいていない。話によると1才の誕生日にはもうすっかりおしっこやウンチを教えられるようになるらしい。一度など、わずか4ヶ月になる赤ちゃんがおかあさんの「しー、しー。」という掛け声にあわせておしっこをしているところを見てしまったときには自分の目が信じられなかった。
 みんなオムツなんてしないから、中国でオムツを買おうとするととっても高い。
 節約になるからうちも股割れズボンにしてみようかと思ったが、中国の子供のようにトレーニングされていない娘はきっと家中をびしょびしょにするのがオチかと考えてあきらめた。
 それにしてもすばらしいアイデアではないか。私は中国で初めてこの股割れズボンにお目にかかったのだが、他の国でも使っているところはあるのだろうか。ちょっと気になる。
 しかし、納得がいかないのは、冬である。中国の子供はまるまると着膨れていることが多いのだが、やはりズボンは股割れでおしりも丸見えなのである。寒くないの? 体のほかの部分はもこもこに着膨れしているのに、おしりはこれでいいわけ?うーん???


毛糸の尻割れズボン、お尻が風邪ひきそう?

必要とされるということ
 誰かに必要とされることは、とてもうれしいことだ。必要とされるということは、つまり自分の存在価値が認められるということで、これが生きる張り合いにもつながる。
 海外での医療援助でもおんなじだ。
 援助を受ける側が、
「あなたたちの援助のおかげで私たちはなんとかやっていける。もし、あなたたちがいなければ、どうしていいかわからない。」
なんて言ってくれたら、援助している側は、私たちの援助が役に立っているんだな、うれしいなあ、となんともいえない満足感に浸ってしまう。
 逆に、
「もう、自分たちでやっていけるから、助けてくれなくていいです。」
なんて言われてしまったときには、まるであなたは役立たずなので、もういりません、といわれているようで、自分の存在自体を否定されたような気持ちになってしまう。彼らが自分たちでやっていけることは、喜ぶべきことだと頭ではわかっていても、やっぱりさびしいのである。
 私が難民キャンプで働いていたときも、よくこういう場面に遭遇した。
 私たち、医師や看護士などの外国人スタッフは、キャンプ内の病院のスタッフと共に医療活動にあたった。キャンプのスタッフはトレーニングを受け、いわゆる医師や看護士と同様、一般的な病気や怪我の治療をすることができる。
 ある外国人医師は、
「入院患者に抗生剤を投与するときは、私の指示を待つこと。勝手に投与しないように。」
というルールを作ってしまった。それまでは、キャンプのスタッフが処方して投与していたのである。
 それ以来、病院のスタッフは、なんとなく自信をなくし、何でも彼女を頼って彼女の指示を聞くようになってしまった。
 これでよかったのだろうか?確かに彼女は必要とされ頼られる存在になったかもしれない。でもキャンプのスタッフの自信は失われ、自分たちでは何もできない存在になってしまったのだ。
 確かに必要とされるのはうれしい。でも、これは援助という名の下に、彼らの自信と力を奪っていることであり、本来の目的を大きく外れてしまっているのではないか。
 援助する側が表舞台に立ってはいけない。影で彼らが自分の力でなんとかしていくのをサポートし、一刻も早く自分が不必要となることを目指すべきなのだ。ちょっとつらいけど。
 援助を受ける立場にある彼らは、お金や物だけでなく、自信もない。彼らが、自信をとりもどし、
「私たちなら大丈夫、自分たちでなんとかやっていけるよ。」
と言えるようになるのを助けるのが、本当の援助じゃないかと思う。


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