秋田県

マインランド尾去沢(おさりざわ)
東北おもしろ博物館(加藤貞仁著)より
 おもしろ博物館秋田県鹿角市 
「尾去西道金山奉行所」の復元ジオラマ
●開館時間=午前9時〜午後5時(11月11日〜3月31日は午後3時30分まで)
●休館日=無休
●入館料=「鉱山歴史の坑道」と「コスモアドベンチャー」は一般1840円、中・高校生1530円、小学生1120円、3歳以上の幼児510円。どちらかだけは、一般1020円、中・高校生820円、小学生610円、3歳以上の幼児310円
●交通=JR花輪線鹿角花輪駅から車で10分


鹿角市尾去沢獅子沢13の5
問い合わせ= 0186・22・0123
 田舎なれども南部の国は 西も東も金の山……
 岩手県民謡「南部牛追い唄」に歌われるように、江戸時代、南部氏が治めた盛岡藩は、各地に金山があった。江戸幕府ができた当初、南部氏は徳川家康に黄金一千枚を献上したというから、半端な量ではない。
 最も多く金を産出したのは、明治以降は秋田県に編入された鹿角地方(現鹿角市)の尾去沢周辺である。地表近くに鉱石が集中していた金は、江戸時代中期には掘り尽くされたものの、金鉱石の下には、無尽蔵とも思える銅鉱石が眠っていた。
 尾去沢鉱山は、太平洋戦争中の昭和十八年には、四千人を超える従業員が働く、国内屈指の非鉄金属鉱山に発展した。しかし戦争中の乱掘のために、鉱脈は細り、海外の安い銅にも押されて経営が悪化し、昭和五十三年に閉山した。
 普通なら、これで鉱山の歴史は終了する。しかし尾去沢鉱山は、地底探検ワールドとして見事に復活した。それが、昭和五十七年にオープンした「マインランド尾去沢」だ。
 南部氏の所領になってからでも四百年の歴史がある尾去沢鉱山の地底には、総延長八百キロメートルにも及ぶ坑道が、クモの巣のように張りめぐらされている。そのうちわずか一・七キロメートルではあるが、地底の姿をのぞき見る観光施設に生まれ変わったのだ。
 私は、案内灯に従って歩くうちに、「いろいろな方向に掘った跡があるものだ」ということに気づいた。鉱脈というのは、地層のしわの一つに金属資源が集中した場所だから、もう少し規則的に並んでいると思っていた。以前に、地下二千メートルの坑道まで下りて見たカナダの金鉱山では、確かにそんな印象があった。ところがここは、何層にも折りたたんだパイ生地を握りつぶしたように、地層が入り組んでいるらしい。日本列島が誕生する時、太平洋と大陸のプレートが複雑な押し合いをした結果なのだろうか。 幅は三十センチほどしかないのに、高さは数十メートルに及ぶ鉱脈も珍しくない。そんな所では、まず横穴を掘り、足場を組みながら上へ掘り進む。これを「シュリンケージ採掘法」と言うのだそうだが、鉱脈を掘り尽くした後に残るのは、地球の裂け目のような空洞だ。
 そこに橋が架かっている場所があった。ライトアップされているが、頭上も、足の下も、無限の闇につながっている。橋から下をのぞき込むと、「落ちたら絶対助からない」という、恐怖がはい上がって来る。

鉱石を掘った跡が地底の裂け
目のような「マインキャニオン」
足場を組みながら上へ掘り
進む「シュリンケージ採掘法」
「ワインプラザ 古酒の蔵」。一定の温度と湿度を利用してワインを熟成させている 坑道内に鉱夫を運んだ6人乗りのトロッコ 鉱石を運んだ坑内トロッコ
 閉山後の坑道を公開することは、どこの鉱山でもできることではないという。落盤の危険があるような地質では、無理な相談だ。尾去沢は幸運なことに、非常に固い岩盤の中を採掘していた。明治以降の近代技術で掘り進まれた坑道は広い。観光施設としてよみがえる際、ところどころに人形などを置いて、鉱山の作業風景を再現するスペースも確保できた。
 その一角の、江戸時代の鉱山の姿を再現した「ちょんまげ坑道」で、ハッとさせられたことがある。隠れキリシタンの夫婦の人形だ。辛い重労働に耐えることが、彼らに残された潜伏場所だったのか。江戸時代の鉱山に、そんな社会史の一面があったことを、初めて知った。
 ここには、別の坑道を利用した「未来探検コース・シューティング・アドベンチャー」というコースもある。プルトン号に乗り、レーザーガンでエイリアンをやっつけるというもので、命中したエイリアンによってポイントが違う。親子や友達同士で楽しめるに違いない。
 尾去沢はかつて、秋田県で最初に電気や電話が引かれた、文化の先進地だった。そんな栄光と、閉山という挫折の歴史を乗り越えて、あらたな道をあゆみ始めたのである。
作業の安全を祈願した坑道内の山神宮

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