福島県

日中線
にっちゅうせん
とうほく廃線紀行(無明舎出版編)より
 東北の廃線喜多方―熱塩 

◆東北中央縦貫鉄道の夢
 朝は日の出が遅く夕方は日の入りが早く、昼間しか太陽が拝めない山間(やまあい)の集落であることから「日中」の地名が付いたともいわれ、山形県米沢よねざわ)を朝出発し大峠を越えてちょうど昼頃到着するので「日中」と呼ばれたともいう。
 明治二十五年(一八九二)頃、下野(しもつけ)の国と岩代(いわしろ)の国と羽前(うぜん)の国とを鉄道で結ぼうという東北中央縦貫鉄道・野岩羽線の建設運動が始まった。栃木県今市(いまいち)から福島県会津若松や喜多方(きたかた)などを経て山形県の米沢に至る構想で、日中線はその一環として昭和十三年(一九三八)八月に実現した区間だったのである。喜多方発六時・九時・十三時・十六時・十八時の五往復で、所要時間約三十分。
熱塩駅は日中線記念館として、往時を語り続ける
 現在、山形県南の置賜(おきたま)地方(米沢市など)と福島県会津地方とを結ぶ主要交通ルートは険しい山塊を大峠トンネル(全長約四キロメートル)などでぶち抜いた国道121号があるだけだが、「もし日中線が熱塩(あつしお)からさらに延長されて米沢まで通じていたら……」と米沢在住の筆者などはフッと想像してしまう。
 「山形県と福島県の昭和史の風景は相当違ったものになっていたのではないか。奥羽本線のように、今も存続できていたのではないか」と。
 大正十一年(一九二二)四月には米沢―喜多方間が予定線に決定したが、太平洋戦争で頓挫。戦後も粘り強く運動が続けられたものの、社会情勢や交通体系の変化で住民の願いは実らずに終わる。
 ともあれ日中線の開業によって喜多方―熱塩地方から首都圏への酒の販路が開かれ、米も搬出された。学校生徒や住民も「ウチの電車」として親しみ利用した。
 熱塩行き止まりのローカル支線で終わり、赤字を積み重ねた日中線は、合理化により喜多方発四時・六時・十八時の三往復となって「日中は走らない日中線」と呼ばれ、結局は「日中」地区を通ることもなく昭和五十九年に廃止。しかし沿線には住民の愛惜の念を窺わせる跡が残り、訪れる鉄道ファンも少なくない。

喜多方駅にひっそり残る
日中線ホーム
日中線記念緑道
となった線路跡
線路跡の緑道沿いに今
も11-63や踏切の名残が

◆蔵の町喜多方から
「蔵の町」として知られ約二千六百棟(四世帯に一棟)もの蔵が点在するという喜多方市。JR喜多方駅(磐越西(ばんえつさい)線)の内部にも、 土蔵風 デザインが施されている。その一番線ホームの新潟寄り付近に、今は使われていない日中線のホームが残っていた。線路も、駅構内のはずれに残る給水タンク付近までたどることができる。
 線路はここで途切れ、やがてルートは日中線記念緑道(自転車・歩行者専用道路)となって続く。線路跡のサイクリングロードは通学や散歩の道であるとともに、まさしく「日中線」の記憶を大切にとどめる歴史の道でもあるといえよう。
 道沿いの「日中線記念緑道公園」には往時の線路上にSLのC ― とDLが保存されており、踏切の名残もそのまま。今にも煙を吐き、警報機が鳴り出しそうな思いにとらわれる。
 会津村松駅跡(痕跡なし)から上三宮(かみさんみや)駅跡方向には、線路跡の道が未舗装道路の形で続き、やがて上三宮の手前で三車線の自動車道路に吸収される。
 上三宮駅跡は道路になっているが、駅前に残る木造の倉庫と桜の老木が往時を偲ばせてくれる。倉庫の隣にあったという国鉄職員の官舎跡は民家になっていた。
 上三宮駅跡から先もルートは延々と自動車道路に重なり、終点熱塩駅跡の約一キロメートル手前まで続く。
 途中の会津加納(かのう)駅跡手前のルート上に(つまり自動車道路のわきの一角に)、何とレールの一部が残っている。たまたま居合わせた近所の人に聞くと、当の御本人が、日中線を偲んで(いったん撤去された線路の一部を自動車道路完成後に)敷いたのだという。
 会津加納駅の跡は何も残っていない。貨物取り扱い量が多く、列車の入れ替えもあったため沿線で最後まで駅員が置かれた駅という会津加納駅前の、白い土蔵が印象的だった。

◆終着駅に残る日中線記念館
 会津加納駅を過ぎ田園地帯を進むと熱塩の集落が見えてくる。熱塩駅の手前でルートは自動車道を離れ、しばし農道となって残っている。終着熱塩駅は チロル風 を思わせるユニークなデザインの駅舎とホームが残され、日中線記念館になっている。ただし、普段は無人なので、展示室の見学希望者は事前に熱塩加納村教育委員会に申し込もう。
 熱塩駅構内奥にはラッセル車キ100とオハフ が保存され、会津加納寄りの構内のはずれには踏切のシグナルが往時のままに立っていた。
 キ100の側面には「熱塩駅常備」の文字。まさに今もここに「常備」されているラッセル車こそ、雪国・会津のローカル線が活躍し愛された時代を語り続けているといえようか。
 四十五年余に及ぶ日中線の歴史と九十年余にわたる野岩羽線建設運動を惜しみねぎらうかのように、昭和五十九年三月三十一日の「さようなら日中線号」は約二千五百人もの住民や鉄道ファンで超満員だったという。
(伊藤 孝博)

熱塩駅のはずれには、
シグナルが昔のままに

「日中線記念館」と
なっている旧熱塩駅舎

会津村松駅跡に当時の痕跡はない

木造倉庫と桜の老木が面影、上三宮駅跡


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