散歩 [2025/12/07,12:08:59]
雪が降ろうが停電だろうが台風だろうが、散歩に出る。散歩だけはやめない。1年中、散歩に出ない日は数えるほどしかない。カミさんにも異常だといわれるが、それには理由がある。1980年に手形から広面に引っ越して、家と仕事場が同じ敷地になった。いわゆる職住近接で通勤時間はわずか30秒。仕事場が好きなので、ここから外に出ることはない。家に帰るのは夕食と寝るためだけなので、ほぼ引きこもり。これが何十年も生活習慣として続いている。敷地から一歩も外に出ることなく1日が終わってしまう。これはいくら何でも心身にいいわけがない。という危機感からはじまったのが「散歩の習慣」だった。切羽詰まった追い詰められた動機から生まれたものなのだ。散歩が唯一の気分転換であり、外の社会と触れ合うための「方便」でもある。徘徊は太古からの人類の習癖。散歩は暇をつぶし、退屈を埋めるための最強の基本的な行動。よく歩くものはよく考える。よく考えるものは自由だ。自由は知性の権利……というのは作家・島田雅彦の言葉だが、私の散歩はそんな格好の良いものではない。散歩も仕事の延長で、だから道連れは万歩計ではなくICレコーダーだ。アイデアや考え事を歩きながら吹き込む。本の企画も散歩とICレコーダーから生まれたものが少なくない。背広を買ったのはいいが外に出ないので着る機会がない。そこで夜遅くの散歩に着込んで、真っ暗な田んぼ道をファッションショーさながら歩いたこともあった。そんなこんなで散歩は朝の歯磨きと同じ、になってしまったわけである。
週末 [2025/12/06,11:49:15]
週末も基本的には仕事場にいる。さすがに朝寝坊はする。これは週末の特権のようなもので、遅く起きても家人は怒らない。今日は起きてから1時間以上かけて冬用寝具類のチェック。羽毛布団を2枚重ねするのだが、1枚目のカバーが破れて羽毛が飛び出しかけていた。そこを補修テープで防ぐ作業にけっこう時間をとられてしまった。昼近くに出舎、いつも通りにコーヒーを入れ、お茶を作って、昼飯の準備。新聞を切り抜き、メールをチェックし、朝のブログを書く。これがルーチンだ。自前の昼飯後は、自分の原稿書きや調べ物で3、4時間、あっという間に過ぎてしまう。夕飯は早くて5時半だ。家の食卓につくが、相変わらずノンアルだ。もうまったく飲む気は失せてしまった(外で友人との会食ではガンガン飲む)。夕食はすぐに終わり、風呂を洗って、夜の散歩に出る。散歩から帰るとまた仕事場でダラダラ、映画を観たり、録画したドキュメンタリーを観る。9時になるときっかり家に帰り、風呂に入って、本を読んで、12時ころには就眠、となる。夜は何度もおしっこに起きる。これは最近、意識的に水分を摂るように心がけている結果だ。夜尿症とは無関係、と自分では信じている。
75歳 [2025/12/05,15:15:30]
「75歳」は後期高齢者だ。これは従来の老人保健制度に代わって作られた医療制度で決まった用語。08年に閣議決定されたもので、だから私の保険証は従来の保険証ではない。後期高齢者医療資格確認書というやつだ。これもマイナンバーに紐づけできるのかな。75歳まで生きられたのはラッキーとしか言いようがない。これは欧米の食生活が流れ込み栄養価の高い健康的な暮らしを続けてこられたことが背景にある。日本古来の「粗食で長生き」というのは科学的、医学的にも、あり得ない。75歳まではうつ病になる人が認知症になる人より多いのだそうだ。認知症の一歩手前に「失見当識」」という段階がある。場所や時間が分からなくなる症状で、これはちょっと思い当たるかも。そして75歳を境に認知症になる確率が高くなる。同年代の女性たちがやたら元気なのは、彼女たちの男性ホルモンが増えるからなのだそうだ。なるほど、これはすんなり納得できる。高齢者医療の本を書きまくっている和田秀樹によると「75歳になったら薬も健康診断もやめなさい。一病息災、ガンは切らない。血圧も血糖値も高くてけっこう」ということになる。これもまあ極端で、眉に唾つけたくもなるが納得できることも多い。日本の医療の「臓器別診療」に異議を唱え、医師は「総合診療医」になるトレーニングをするべきという主張は、同じことを考えていたので大賛成だ。「毎日ほどほどのアルコール」は、いかにも健康に良さそうだが、「毎日」はアルコール依存症であり、これはダメ。害が大きいのは「予期不安」で、まだ訪れていない未来を悲観的に考えてしまうこと。高齢者は「いやなことはやめ、好きなことだけやる」精神で生きるのが最高の老後だそうだ。まあ、いうだけなら簡単だ。後期高齢者の老後も、そう単純ではない。

不足 [2025/12/04,09:59:23]
仙台から新幹線で帰ってきたら、駅にタクシーが一台もいなかった。日曜日の夜7時半の出来事だ。日曜日はそれでなくても少ないタクシーの台数が半分以下になる、とは聞いていたが、まさか駅前にタクシーがいないとは……。痛い足を引き付って帰ってきた。帰りの車が確保できないとなれば繁華街に出かける人も少なくなる。その上にクマもウジャウジャ出る。繁華街から人がいなくなり、クマは出るわ、タクシーは走ってない。吉幾三の世界ではないか。私の住む広面地区は大学病院のある地域だ。どこよりもタクシー需要の多い場所で、ここのタクシープールの権利を一手に握っていたAタクシーが倒産してしまった。正確には経営者の自己破産が原因なのだが、背後にはメインバンクとの確執、大学病院との不自然な関係など、いろんな舞台裏がささやかれている。広面からタクシーが消えてしまったわけだ。そのAタクシーが元従業員たち有志によって再建される、というニュースが報じられていた。広面地区からも強い要望が出ていたのだそうだ。これで少しはタクシー不足は解消されるかもしれない。あまり大きな期待はできないが。
モノクロ映画 [2025/12/03,09:35:13]
寒くなるとプロ野球中継がなくなるので、録画していた映画を観るようになる。そのほとんどがテレビで放映されたものだが、「チャップリンの独裁者」とか「ドクトル・ジバゴ」「地下室のメロディ」「や「ジャッカルの日」といった、見損なった古典ふうのものが多い。成瀬巳喜男やビリー・ワルダーの「めし」や「サンセット大通り」などのモノクロ映画も好きで何度も見る。時代的には小中学校のころ、映画はカラーだったのだが、なぜかその以前のモノクロ映画に強く惹かれる。舞台背景に映っている風俗や小物類、言葉遣いや社会の仕組みに、異常なほど興味があるのだ。昭和20年代や30年代、育った環境に「教師以上」に偉い人はいなかった。ネクタイ背広姿のサラリーマンもいなかったし、洋装のきれいなOLの存在など想像もできない。それらの私の幻の日本をモノクロ映画は見せてくれる。まるで知らない日本がそこにある。
グラシン [2025/12/02,09:54:21]
気になっていた酒田市の古本屋さんに寄ってきた。金土日だけの営業で、週末でなければ開いていない。わざわざ車で駆けつけたかいがあり、岩波文庫や「第3の新人」「大正生まれの作家」たちの初版本(というか文庫でない単行本)を数冊まとめ買いしてきた。多くの本が丁寧にグラシン紙で巻かれ、店主の本に対する愛情の深さが感じられる。このグラシンという「紙」が本好きにはたまらない。もう死語かもしれないので説明すると、あの菓子パンなどを包んでいる、透け感のあるブックカバーの上から巻いている耐水性のある紙だ。いい古本屋さんの本はたいていこのグラシンにまかれていた。いまはグラシンそのものが姿を消してしまったようで、紙自体を手に入れるのも大変だ、と店主は嘆いていた。高井有一や阿部昭の、もう文庫では持っているが、きれいにグラシン巻きされた単行本も数冊手に入れた。グラシンを巻かれて当時の時代の空気を閉じ込めたままの本は手許に置いておきたい気分にさせる。
講演 [2025/12/01,10:15:39]
講演を聴くことなどほとんどないのだが、この週末、毎日新聞記者Tさんの「ガザについて」という講演を聴いてきた。Tさんはカイロ支局やエルサレム支局勤務を経験しているかたで知り合いでもあるのだが、手を挙げて質問までしてしまった。これも初体験だ。T記者にはもうひとつ勲章がある。あの2000年に起きた旧石器捏造事件の大スクープをした北海道取材チームの一員なのだ。こちらの取材秘話も聞きたかったのだが、それはまた後日の楽しみにしよう。あの捏造発覚後、Fは精神科に入院、罪の意識から右手の人差し指と中指を自ら切断している。スクープ前夜、仙台のホテルでFから「私がやりました」という自白確認をとり、本社に刷りのゴーサインを出す現場にいたのがTさんだ。当時からFの「神の手」に疑惑を持っていた専門家に信頼され、そこからの情報提供もTさんらがこの事件の真相を暴く重要なファクターになった。まあその辺のことは今度Tさんと個人的にお会いして、じっくり聞いてみよう。
[2025/12/01,09:56:43]
足指裏側が痛くて歩けなくなった。靴の幅が合わないせいだ。新しい靴に替えて3か月以上たつ。結局2足とも足に合わなかった。20年近く履き続けていたミズノのウオーキングシューズを、そのまま継続すればよかったのだが、ネットで検索しても売っていない。「絶版」になったのかもしれない。そこで同じミズノの靴を選んだのだが、足幅が3Eしかない。値段も前の靴より1万円も安いのが逆に気になっていた。仙台にウォーキングシューズ専門店があるので、そこに一縷の望みを託し、駆け付けた。奇跡的に前と同じ靴が一足だけあった。足幅は5E、値段は3万4千円。以前より1万円高くなっていた。やはりもう店売りはなし、すべて受注販売に切り替えたという。オーダーでしか手に入らなくなったのだ。ギリギリセーフだが、その場で靴をはき替え、痛い足を引きずりながら、秋田まで帰ってきた。一日5キロは歩く。靴は命の次に大事なもの。お金に代えられない。もう一足、同じ靴を手に入れるつもりだが、この金額はやっぱりこたえる。
断念 [2025/11/29,11:16:18]
ついにメルヴィル著「白鯨」を3分の2まで読み進めたところで途中放棄。思うところはあるが、いっそさっぱり、というのが今の正直な気持ち。アメリカから出航した捕鯨船の中で、乗組員たちが繰り広げる人間物語を期待したのだが、あくまで主人公は「鯨」。その生態から捕鯨の歴史、生物学的うんちくが延々と続く。鯨に多様な象徴性を持たせているので、リアルな人間同士の関係は希薄で、物語はなかなか前に進まない。どうにか500ページ近い上巻を読了し、たぶん下巻は面白くなるぞと期待満々だったが、上巻よりもトーンは下降、相変わらず鯨の尾や骨格、頭や鯨油の歴史、専門的な鯨話に終始するばかり。読み残した3分の1でたぶん、捕鯨船は目標である白鯨を発見し、常識を超えた巨大海獣との熾烈な戦いがくりひろげられる展開なのだろうが、その前段階で刀折れ矢尽きてしまった。叙事詩的海洋冒険小説がうたい文句の古典的名作だが、この「叙事詩的」という形容を甘く見すぎてしまったようだ。冒険より先に形而上的な「叙事詩」のほうに重きを置いた、難しい物語だったのだ。無念だが、自分との相性だからしょうがない。このへんが自分のリテラシーの限界なのかもしれない。 
デジタル鷹匠 [2025/11/28,11:00:35]
久しぶりに近所の近隣公園まで足を延ばした。大好きな散歩コースのひとつだが、ノースアジア大学横の太平川沿いにある。クマがよく目撃される場所だ。たぶん公園は半閉鎖状態だろう。青空の広がる気持ちのいい午後だったが、やはり人っ子ひとりいなかった。公園上空をうるさく鳥が一羽舞っていた。いや、鳥ではなく、小さなドローンだった。森の中から若者が操作しているようで、ものすごい勢いで木々や低い林の中を滑空し、若者の手の上に舞い戻っていく。ゲームコントローラのようなものはなく、ケータイ電話のようなもので操作していた。なんだか鷹匠の世界をみているようだ。そのスピードといい、舞い戻ってくる場所の正確さといい、まるで生き物を扱っているとしか思えない。我を忘れて見入ってしまった。ドローンの小ささにも驚いたが、カメラなどを付けていないせいなのだろう。ドローンの出現によって映像やドキュメンタリーの世界は大きく表現の幅を広げた。ドローンなしでドキュメンタリーはもう成立しない。小学生の時、カメラにあこがれ無性に欲しがったものだが、いまはドローンだ。免許が必要な世界らしいが、私もデジタル版の鷹匠になってみたい。

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