相撲 [2026/03/16,09:47:50]
昔はあまり興味のなかった大相撲を、最近はよく見るようになった。年をとったからなのだろうか。相撲が面白いのはシンプルな格闘技だからだ。あの一瞬に、ほとんどの力士が立ち直れない怪我をするリスクと向き合いながらぶつかっていく。怪我をしないために体を鍛え、無理やり体を大きくする。すさまじい世界だ。安青錦のあまりの強さに度肝を抜かれたが、次の場所にはその弱点を研究し、もう簡単には勝てなくなる。この研究努力も大相撲のすごいところだ。だから誰も楽に勝てないし、誰もが明日怪我で欠場するリスクを背負っている。一瞬に命を燃やしているのだ。これはどう考えてもスポーツではない。リスクヘッジをしながらギャンブルしているようなものではないか。そこが面白いと感じるのだろうか。
普通 [2026/03/16,09:35:09]
去年の秋ごろ、気分一新のため、靴を三足買い替えた。そのことごとくが足に合わず、はくのをやめてからもしばらくは後遺症の足痛に悩まされた。雪が降ると途端に転んだ。受け身をとったせいで両手首を打撲し、ワープロを打つのも辛かった。そして真冬のさなか、今度は血圧が高くなり、降下剤を服用するようになった。この薬の副作用なのか何度も頭痛に悩まされることになった。ずっと頭が重く、口中が乾いて塩っっぽくなるのだ。なんともついていない「冬」だった。いまは靴も横幅のあるものにかえ、手首の痛みも消え、頭痛も収まった。春とともに身体はようやく「普通」に戻りつつある。普通が一番なのだが、その普通が難しくなるのが後期高齢者だ。
マナブ・マベ [2026/03/15,10:22:06]
接写レンズで散歩道のガラクタ類を撮った「拙者の散歩道」を、ZINEっぽい感じで本にしようと、編集作業中だ。「あとがき」を書きながら、でも自分はどうしてこんな「わけのわからない、ド派手な色彩の、抽象絵画のような図柄」が、好きなんだろうと考えてしまった。答えはすぐにわかった。日本人移民の取材で通い続けているブラジルに源があったのだ。ブラジルに行くたび、自分用に日系人画家が描いたシルクスクリーンの作品を買い求めてきた。好きな画家はマナブ・マベや大竹富江といった人たちで、特にマナブ・マベの絵が好きだ。家にも仕事場にも彼の絵が飾られている。この絵と私が散歩道で接写している「ゴミ」の絵柄がそっくりなのだ。世界的芸術家と路上のゴミを一緒くたにするのもなんだが、構図的には驚くほど似ていて、自分でも失笑するほど。そこで昔、東京で開催されたマナブ・マベの展覧会のカタログが欲しくなり、ネット古書店で検索すると1000円で売られていた。すぐに購入、飽くことなく眺めている。
行列 [2026/03/13,10:18:44]
散歩のメインコースは手形大通りと言われる道路だが、この道路わきに10店舗近いラーメン屋さんが軒を連ねている。繁盛店はうち2店で、ここはいつも行列ができている。ところが最近、この行列を見かけなくなった。学生の多く住む街なので、もう飽きたのだろうか、などと考えていたら、違った。手形通りより南側に、もう一つ大きな城東通りと呼ばれる道路がある。ここにあるパチンコ屋の店舗中に新しくラーメン屋ができた。行列はこの店にそっくり移動していたのだ。この場所も帰りの散歩コースだ。なるほど、いつ通っても、行列ができている。そうか、並んでいる若者は同じで、彼らはその都度、おいしい店を探しながら移動を続けるラーメンハンターたちなのか。手形通りよりも客層は若めで、ときには中高年も交じっているところを見ると、味は比較的おとなしめなのかもしれない。自分では食べる勇気がないから、その味を想像するしかない。
日系移民 [2026/03/13,10:06:26]
映画「愛と悲しみの旅路」は第2次世界大戦中の日系移民とアメリカ人のラブストーリーだ。舞台は砂漠のなかの日本人強制収容所なのだが、初めて見た映画だ。日系移民の物語をアメリカ(監督はイギリス人)側から描いた映画で日系人の描き方も自然だ。当時の風俗、役者たちの会話もリアリティがある。日本人ではなく本物の日系人の役者たちが出演しているからだろう。主演女優タムリン・トミタも素晴らしい。意外だったのは、終戦前に最高裁判決で強制収容は違法、と判断されていたことで、このへんはさすがアメリカだ。日本では考えられない三権分立が当時も機能していたのだ。主人公たちは結婚のためロスからシアトルに移り住む。これはカリフォルニア州の法律でアメリカ人と日本人の結婚が認められていなかったからだ。日本に強制送還された日系人は、捕虜になったアメリカ兵との「交換」のために、帰国を余儀なくされた、というのも初めて知った事実だ。それにしてもこのタイトルはどうにかならなかったのだろうか。原題は「Come see the Paradise」だ。これ、なんて訳すんだろ。
点字ブロック [2026/03/11,09:43:53]
散歩中、点字ブロックが見えなくなるほど道にはみだし駐車している飲食店がある。いつも気になっていたのだが、注意すると切れそうなタイプの店だ。不快に思いながらやり過ごしていたが、昨日通ったら工事中、どうやら店は閉店したようだ。視覚障害者が安全に移動するために道路上に設置される点字ブロックだが、この道で何回か白状を突いた人が歩いていて、駐車している車にぶつかりそうになったのを目撃したことがあるのだ。そんなこともあって注意しようと思ったのだが、店の雰囲気が悪いので、素直に社会の常識は通用しないな、と感じていた。でもこれでまずは一安心。雪がとけ、目にしたくない現実も赤裸々に目に飛び込んでくる。
手袋 [2026/03/10,10:06:13]
薄手の手袋を何双かもっている。薄手の手袋は山用に買ったもので、冬以外にも役に立つので重宝していた。雪が降り始めると使わなくなるので、4双ほどある薄手ものをまとめて袋にいれ収納した。それが「どこに収納」したかを忘れてしまった。雪が消え春になったが、散歩のときはまだ手袋が必要だ。厚手の手袋ではなく薄手の出番だ。でも、いくら探しても見つからない。数か月前に収納した場所がわからないのだ。やむなく厚手のもので代用しているが、気になるのというか、必要なので、今もその行方を一生懸命探している。いつでも取り出せるよう厚手とは別にして収納したのが災いしたようだ。このところ物忘れがひどく、その対応策でもあったのだが、裏目に出てしまった。まいったなあ。これからはこんなことが日常茶飯事になっていくのだろうか。
啓蟄 [2026/03/09,09:48:25]
二十四節気といわれても実生活ではピンとくることはない。でも「啓蟄」だけは別。啓蟄と聞くだけで、なんだか雪国の人間は無性にうれしくなってしまうのだ。冬ごもりしていた虫が土の中から姿を現す時期を表したものだが、これだけは掛け値なしに生活実感として共感がある。3月の初旬から中旬の終わりあたりまでがその期間だが、雪に苦しめられてきた人々にとって、土肌やその土の下の虫たちは、それだけでもう充分に愛情の対象なのである。待望の、雪のない、ものみな息吹く、正常な季節の到来、なのだ。その昔から、雪は「非日常」であり、戦場のような意識で、雪国の人たちは生きてきた。息をつめ、家の隅っこで、物音をたてないよう、静かに暮らしてきた。その雪が消え、土肌が現れ、虫たちがうごめき始めるのは、生の復権そのもののような、喜びだったに違いない。啓蟄はそんな喜びを表現している。さあ、外に出るぞ。
死について [2026/03/08,10:55:10]
この年になると何かの拍子に「死」について、よく考えるようになる。いまのところだが「死」は怖いというよりは身近な必然として、遠くない場所に居座っている、という感じだ。病気になって医師から「余命」でも告知されれば一転、パニックになって見苦しいふるまいに及ぶ恐れもあるが、あくまでも今のところ、死は悪魔のような唾棄すべき存在では、ない。ある本に「死は進化によって獲得された能力だ」と書いていた。たとえば胎児の手足は、ひらたいものからニョキニョキと指が生えてくるイメージがあるが、そうではなく、「指と指の間の部分の細胞が自ら死んでいくことで、その形ができていく」のだそうだ。細胞が自ら死を選ぶ能力を持つことで、全体の調和を維持するように作られているのだ。大腸菌のようなバクテリアは原則として不老不死で、ゾウリムシには寿命がある。寿命は有性生殖と不可分に関係していて、有性生殖をする生物には寿命がある。
中2 [2026/03/07,11:05:15]
朝方、すごい風の音で目が覚めた。2階の寝室はちょうど家と事務所の谷間で風の通り道。音が激しく泣き叫ぶから「咆哮」とはよく言ったものだ。この風で思いだした。ずっと不快に思っていたのだが、路上を嬌声を上げて通る小中生のことだ。昔よくいた酔っ払いたちの怒声や歓声とよく似ている。いまは酔っ払いがいなくなったので、ガキたちの無礼な大声が余計目立つのかもしれない。小学生なら3,4年生、中学生なら2年生といったあたりが犯人だ。小学生でも低学年と高学年、中学生でも1,3年生は静かで、路上で騒ぐのはもっぱら中2なのだ。中学1年生はまだ小学生の面影を残している。中3になるともう高校生に近くなっている。中2を見分けるのは容易い。中2というのはガキ真っ只中なのだろう。その傍若無人さに、本気で腹を立てたこともあるが、奴らも受験準備に入るあたりから自然と大人しくなるようだ。先生も大変だろうなあ。

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