文章 [2025/09/15,11:29:33]
3連休は結局ずっと「原稿書き」をしていた。10月からはじまる、ある新聞連載のための、ラフ・スケッチのようなものを作っているのだ。書きたいことは山ほどあるのに、ある過ぎるためか逆に文章がとっ散らかって、とてもヒトサマに読んでもらえるようなものに仕上がらない。プロではないし、とにかくこちらの真意が伝われば、などとアマチャンなことを考えているのだが、紙上に発表されればプロもアマも関係ない。読んでほしい思いに変わりはない。能力がないのに高望みする。自分に下駄をはかせて1センチでも背を高く見せようとする。中に入る編集者におもねって読者に媚を売る。自分の原稿はみんなそれらに当てはまる。恥ずかしい。正直になるしかない。でも正直な自分をさらけ出しても、それがどうした、と読者はしらけるばかり。難しい。
足の爪 [2025/09/14,09:43:31]
70歳を超えてから「爪がのびるのがはやい」。そんな気がしてならない。月に2,3回は指の爪を切り、足指は月に1回だ。他の人のことを知らないので、この回数が多いのか少ないのか何とも言えないが、最近はしょっちゅう爪を切っている気がして、爪のことが頭を離れない。若いころは爪が気になることはなかったが、足爪に関しては、山に行くようになった50代後半から、登山靴に引っかかるので、よく切るようになり意識するようになった。デブなので、足の爪を切るのもひと騒動だ。おまけに目も悪いから、しばしば肉まで余分に切ってしまう。さらに硬さに負けて、爪の両端は切り残しがいつも出てしまう。足爪切りの専門家が近所にいれば、まちがいなくお金を払ってでも行く。風呂に入っていても、足の爪が気になる。切り方がまばらで爪の形がいびつになっている。きれいに丸くカット出来たら気分がいいだろうな、と風呂の中で思っている。
東京 [2025/09/13,10:34:50]
下旬にどうしても東京に行かなければならない用事ができた。まずは難関のホテルを予約しておこうと検索すると、神保町周辺のホテルは2万5千円台が「普通」。コロナ禍前は1万円ちょっとで泊まれたのに、下手をするとそのときから3倍近くに値上がりしている。2泊する予定なのだが、宿代だけで5万円、などという土地に行くのはさすがに勇気がいる。そこで、新幹線の途中駅、大宮駅周辺で宿を探すと、けっこう名のあるホテルが、みな1万円台前半ではないか。すぐに予約を入れた。大宮から東京駅までは新幹線で25分。仕事場から県立図書館まで行く時間じゃないか。まるで問題はない。終電も遅くまで走っているから、神田周辺で友人と一杯やってもゆとりで帰れる。そうか都内に泊まらなければ、こんな形の旅が可能だったのだ。これからはこれをルーチンにしよう。東京行が増えそうだ。
カレー [2025/09/12,09:14:22]
年に3,4度、無性にカレーが食べたくなる。自分で作っていた時期もあったが、いまは「ココイチ」で間に合わせている。食べるのはいつも「野菜カレー」だ。それで満足なのだが、カレーソースとご飯の食べ合わせが悪いのか、赤ちゃんの拳ほどの白飯がいつも残る。そこで昨日はいつもの野菜カレーに「追加ソース」をプラスした。たっぷりのカレーソースで食べたのだが、やっぱりいつもと同じように白ご飯が残った。あれっ、これって何? 追加しても意味はなかったのだ。その原因をいま冷静に考えているのだが、結論は出ていない。ココイチのカレーには猛烈なファンいるようだが、そんなに旨いと思ったことはない。やはり母親の作ったカレーにはかなわない。それと、けっこう「しょっぱい」というか塩味が強いのに、いつも驚く。これはチェーン店ではの何か理由があるのだろうか。
メモパッド [2025/09/11,09:10:03]
仕事場と寝床と外出用バックにメモ帳が常備してある。必需品だ。ずっとコピーの裏紙を手帳サイズにカットして、自分で綴じてメモ用紙を作っていたのだが最近、無印良品で「優れモノ」を発見、ずっとそれを使っている。14センチ×10センチの200枚綴りで、少し黒っぽい(再生紙?)紙を使ったメモパッドだ。かなりの厚みがあるのだが、値段はなんと100円(!)。100円で毎日使う必需品が手に入るのだ。それも1冊で半年は持つ。このメモパッドに替えてから、裏紙の3倍くらいメモ用紙を多く使うようになった。コピーの裏紙は「もったいない」意識が前面に出て、逆にチビチビとしか使わない。無印のこのメモパッドは、たぶん1日に5枚以上使っている。なくなると困るので10冊ほどストックを買い求めた。値上げは構わないが、あまりの安さには販売中止、という事態を恐れている。最近買ったものの私のヒット作である。
お金 [2025/09/10,10:14:43]
友人のFさんからお米を分けていただいた。Fさんは農家でも何でもないのだが、大潟村に親しい人がいて、そこで刈り入れなどを手伝っているので、お米はいつも豊富にある。新米ができれば今あるものが古米になる。今はちょうどそのつなぎの時期。その古米になりかけの米を分けてもらおうという魂胆だ。Fさんはすぐに玄米を1升ほど届けてくれた。ありがたい。米ぐらい買えばいいだろう、と言われそうだが、「お米を買う」という行為は、なかなかハードルが高い。お米はお金で買うものではない、という米どころ特有の、「へんな感情」が抜きがたくあるためだ。お米は親しい農家から「いただくもの」で、農家とそうした関係にない人が、やむなく「米を買う」。でも去年あたりから、こうした認識にも影が差し始めた。今年は一度だけだがスーパーで米を買った。ものすごい敗北感というか屈辱感があったことを正直に告白しておく。お前は秋田に住んでいて、農家に友達の一人もいないのか、と笑われているような気がするのだ。まあこの感覚というのは現地に住むものしかわからない。多分、来年からは私もお金で米を買うようになるのだろう。それもしょうがない。
落語 [2025/09/09,09:02:41]
最近、テレビは圧倒的に「落語」を聞くために観ている感じだ。プロ野球はダラダラと面白くないし、NHKのノンフィクションにも目新しいものはない。毎週1回あるEテレの「日本の話芸」や「おとなのタイムマシン」の落語番組が、今や最も愉しみになってしまった。録画して時間のある時にゆっくり見ているのだが、この頃は偉そうに落語家の「下手と上手」が少しわかるようになった。画面の高座を見ないで目をつぶって噺を聞くのだ。そうするとより一層、上手と下手が意識できる。その世界にどれだけ引き込まれるかが重要なカギなのだが、登場人物にまったく感情移入できない、うるさくガサツで派手な演者も少なくないので、すぐにこりゃダメ、となる。古典芸能は「通」なる人が多い。その人たちが大手を振って歩く世界でもあり、ハードルが高いが、そんなものは無視して愉しめばいい。自分の価値のモノサシで「好き嫌い」を決めるのが一番だ。多くの落語に接しているうち、自分勝手な評価も自然にレヴェルアップしていく。やはり多く聞くことが大切だ。これだけは間違いない。
LED [2025/09/08,09:22:09]
また新しい1週間が始まった。いくつになっても月曜日というのは緊張感があり、勝手に身構えてしまうところがある。月曜日に関して何も感じくなると、本物の世捨て人だ。そのくせ金曜日になるのが思いっきり早いのも困りものだ。何もしないうちに1週間が過ぎてしまう。トシヨリはなんとも厄介だ。ちょっと変化があるのは、仕事場の蛍光灯の一部がLEDになったこと。そこだけ明度が違うので、気になってしょうがない。残りの蛍光灯もLEDに替えてしまいたいが、どこにも故障がない。9月は決算の月だ。何かとあわただしくなる。これもまた苦手だ。希望は靴が3足ともすべて新品になったこと、か。外出や散歩が楽しみになった。ワクワクするのはそれぐらいだ。
科学 [2025/09/08,09:12:18]
カヴァーの装丁を「南伸坊」さんが描いていると、かなりの確率で、内容を無視して本を買ってしまう。悪い癖だが、伸坊がカバーを描いてる本が面白くないはずはない、という「偏見」が抜きがたくある。作家の小川洋子さんの『科学の扉をノックする』(集英社文庫)も伸坊がカバー絵を描いている。かわいらしく、ユーモラスで、上品な絵だ。いつものように即決で買い求めた。「宇宙」や「鉱物」「核とDNA 」「粘菌」「遺体科学」といった科学の世界ののトップレベルの研究者たちを訪ね、文系の小川が話を聞いてくるという本だ。訪ねた科学者7名の中、最終章に登場したのが「続木敏之」という異色の人物。どこかで聞いたことのある名前だなあ、と思ったら元プロ野球選手(阪神)で、現在は阪神タイガースのトレーニング・コーチではないか。章題は「肉体と感覚 この矛盾に挑む」だ。なんとなく野球のトレーニング科学は、他のスポーツよりも遅れていて封建的と思い込んでいた。この章を読むと、いやいやなかなかのもの。うさぎ跳びや水泳禁止(肩を冷やす)、水飲み禁止世代としては興味満載のインタビューだったが、やっぱり伸坊の装丁する本は面白い。
長田弘 [2025/09/07,10:17:58]
いろんなところに「置き本」してある。「置き本」というのは池内紀の造語で、便所で読む本のこと。私の場合、寝床用、外出用、便所用と車用の4か所に「置き本」がある。2,3冊、読みかけの本が、それぞれの場所に置いてあるのだ。その4か所に共通の作家の本がある。詩人・長田弘の文庫本エッセイ集たちだ。「自分の時間へ」「読書からはじまる」「すべて君にあてた手紙」、「私の好きな孤独」……といった文庫だ。長田さんとは生前、新宿の飲み屋さんで一度だけお会いしたことがある。津野海太郎さんが紹介してくれた。長田さんの置き本は詩集ではなくすべてエッセイ集だが、どの1冊も読了まで至らず7,8割のところで、そのままになっている。音楽、コーヒー、旅、酒、読書……といった定番のテーマを、この詩人でなければ生み出せない、独特で新鮮な言葉で紡いでいるエッセイなのだが、なぜかみんな未読のままなのだ。その理由ははっきりしている。昔、これらの本が新刊の単行本で出た時、ちゃんと読んでいる本ばかりなのだ。結末(最終ページ)までなんとなく予測できる内容だし、同じところを何回読んでも感動する。だから、一度読んていても、なにかしら手元に「置いておきたい」本なのである。私より10歳上の長田さんが亡くなったのが10年前だ。今の私と同じ年の時に亡くなっている。お会いした時、ほとんど会話らしきものができなかったが、同時代を生きた哲学者のような詩人と会えたのは、今もっ私の誇りだ。「いつまでも読了できない文庫本」というのも、考えてみれば長田さんの好きそうな言葉だなあ。

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